日溜まりの硝煙
毎週木曜日、午後五時半から六時の間。
私はその時間を、今か今かと待ち望んでいる。
私の知る世界はひどく小さい。
子供の頃から慣れ親しんだ病室の白と、窓から覗く空模様の移り変わり。幼いころ走った街の景色――私が実際に目にしたものは、その程度のものだった。
それ以外はすべて聞きづて。写真でしか知らない景色と本でしか知らない知識しかない。
ちっぽけな世界だ。
いつだって息苦しくて、瘴気のように部屋に満ちる消毒液の匂いが私の鼻を麻痺させる。
だけど――『小さな兵隊さん』との時間だけは、自分のことも病気のことも、すべて忘れていられる。
コツン、と窓を叩く音をした。
私はびくんと肩を跳ね上げさせて、慌てて窓の鍵をあける。
サッシの部分に、ちょこんとミニチュアフュギィアのような『小さな兵隊さん』が立っていた。
私が窓を開けると、隙間から身をすべらせるようにして兵隊さんが入ってくる。今日はひとりだけかと思ったけど、すぐにわらわらと数十人の兵隊さんが続けて入ってきた。
兵隊さんが持ち込む外の陽だまりの匂いが室内に充満していく。それだけで部屋の無機質さがなくなって、心地よい空間になる。
「久しぶり、兵隊さん」
また来てくれたことにほっとして、自然と唇が持ち上がった。そんな私に彼らはビシッと敬礼ポーズをかっこよく決めてくれる。兵隊さんたちなりの挨拶だ。
私が手を差し出すと、兵隊さんのひとりが掌に乗り上げる。
手に座った彼のヘルメットを人差し指で撫でていると、ほかの兵隊さんから『イー』という非難の鳴き声が飛んできた。
慌てて、一人ひとり順番に掌にいざなって撫でてあげる。すこし低めの声はすぐに甲高い嬉しそうな声へと変わった。
私の手に乗ったり肩にしがみついたり、布団の上でせわしなく動く兵隊さんを見ているのはとても楽しい。
「ふふ、みんなかわいいね」
「イー、イー」
「どうしたの?」
注目を促すように不意に兵隊のひとりが立ち上がって、身体をもぞもぞと動かした。
背中に隠した手になにを持っているのか、私にはすぐにわかってしまう。掌サイズのジップロックは、兵隊さんたちの横幅よりも大きいのだ。それでも私は知らないふりを決め込んで首を傾げる。
肩にしがみついていた兵隊さんのうち何人かが、ぺちぺちと私の頬を叩いた。瞼を優しく触る手つきがむず痒い。
無言のサインを感じ取って目をつむる。すると、手の軽いものが乗せられた。
「これは……どんぐり……?」
懐かしい。まだ私が病に伏せる前、一度だけ山で拾ったことがある。
ジップロックに入った、帽子と枝をつけたままのどんぐりを青空にかざした。添えられている赤茶けた葉を太陽光が透かしてきれいだ。
「そっか。もう秋なんだね……教えてくれてありがとう、兵隊さん」
相槌のかわりに、兵隊さんはビシッ! と敬礼を決めた。頭を差し出されたので、人差し指でまたヘルメット越しに頭を撫でてくれる。同じ顔をした兵隊さんに表情はないけど、鳴き声が高くなったので喜んでくれているのだと思う。
兵隊さんは喋らない。喋らないけど、身振りや鳴き声は雄弁だ。
お見舞いに訪れては空々しい心配の言葉を吐く親戚よりも、無言の兵隊さんたちと居るほうがずっと楽しいし心や休まる。
「また、数値が大きくなったんだって。お母さんと先生が話しているとこ聞いちゃった……」
「病気治すには手術しかないの。でもメス入れるのは怖いな」
「兵隊さんは風邪とか、するの?」
「いやだなぁ……怖いなぁ……」
兵隊さんは、私が弱音を吐いてもじっと黙って聞いてくれる。
お母さんやお父さんに言ったら、きっとふたりは困ってしまう。だから胸にためこんでいた言葉や不安を、兵隊さんになら吐き出せる。
本当は、兵隊さんも私の弱音に困っていたり悲しんでいたりするんだろうか。わからない。わからないけど、兵隊さんはじっと私に視線を寄せて聞いてくれる。
励ます言葉も慰める言葉もないけれど、それがかえってありがたい。
「……ごめんね。いっつも私ばっかり。聞いてくれてありがとう兵隊さん」
涙をぬぐって笑ってみせる。兵隊さんはビシッと敬礼で返してくれる。兵隊さんの敬礼にはいろんな意味が込められているんだろうな。
兵隊さんがなんなのか――それを私は知らない。
毎週日曜日の誰も居ないときに現れて、誰かが来る前に去っていく。妖精さんかと最初は思ったけど、それにしては姿が現実的すぎる。
妖精さんならもっとこう……羽とか生えていてもいいはず。
以前兵隊さん本人にそうこぼしたら、次の週はヘリコプターに乗ってやってきた。そういう意味ではなかったんだけどなぁ。
そういったやりとりの末に、兵隊さんは自分の意思があって、私の言葉を認識・理解していることははっきりしている。
私は兵隊さんが好きで、兵隊さんも私を好いていてくれているならそれ以上のことはない。
「弱音ばっかりじゃだめだよね。手術頑張る……そしたら、お外で兵隊さんたちと遊びたいな。……お外で遊んでくれる?」
兵隊さんは全員でビシッと敬礼をした。YESかNOか、どっちなんだろう。
なんとなく、この場合の敬礼には兵隊さんは答えを出したくないニュアンスがある気がする。無理なお願いだったかな。
「じゃあ……また。会いにきてくれる?」
ビシッとまた敬礼。これには答えたくないニュアンスはなく、はっきりとした肯定だとわかった。
心底安堵する。よかった。血液があったかくなって、身体のこわばりがとけていくのがわかる。
微笑むと、兵隊さんはベッドから窓辺へと集まっていく。お別れの時間だ。
兵隊さんは窓から次々と飛び降りていく。
「いつか……あなたのお名前、教えてね?」
兵隊さんはその言葉になにも答えない。
最後の一人がぴょんっと窓から飛び降りるのを見届けてから、窓から身を乗り出す。
地面を見るも、そこには兵隊さんの影も形もなかった。
兵隊さんとのひとときは楽しいけれど、この瞬間だけは嫌いだ。夢から覚めて現実を突きつけられたような虚無感と悲しさを感じる。
もらったどんぐりをぎゅっと握り締める。兵隊さんは、自分の証を残すようにプレゼントを私にくれる。それがあるから、私は自分のことを精神異常者だと思わないでいられるのだ。
顔をわずかに上げて遠くを見ると、病院の門へと歩いていく人影がある。
黒い服に身をつつんだ、色素の薄い逆立った髪の男の人だ。背中に垂れ下がる一本のみつ編みが、まるで獣の尾のように揺れている。
兵隊さんが居なくなったあと、必ず門へ向かう男の人の後ろ姿がある。
それが単なる偶然なのか、必然なのか――わからない。
だけど確かに、私はその人に兵隊さんを重ねていた。その人の背中を見ると胸がきゅっと締め付けられる。顔は知らない。声も知らない。
それなのに恋に似た感情を抱くなんてばかみたいだ。
話しかけることも出来ず、遠巻きに背中を見つめて……やがて道を曲がって消えていくと、ほっと息をつく。
つながりなんてなにもない。
でもいつか、兵隊さんの名前とその人の名前を、知れたらいいなと、いつも思う。
2013/9/22:久遠晶
もしいいね!と思っていただけましたら送っていただけると励みになります!