バイト終わりに平凡な幸せよ
「惚れた女を守りてぇって思うのなんて、自然な感情だろ…」
消え入るような、絞り出すようなか細い声で虹村くんは言った。顔を背けてそっぽを向くから、その頬の赤みがいやでも わかってしまう。
惚れた女。それは――文脈からすれば。どきんと心臓が高鳴った。なんて素敵な響きだろう。
「えっと、そ、それは」
職員用出口の前で硬直して、うごけなくなってなにも言えなくなってしまう。
バイト先から自宅までは人気がない道を歩かなくちゃいけなくて怖い。そんなことをこぼしたのは、今日の昼休みの話だ。
まさか迎えに来てくれるとは思ってもいなくて、動揺してしまう。
さらには――こんな――率直な言葉が聞けるなんて。
真っ赤な横顔を直視できなくて、思わずうつむいた。背後の扉越しに、休憩室から従業員の笑い声が聞こえる。思わずビクッとしてしまって、顔をあげて苦笑した。
「とりあえず……さっさと行くぞ」
「ウ、ウン。あの、ありがとうね」
「別に」
ぶっきらぼうな言葉も、別に嫌じゃない。
虹村くんは、冷たいように見えてとても人間味溢れた人だ。冷徹さを装っているからこそ、身内にはとても甘い。億泰くんに対する風当たりの強さだって、愛情の裏返しでしかないのだ。
自分もそのなかに入っているのだと思うと……嬉しい。
引ったくるように手のひらをかすめ取られた。凍える指先は、いったい何十分前からお店の外で待っていてくれていたんだろう。暖めたくて強く握り返す。
無言で家までの帰路を歩く。歩幅が大きくて、ついていくのが大変だ。ちょっと手を揺らすと、気づいてくれたのかペースがゆったりに縮まった。
こういう、些細なリアクションが嬉しくてたまらない。
虹村くんがわたしを気にかけてくれる。思いやってくれる。なんでもない日常が、すごく特別なものに思えて泣きそうになる。
弓と矢による父親殺しを虹村くんが諦めるまで――紆余曲折あった。日常のなかでお父さんと向き合うことを選んでくれたことが、心から嬉しい。
「おやじがよォ」
「へっ。あ、うん」
考えを見透かされたよ、思わず変な声が出てしまう。虹村くんはそんなわたしを無視して、じっと前を睨みつけるように険しい顔をしている。
……なにかあったのかな。
「お前に会いたがってた」
「そう……なの?」
「ああ。おやじのやつ、しつけたことも言い聞かせたこともすぐ忘れるくせに、自分に優しいやつのことは覚えてンだよ。都合がいい脳みそしてやがるよな」
吐き捨てるように虹村くんが言う。
事実だけを述べるような淡々とした声音に、憎しみがまじる。
わたしはなんと返せばいいのかわからず、そうなの、と相槌を打つことしかできなかった。虹村くんはしずかに首を振る。
「そうじゃない」
「ん……んぅ」
「最近、おやじが俺に怯えなくなってよ……」
「あ……」
虹村くんは度々、やりきれなさを叩きつけるようにしてお父さんに暴力を振るっていたそうだ。自分に優しい人の区別がつくというのなら、自分に酷いことをする人の区別もつくのだろう。
きっと、お父さんに怯えられていたんだ。
忘れ去られて怯えられて、それに苛立って手をあげる。愛憎のループは容易に想像出来た。
「いまは、うまくやれてるんだ」
「……いまは、だいたい、億泰がおやじの世話してるしな……」
つぶやくような言葉には、億泰くんに世話を任せられるようになった、という意味が込められている。
「お父さんが会いたがってくれてるなら、こんどホットケーキでも作りにいこうか?」
「そうしてくれっと、億泰のやつも喜ぶ」
「虹村くんはよろこんでくれないの?」
「ばぁか」
呆れるようにため息をついて、虹村くんは私の言葉を無視する。
こういう他愛のない話を穏やかにできることが嬉しい。ふざけたわたしは虹村くんの腕に抱きついて、慌てながらもされるがままにいてくれる虹村くんに心から感謝した。
虹村くんが十年間遠ざけていた穏やかな日々を、これからすこしずつでも取り返していく手伝いができたらいいな、と心から思う。
2015/05/31:久遠晶
穏やかな世界過ぎて書きながらむせび泣いてた
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