情熱に満ちた音
音石明は、妙な男だ。ギタリストに憧れ、常にエレキギターを手放さない。
時たま感情が高ぶるとその場で即興で曲を奏で始める。
以前、海水浴にもギターを持っていくのかと聞いたら、彼はテーブルに身を乗り出して「どっちだと思う?」と、秘密を打ち明ける時のようににやりと笑った。気がする。
声がわずかに高くなり、語尾がやや間延びしたから、やっぱり、あの時彼は笑っていたのだと思う。
目が見えない私だが、声の些細な変化で、相手の表情はなんとなくわかるものだ。
特に音石明は、感情の変化がひときわわかりやすい人間でもある。感情を音楽に昇華させたがる人間なのだから、それは当然の話だろう。
「岸辺露伴センセって知ってっか?」
リビングのテーブルに紅茶を持っていくと、音石が不意にそう言った。
私が席に座るより先に、音石が自分の紅茶を持ち上げる音がする。飲み込む音がよく聞こえる。
「知らないね」
「えっ見たことねぇ?ジャンプ漫画だぜ」
「聞いたことはあるけど読めないからね」
「あっそれもそうかぁ」
ギシリと安物の椅子がきしむ。音石が背もたれに大きく体を預けたのだ。
「そりゃ目ぇ見えなきゃ読めねぇよな」
「朗読会とかあればいいんだけどね」
自分で淹れた紅茶を堪能しながら、少し頬が緩む。
音石は良くも悪くも気を使わない。不快な時も多いが、有難く思う時も多い。
「まぁーいいや。その岸辺露伴センセってのが、いまハタチなんだけど、16歳でデビューしてんのよ。そのあとすぐ連載、今も人気絶好調……シビれるよなぁ?」
ジャジャーン、とエレキギターによる合いの手。
「音石も見習わなきゃな。才能あるんだし」
「……俺に相応しいバンドがあればな」
声がわずかに低くなってくぐもる。くちびるを突き出しているのだ。この声音は拗ねているぞ。
「きみ、まさかまたバンド辞めたの? 何度目?」
答えはなく、無言で手首を掴まれた。手のひらを人差し指で撫でられる。
「……7回? 言っちゃなんだが揉め事起こしすぎだろ」
「下手なんだよ、あいつら」
音石に言わせれば、たいていのアマチュアの演奏は拙く、聴くに耐えないものなのだ。
偉そうに酷評するだけの卓越した技術が、音石にはある。だからこそ、同じ実力の人間と切磋琢磨し合い、高めあって成長しあう機会が得られないのは損失でもある。
「なぁ、またヴァイオリン弾いてくれよ。久しぶりに聴きてぇ」
「腱鞘炎が治ったらな」
「いま聴かせろよ」
「い、や、だ。指が痛いんだ」
「なぁって」
がたりとテーブルが揺れた。机に突っ伏した音石が駄々をこねる。子供か。
「ヴァイオリン、処分したわけじゃないんだろ?」
「あるけどやらない」
「じゃあ――なんで楽団辞めたんだよ」
急に真面目な声を出すものだから、息が詰まってしまう。
「……少なくとも、きみのような子供っぽい理由でないことは確かだな」
「茶化すなよ」
肩を竦めようとすると、手首をぐいと掴まれる。手を握らされる。
それで、私の心を感じ取ろうというつもりなのか。この少年は。
彼は怒っているのだ。
「痴情のもつれだよ」
ピクリと音石の指先が反応する。
音石の手のひらはしっとりしていてなめらかだ。音楽家の端くれとして、手入れを怠っていないのだ。
細くて長い指の先端だけが、ギターだこで固くガサついている。
「聞くに耐えない、くだらない理由だよ」
例えばこの指を握って、そのまま手首を傾ければ、それだけで私はこの少年の人生を台無しにできる。骨折を治す間に、演奏技術は地に堕ちてしまうのだから。
音楽家にとって身体は武器であり、同時に弱点だ。
だから本当は、こんな風に人の手の中に委ねてはいけない。自分の指の大切さを、音石はわかっていない。。
こんな風に、たやすく、委ねては……骨を折ってくれと言っているようなものだ。
「嘘だな。楽団辞めたの……腱鞘炎とか痴情のもつれとか、んなくだらねえ理由じゃねえんだろ」
