隣のぬくもり


 肩を抱く冷たさに形兆は眉をしかめる。ストーブの前を億泰が陣取っているから、台所に立つ形兆まで温もりが届かないのだ。こたつに入っているくせにまだ寒いらしい。
 時は12月31日、大晦日である。時刻は七時を回り、ブラウン管はバラエティー一色に染まる。なにがそんなにめでたいんだ、と浮わついたテレビに向かって舌打ちをした。

「億泰」
「……ん」
「億泰、交代しろ」
「んー」
「今すぐこっち来ねぇとバッド・カンパニーでストーブ壊すぞ」
「そ、それ兄貴も困るだろッ!」

 テレビを見ながらぼへっとしていた億泰は、形兆の脅しに慌てて台所にやってくる。

「今日の夕飯はなんだ~?」
「鍋。つうわけで、ちょいとカツオ削っとけ」
「おぉ~ッ本格的だなァ」
「鍋のもと使うとお前がうるせーんだろうが」

 億泰は子供舌のわりにはグルメである。舌が敏感で、出来合いのものかそうでないかすぐにわかるのだ。好みにうるさく、しかも誰に似たのか不機嫌になるとネチネチと文句を言い出すものだから――結局形兆が折れて、真面目に料理をする羽目になるのだ。
 うまければ手放しで褒め称える億泰と料理に対しても几帳面な形兆は、噛み合う時は相性がいい。億泰が文句を言い、形兆の怒りの虫が目を覚まさない限りは。

 硬い干しカツオと削り器を億泰に託した形兆は、肩をすくめながら素早くストーブの前へと移動する。こたつに入るとじんわりと暖かさがしみてくる。
 ごうごうと重厚な音を響かせる石油ストーブは体に悪そうな臭いがするが、やはり便利だ。
 寒さにこわばっていた体を緩めて吐息を吐き出せば、気持ちすらも軽くなるようだった。
 と――そのとき。

 ガオンッ!!

 と、常人には聞こえない、感覚の耳でのみ知覚できる音が響いた。その音を、形兆はよく知っている。

「あにきー言われたとおりカツオ削りとっといたぜーついでに生ゴミも削りとっといたぜ」

 慌てて台所に向かうと、きんぴらごぼうにする気でまな板の端に寄せていた大根やニンジンの皮がきれいさっぱりなくなっている。
 それどころか、まな板の一部分が大きくえぐれている。ザ・ハンドの手が触れたのだろうか。
 億泰は自慢げに胸を張った。億泰としては気を効かせたつもりなのだ。

「てめー…俺は削れっつったんだよ!! 誰が削り取れっつったよ!!」
「えっ!! わっわりぃ! 俺買い直して――」
「大晦日のこの時間にやってるスーパーがどこにあんだよ…!」

 怒りに拳がわなわなと震える。カツオがなければ鍋が作れない。そこまで鍋にこだわっていたわけではないが、億泰のバカさ加減にはうんざりしていた。
 形兆は律儀で几帳面であるが、心が広い人間では決してない。特に唯一の身内と言っても差し支えない億泰には、ことさらに辛口な人間であった。
 億泰の胸ぐらを掴むと形兆は拳を振りかぶる。

「お前なぁ! ちったぁかんがえればわかることだろーがよォ! この――」
「ただいまぁー」

 形兆の拳が億泰の頬にぶち当たる瞬間、玄関から間抜けな声が響く。形兆は思わずびたりと拳を止めてしまった。
 胸ぐらをつかむ手から力が抜けたことをこれ幸いにと、億泰は形兆の横をすりぬけて玄関へと向かう。

ーっ! おかえりーっ。バイトおつかれぇ」
「ただいま、億泰くん。いやー今日は寒いね~」
「雪降ってたのかー?」
「そう! 寒くて寒くてまいったよ」
「億泰~っ」

 にまとわりつく億泰を呼ぶと、彼はあからさまに肩をはねあげさせた。
 のまわりにいれば形兆が怒れないとタカをくくっている姑息さに腹が立つ。
 別にに遠慮してやる必要などないのだ。は剣呑な雰囲気をひどく嫌い、仲をとりなそうと気を使うが、そんなもの一喝して黙らせればいいのだ。

「……タオル持ってきてやれ」
「お、オウ」

 億泰はギクシャクしながらも素直に洗面所へと駆けていった。玄関でコートについた雪を払っていたは、形兆が近づくと息を潜めてわずかに身を寄せてきた。

「なにかあった?」
「……あとで説明する。だが言っておくぜ、俺は悪くねぇ」
「そう。でも、喧嘩っぱやいのはよくないよ?」
「おめーは俺のお袋かなんかか……あぁ、お前、コートの雪どうにかする前にその頭どうにかしろよ」

