とげだらけの手
「虹村くんって、結婚したら絶対亭主関白になるよね」
「なんだよいきなり」
のその言葉に、形兆はミリタリー雑誌から視線をはずして変な風に眉をねじ曲げた。
先程まで机に向かって勉強にいそしんでいたが、今は形兆をじっと見つめている。
いつの間にこちらを見ていたのか。
気づかぬ間にミリタリー雑誌に熱中してしまっていたのか、の気配が薄いのか。おそらくは前者だ。
誰にたいしても警戒心旺盛で心を開かない形兆が、だけは意識のそとに置いてしまう。そばに他者がいることを忘れてくつろいでしまう自分を嫌悪すらしなくなったのは、ずいぶんと昔の話だ。
「虹村くんと結婚するひとは苦労するよなぁ~って!」
「そもそも結婚しねぇよ」
「独身貴族?」
「子供嫌いなんだよ、結婚する意味がねぇ」
「へぇ。あんがい出来たら子煩悩になりそうだけども」
「俺がまともに育てられるわけねぇだろ」
のんきな声に形兆は鼻をならした。
幼い頃に虐待を受け、父の変貌後は弟と兄弟二人で生き抜いてきた。親からまともに育てられた記憶などない自分が、適切に子供を育てられるとは思わない。
人並みに憧れはあるが、それ以上にあの父親の血が受け継がれると思うと嫌悪感があった。
「俺が子供育てたらぜってぇ殴るしな……」
「……ごめんなさい」
そういうふうに生きてきたから、きっとそういうふうにしか育てられないだろう。
形兆がただ己の事実のみを述べると、の消え入るような声が聞こえた。
はっとして現実に引き戻される。
形兆の過去も生い立ちも、はすべて知っている。知ったうえで形兆のそばにいる。
だからこそ、形兆の言葉は凄まじい重みとなってのし掛かったことだろう。話題を出したことを、後悔しているかもしれない。うつむいてスカートの裾を握る姿は痛ましさすらあった。
形兆はこういうときのフォローが苦手だ。上っ面以外での他人と穏やかな関係を築いたことがないから、心をさらけだしたうえでの円滑な関係の経験値が圧倒的に足りないのだ。
言葉が出てこないから、結局形兆は手を出す。
雑誌をきちんと閉じて床に置いて、の方へ身を乗り出す。肩をつかんで顔をあげさせ、またうつむかないようにもう片方の手で顎を掴む。
「クチあけろ」
「にっ、じむらく――」
不平を言おうとした唇を同じもので塞いだ。ちょうどしゃべっていたところで口が開いていたから、無遠慮に舌を差し込む。
我が物顔でを蹂躙する度に形兆は思う。なんてひどい扱いなんだ――と。
を不用意に傷つけて、ごまかすために肉体を行使している。
とのキスは好きだ。今までしてきたどの女よりもの唇は柔らかく、形兆に吸い付いてくる。舌の温度も申し分なく、こすりあわせると後頭部がざわざわとして興奮する。唾液が多いのは滑りがよくて心地よいが、顎を伝ってすぐ溢れるのが難点だ。しかしよだれを恥じらうは見ていて気分がいい。
半ば自分のためにキスを繰り返していた形兆は、肩を押し返す手に気づいてはっと我に返った。
「い、きなり……どうしたの」
「べつに」
「嫌だった訳じゃないんだよ?」
居心地悪くなりながらそっぽを向く。はあわてて付け加えた。
嫌に決まっている。モノ同然に扱われて不快にならない人間などいない。
が抵抗しない理由は、拒絶したら最後形兆の歓心が買えなくなると思っているからだ。
形兆はそれが面白くない。感情を押し込んで、人形のように振る舞う。決して形兆を拒まない。その都合のよさは形兆にとって不快でしかなかった。
は決して無口なタイプではない。物静かではあるが、会話と触れ合いを好む性格なことは間違いない。の沈黙は、ひとえに形兆の寡黙さにあわせているからだ。それも面白くない。
珍しく喋ったと思えば、こんなありさまだ。ますますは我を封じることだろう。
それは嫌だったが、どうすることもできない。
形兆がをそばにおく理由を、は勘違いしている。誤解を解く魔法の言葉を知っていても、口に出すことは憚られた。
「今日、するの?」
「お前、なにかほしいもんあるか」
が服のボタンに手をかけるのと形兆の言葉は同時だった。
「買ってやるよ。たとえばアクセサリーとか……最近新作出たよな。青いイヤリング」
「そういうの興味ないから、いいよ」
間を置かない返事はあきらかに嘘だ。いつもいつも道端のショーウインドウを見つめて立ち止まっていることを、形兆は知っている。
買ってやると言っているのに遠慮する。それが気にくわない。
黙り込んでいると、は困ったように笑って形兆に唇を押し付けてきた。
「ほしいものはないから、いいよ」
「そうかい」
胸板に顔を押し付けるの背中をそっとなぜる。いつも形兆を受け入れてばかりのが抱きついてくることは珍しい。腕のなかにいるのに、は形兆の「物」でしかない。
――わたしは虹村くんの物でいいよ。なにされたっていいの。使い捨ててくれれば、それでいい。
――そうかい。じゃ壊して捨ててやるよ。
当時心の底から安堵した捨て身の献身は、いまや形兆とを縛る枷となって身動きさせなくしている。
好きだと言えばは喜ぶのかもしれない。しかしその言葉になんの意味があるのだろう。永遠に変わらない愛情などあるはずがない。の献身だってそうだ。
身を呈して相手に尽くすことも、のために自分を崩すこともできなかった。
それにこの言葉は関係の終着点であり終了を意味する。そうなればきっとは、形兆を自分の腕から地面へと投げおとすだろう。
救われていない人間を救いたいだけで、救われて独り立ちしたあとのその人物に興味などないのだ。
――好きだと言えば、どうせ。
かげる形兆の表情に気づいたは首をかしげる。ごまかすように口づけした。
「おねだりしてもいいなら……」
「なにかあるか?」
「やっぱりいいや」
「言ってみろよ」
「好きって言って」
「……なにをバカなことを」
大袈裟に舌打ちをすると、は困ったように笑った。
表情はなんとも思っていないふうだが、その奥で確実に感情は傷ついているのだろう。
形兆はずっと前から、こうやってを壊し続けている。
関係に耐えかねるのはどちらだろう。
苦々しい心中を隠して、形兆はを抱き締めた。
2014/9/25:久遠晶
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