「くだらないよ。私の理由なんて」
例えばすれ違う通行人が人間がナイフ隠し持ってるなんて、ふつうは考えもしない。少なくとも真昼間の往来で突然切りかかられるとは思わない。
それは生きていく上で培われた、人間に対する信頼のようなものだと思う。ある意味でおごりだ。 そう。私はおごっていた。悪意に鈍感になって、武器を委ねた。
その結果が──。
ブルリと指先が震えた。誰かの手に自分の指が触れている、という状況が耐え難い。
音石はひどいことをしないだろう。と考えているのが信頼なのかすがっているのか、わからない。
くだらない理由だ。武器をゆだねて奪われた。くだらない。理由なんて、ないんだ。
「ピアノ弾くの、嫌いになったんだ。あの楽団、身の丈に合わなかったんだよ」
「……そうかい」
震える私に、やっと音石が引き下がった。するりと手が抜けていく。
私は息を吐いた。吐息すらも震えて、ひどく情けない。
「じゃあ、俺の曲聴けよ」
ジャーン、とエレキギターが鳴った。
そのままエレキギターをつまびかせ、指を馴らしはじめる音石に戸惑った。
「なんでそうなるんだ」
「だって、ピアノ弾いてくれねぇし、辞めた理由も教えてくんねぇし。新曲作ったんだよ、聴いてくれよ」
「いや…聞いたろ、私もう音楽嫌いになったんだよ…」
「嫌いになっても、意見は言えるだろ」
さらっと言ってのける音石に、開いた口がふさがらない。
今の私にとってこれは、アレルギー食材を無理やり食べさせるようなものだ。なるべく、音楽を遠ざけて生きていたいのに。
なんて俺様なんだ。この性格は問題だぞ。
問答無用でギターに入り込む音石にため息が出た。
音石の深呼吸が聞こえて、 音が止まる。
そして、世界が作り変えられる。
普段あらゆる動作の音が大きいくせに、こんな時音石は一切音を出さない。
呼吸音も、リズムをとる靴の音も、服ずれの音も、あらゆる音を消して、ただただギターだけから音を出し続ける。
エネルギッシュなクセに、その実音石はかなり繊細な男だ。
新曲は確かに心地いい。メロディアスな音楽が心を掴み、引き込もうとしてくる。サビの盛り上がりも転調も申し分ない。
収束していくメロディに耳を澄ませながら、ちょっと泣きたくなる。
「……ありがとうございました。じゃ、つぎ」
「まだあるのか」
「たりめーよ。この音石ちゃんを舐めんなよ」
なにが当たり前なんだ。もう一度ため息が出た。
多分、彼は私を再び惚れさせようとしているのだ。音石本人にではない――音楽にそのものに。
自分のギターで引き戻そうとしているのだ。
音楽の世界に、私を。
胸が辛くなった。
随分と年下の少年に…いや、もう青年か──よほど心配されているらしい。ありがたいとは思えない。煩わしい。放っておいてほしい。
本当にいやなら、黙ってソファに座ってないで、立ち上がってやめろと言えばいい。どなればいい。
ギターの方向に向かって、ティーカップを投げつけてやればいい。
それが出来ないのは――結局私も、まだ音楽を捨てきれない、ということなのか。
今はまだヴァイオリンの前に立てない。弓を持って弦を押さえることもできない。
演奏する自分を想像しようとすると、『あのとき』を思い出して呼吸が荒くなる。恐ろしい。
しかしまた弾けるようになるだろうか。
音石の弾くバラードに目をつむる。自然と涙がこぼれ出てきた。
私はいったいなにをしているのだろう。
音石明は妙な男で、はっきり言って面倒な男だ。
調子に乗りやすくうざったい。 だがやはり、音楽に対しては真面目なのだ。奏でる音に真摯さを感じる。
だから私は──この青年のことを、とても好ましく思ってるのだ。
いつだって、自分が忘れていたものを思い出させてくれるから。
ギターを掻き鳴らす音石が、音もなく笑った。気がした。
2016/11/18:久遠晶
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