 頭に積もった雪にが気づく前に、手が延びていった。
 頭に手を滑らすと、雪は髪の毛を伝うようにして玄関のタイルへと落ちていった。
 かすめた頬は冷たい。外は極寒であったことだろう。

「虹村君の手、あったかい……」
「タオルもってきたぞ~」
「ほれ、これで頭ふけ」

 億泰から受け取ったタオルをに渡す前に手が動く。
 髪の毛をタオルでわしゃわしゃとかき回すと、手つきが乱暴だったのかは痛い痛いと首を振る。押し留める手に罪悪感を抱くよりも気分がよくなるのだから性格が悪いと、形兆は自分で思う。
 手を差し出すとは濡れたコートを形兆に向けた。タオルで水滴や雪をぬぐいとって洗面所にかけておく。

「さっさとあがれ。暖房ついてっから」
「うん! 今日の夕飯、お鍋だっけ? 楽しみ~」
「うげっ!」
「ん、……ん?」
「はぁ……俺は言ったぞ、『俺は悪くねぇ』ってな」

 台所の惨状を見ては困った笑い顔のまま硬直してしまった。
 改めて眺めると、指の形に沿ってえぐれたまな板は直視に耐えがたい。木製のまな板はカビが生えやすいがその分手入れのしがいがあった。
 母が死んでから荒れ放題になっていた台所は形兆が成長し料理の心得を身に付けるにつけ次第に再生し、形兆にはそれが心地よかったというのに。

「なんていうか、その、億泰くんはまわりに聞こう? その、ええと」
「殴っていいぞ」
「うー……殴りたいわけじゃないんだけど……」

 隠そうとしても隠しきれない落胆の色に億泰はまごついて言い訳を探しているようだった。

「ほんとゴメンなぁ」
「いいよ、怒ってないから……わざとじゃないのは聞けばわかるしね。でも気を付けてね?」
「甘すぎる……」

 同居をはじめて数ヵ月立つ。も感情を出すようになったとはいえ、甘い対応は変わらない。そう言う性格なのだろう。

「やる前に考えるってことをしろよ、億泰。お前は。無能は足引っ張るどころかしりぬぐいまで他人に押し付けることになるんだからな」
「考えたつもりだったんだけどよぉ」
「んー、億泰くんは考え込むと墓穴掘っちゃうタイプだからなぁ。なにも考えないぐらいが億泰くんらしいんじゃない?」
「はぁ?」

 形兆は眉をしかめた。
 考えてこれなのだから、考えないで実行したらどのような惨状を作り出すのか。
 はにっこり笑う。

「億泰君は優しいから。なにも考えないで思ったことをすれば、それが人の心に響くと思うよ」

 頬を染めているのは寒いなか歩いて帰って来ていたからだが、それ以上に瞳の色は暖かかった。
 億泰はの言葉がよくわかっていない様子で首をかしげた。形兆も納得がいかない。

「億泰くんはそのままでいいんだよ」
「……そ、そうかぁ~へへっ」
「でもこういうときにはちゃんと考えようね」 「ううっ」 「億泰を増長させんなよ。つうかメシどうすんだよ」
「そ、そういえばそうだった。ええと、どうする? 豚肉あるし豚汁にする? 白菜とかは煮浸しにして……」
「豚汁にしてもカツオだしは必要だろ」
「えっ、そうかな。豚肉でだしがとれるから、他にダシはいれたことないや」
「豚肉でダシ?」
「うん。とにかく、カツオだしはなくても大丈夫だよ」
「信じられん」
「まあまあ、試してみてよ。わたしが作るから、信じて待ってて」
「そうしろ――いや」
「ん?」
「リビングに座ってろ。やりかた言え。俺が作る」

 形兆が言うと、は目をぱちぱちとさせた。
 呆けている間に背中を押してリビングの椅子に無理矢理座らせる。

「作り方は基本と同じだよな」
「う、うん……ありがとう、虹村くん」
「兄貴、まだのこと信用してねぇのかよ~っ……」

 台所に向かう背中に、億泰の不服げな呟きがかかった。さすがに先程の今で意見を主張する勇気はないらしく、ぶつくさと呟くにとどまっている。

「あれはわたしをいたわってくれてるんだよ」
「そうかァ?」

 その言葉には大いに不服だ。しかし言い返すのも子供じみているので、形兆は聞こえないふりをしてやり過ごした。

 すでにわいている鍋に材料を突っ込み豚汁の用意をはじめる。後は時間が料理をしてくれるだろう。
 形兆はココアとコーヒーを用意すると、リビングのこたつへと向かう。

「ほらよ」
「あっ、ありがとう」
「兄貴ィ俺のは?」
「あるわけねぇだろ」
「うぐっ」

 ばつの悪そうな顔をする億泰と憮然とした態度の形兆を見比べて、は苦笑した。いさめる言葉がないのは、この程度は『仕方がない』と思っているらしい。
 こたつの真ん中に座っているが端によったので、遠慮なく隣に座る。こたつ布団をめくって冷えた足をいれると、中の空気が瞬時に冷えるのがわかった。その分形兆の足には暖かさがしみていく。
 足の居場所を探すと、形兆の爪先は靴下越しに柔らかいものに触れた。

