ラパートの涙



 プリンス・ラパートの滴というガラスをご存じですか?
 まあ露伴先生ならなんでもご存じですよね。
 ……お返事してくださってもいいじゃないですか? 沈黙は否定ですか?
 まあいいや。
 融解したガラスを冷たい水のなかに落としこんで作るガラスですよ。強化ガラスの性質を持つために学校の授業で教材として用いられることもあるそうです。
 おたまじゃくしの尾を引き伸ばしたようなそのガラスの面白いところは、膨らみの部分を金槌で叩いてもびくともしないのに尾の部分をすこしでも折ると瞬間全体が砕け散るところです。
 それはもう跡形もなく、粉々に。
 面白いですよねぇ。外側が水で急激に冷却され、内側はじっくりと冷えていく。そういう特殊な固まり方をするから、こんな面白い性質になるそうです。
 金づちにも耐える強度を誇るのに、尾をぺきっと折ると全体がくだけ散る脆さをあわせ持つ。
 なんて儚いんでしょう。
 私もいま、そういう気持ちです。


   ***


 床に散らばる割れた陶器を見ながら、はそう独白した。
 の表情に陰りはないが、笑みもない。はじめて見る表情に、岸辺露伴は心臓を握りこまれたような気分に陥った。
 片付けをやろうとしても『近づかないでください』と有無を言わせない声で制されるため、露伴は3メートル離れたところで立ち竦むばかりだ。

「きっと露伴先生の心の本に『他人を思いやる』って言葉はないんでしょうね……」

 ぞっとするほど抑揚のない言葉。普段下らないことで笑い、泣き、怒る少女とは思えないほど、感情が削ぎ落とされた声色。
 それでいて瞳は抜き身のナイフのように鋭く尖っている。

「悪かったよ……」
「悪いで済んだら警察はいりません」

 辛うじて絞り出した言葉は即座に切って捨てられる。
 しゃがみこんで陶器の破片を指でたどるに、なんと声をかければいいのか。
 破片をいじくるのをやめさせないと、指を切ってしまうかもしれない。そうなったら露伴のせいだ。

 ――いや待て。本当にこの僕のせいなのか。

 露伴は床を汚す肉じゃがの残骸と陶器の破片を睨みながら思考を巡らせる。
 の家を訪れたのは夕方五時頃の話だ。
 思い付きで急に来訪してきた露伴に、はあきれたように眉を下げ文句を言いつつも、夕食の準備を中断して紅茶を振る舞った。
 しばしの雑談ののちに夕食の仕込みを再開する背中やの部屋の小物をスケッチして、露伴は有意義な時間を過ごした。
 エプロンを着こなすは悪いものではなかったし、規則正しい包丁の音も耳に心地よかった。
 非常にいい参考資料だ。
 ここまではいい。
 ここまではなんの問題もなかったのだ。

 だがだんだんと鍋から肉じゃがの匂いが立ちのぼってくると、先ほどスケッチし倒したの背中が、まるで違う意味合いを帯びてくる。
 時折振り返っては「露伴先生って、お味噌汁は濃い味派ですか、薄味派ですか?」と首をかしげるがかわいらしく。
 料理中のため後ろでくくった髪が動くたびに揺れて、白いうなじがちらりちらりと垣間見える様子が非常に色っぽく映る。
 ああそうか、と露伴は思う。
 よくドラマや少女漫画で見る、男に女が料理を作る時の陳腐な表現。
『まるで新婚さんみたいだね』
 というのは、この感覚を指しているのが。
 ありきたりな表現と言えど、的を射ていることは確かだ。
 納得した露伴は、そこからの行動は早かった。『まるで新婚さん』という気分を味わい、好奇心と欲望を満たすべくに忍び寄る。
 露伴は気付かなかったのだ。すこし考えればわかったはずなのに――いや、心のどこかでは危険だとわかっていたのだが、それ以上に好奇心が支配していたのだ。

「なあ、くん――」
「ひゃっ!?」

 突如耳元でささやかれ、腰に腕を回されたが動転した。
 肩を弾ませた拍子に、持っていた陶器が手からこぼれおちる。
 落下する陶器は衝撃で砕け、肉じゃがが茶色い海を床に形成した――。
 これが経緯だ。
 はさも露伴が悪いような口ぶりだ。確かに僕も悪いところがあった――露伴は思考する。
 申し訳ないとは思う。それ以上に納得できなかった。驚いたあまり皿を落とすなんて誰が予想するだろうか? いや、内心ちょっとその危険があることには気づいていたが、まさか本当に落とすとは思わないじゃないか。注意力のなさを他人のせいにするなんて性格が悪い。そう、は自身の失敗を露伴に押しつけているのだ。
 だから――そう。僕は悪くない。
 以上で露伴の言い訳と論理の組み立ては終了した。
 自身の潔白を確認すると、罪悪感よりも苛立ちの方が強くなる。

「あのなぁ、確かに僕も悪かったかもしれないが。だが落としたのはきみだぜ。そんなに大事なら額にでも飾っておいたらどうだい。料理はどうしようもないが、どうせその皿は安物だろう? 今度買い直してやるよ。それで機嫌を――」
「形見なんですよ」
「え?」

 言葉を遮られた怒りよりも先に、疑問符が口をついて出た。

「形見なんです。これ。祖父の……」

 の声が震えた。
 陶器が割れてからずっと押し殺されていた感情が、ようやっと垣間見える。
 怒りではなく嘆きだ。
 陶器に込められ、重ねてきた思い出が今、あっけなく砕けてしまったことへの嘆きだ。

 喉がひりついて言葉がうまく出てこない。
 露伴はいよいよ、握りこまれていた心臓をそのまま潰されるような気分を味わう。
 背筋に汗がにじみ、分泌される唾液が呑み込めずに口内へと溜まっていく。持ちあげた指先の行き場が分からずに宙をさまよう。

「じょう……すけに頼めば」
「仗助くんのクレイジー・ダイヤモンドは物質を直せても、壊れてしまった気持ちは繋げてくれないんです」

 先ほど揺らめいていた嘆きは再び成りを潜めている。それは、露伴相手に涙は見せてやらないぞ、という悲しい意地に思える。
 明確に拒絶され、露伴はうっと言葉に詰まった。
 あらゆるシチュエーションを想像せねばならない漫画家は、しかしこういう時にどう謝ればいいのかわからない。
 土下座。泣く。買い直す。抱きしめる。怒る。ごまかす。
 選択肢のパターンは湯水のごとくあふれてきた。だがどれが最適かわからず、効果がありそうなものを実行するには露伴のプライドが許さない。

「出てってください」
……」
「出てってください」
「……わかった」

 強い語気で言われ、根負けした露伴は絡みつく何かを振り払うように足を引きずった。

「すまなかった」

 どうにかそれだけ口にし、の家をあとにする。
 お互いの声はかすれていた。
 玄関を出る時に聞こえてきた嗚咽に露伴は舌うちをし、頭を掻いた。
 あんな表情が見たくて、急に来訪したわけではなかった。





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2013/6/11:久遠晶
 話の流れ的に『恋愛沙汰に興味なし』を先に読むとより笑えます。
 自由にコメントなど書いていただけると嬉しいです~