「ひゃ! 虹村くん足つめたーい」

 どうやらの足だったらしい。身をすくませるの反応が大げさだったので、つい形兆は凍えた足先での足を追いかけてしまう。
 狭いこたつのなか、の足を両足でとらえるとはいやがってじたばたと足を振った。

「冷たいってー! すごいからだ冷えちゃうからやめてよ、せっかく暖かくなってきたのに」
「俺だって寒い。お前十分暖かくなってんだろ」
「ぬくもりを奪わないでよ……きゃっ! ふとももはだめだめ」
「でもって普段からあったけーよな」
「脂肪が多いんだろ」
「ううぅぅうっ! 冗談でも言っていいことと悪いことがあるよ」

 は憤慨して、隣にいる形兆を押して距離を取ろうとする。が手を使ってきたので、形兆も手を使う。赤くなっている耳を、感覚の失せている指先でふさいだ。は悲鳴をあげていやがる。

「うっせーよおまえ。静かにしろ」
「ひぃんっ! だって冷たいもん、あっ、だ、だからくすぐんないでよっ」
「あー、あったけぇ」
「やめてよぉおおお……」

 耳を塞ぎながらもう片方の手をうなじから衣服のなかに突っ込む。は身をよじった。寒さで鳥肌がさざ波のように広がり、形兆の指先を刺激する。

「にっ、虹村くんだって筋肉あるから代謝いいし寒くないはずでしょ」
「俺は体脂肪すくねぇからさみーんだよ」
「こんなの横暴だよぉ……」

 抵抗を諦めてテーブルにつっぷすは半泣きに近い。もう少し遊んでやろうか、と思って指を動かそうとしたが、はバイト帰りであることに気づく。

 は虹村家に来てからアルバイトを始めた。
 生活費を渡すためだ。
 父親の『遺産』――もう、社会的には死んでいるようなものだ――はある。ひとり、たいした負担ではない。むしろ家事を分担できるは貴重な人材だ。月々数万円で家政婦を雇っていると思えば安いものだ。
 それは形兆も説明したが、やはり心苦しいのだ。形兆にもそれは伝わったから、のアルバイトにはなにも言わなかった。

 なれないバイトで戸惑うことばかりだろう。年末で何連勤もしているのだ、疲れていないはずがない。

 それを忘れて無体を働いたことに罪悪感がわいてくる。ごまかすために立ち上がった。

「あ、配膳手伝うよー」
「座ってろ。億泰がやれ。落としたらぶっ飛ばす」
「ん、んう」

 ご飯に豚汁のみの質素な食事のなか、テレビのバラエティーだけがハイテンションだ。

「たまにはこういうのもいいね」
「お前は量食わねーからいいかもしんねーがな……」

 夜はふけ、もう夜の十時半だ。
 そこからぐだぐだしていると、すぐに時間は立つ。こたつに転がって寝息をたてる億泰を尻目に、年越しのカウントダウンがはじまる。

「こういうのはじめて。楽しいな」

 そりゃあ、あの家庭環境では穏やかな年越しなどあり得ないだろう。にとって形兆たちとの生活ははじめてのことだらけのはずだ。
 日付がまたいで零時を越える。テレビの向こうでは歓声と共に年越しの挨拶が叫ばれている。

「あけましておめでとう虹村くん」
「今年もお前の顔見続けると思うとうんざりするぜ」

 形兆がいうと、は嬉しそうに笑った。
 先程から気づかぬうちに重なっていた指先に、熱がこもる。
 今年の今頃もがいる風景を願い、同時に裏腹に父親を殺して喪中になることを望んでいた。
 飼い慣らせない感情は、それでも今のところはうまく同居していた。均衡が崩れない限りは、このままの生活でいられるだろう。
 テレビを眺める横顔を見ながら、形兆はその肩口に鼻先を押し付けた。重たいだろうと思って、なるべく体重はかけないように。
 の肩は暖かく、形兆の冷えた鼻先を優しく暖めた。
 息を吸い込むと甘い香りがする。それは形兆の心を魔法のように落ち着かせた。
 されるがまま、形兆の行動に気づかないふりをしてくれるのがありがたい。
 時計の針の音が響く中、形兆はなるべくすがらないようにしながらの体温に甘んじていた。





2014/4/1:久遠晶
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