岸辺露伴は共に苛立つ
首を掴むの指は細く小さい。
生きているかを疑ってしまうほど伝わってくる体温は冷たく、僕を見つめる瞳に生気はなかった。
僕との身体を受け止めるシーツの感触に現実味はあるのに、僕に触れる指先には現実味がない。
「絞めたいなら絞めろよ」
はなんの反応も示さなかった。
五歳年下の人間にベッドに押し倒され、首を両手で掴まれている。なかなかに倒錯的な絵面だ。
「死ぬぎりぎりまでは、リアリティの探求と思って抵抗しないでおいてやる」
どす黒いヘドロを凝縮したような光のない瞳が僕をぼんやりと見つめている。
瞳のなかに僕は映っているが、きちんとが僕を認識しているかはわからないのが本音だ。
「露伴先生を殺せば、ヘブンズドアーの書き込みは消えるんだよね?」
「そうさ。殺すかい、僕を」
首を掴む手にわずかに力がこもった。かすかに喉に圧迫感がし、苦しくなる。だがそれだけだ。
他人を殺せない――などと書き込んではいない。だから、殺さないのは、殺せないのはの意思と理性だ。 自分を痛めつけるのが大好きで、自分にかぎってはどんなひどいことも出来るくせに、他人を害することは出来ない。
こいつはそんなくだらない女だ。
くだらない……女だ。
は僕の首を圧迫したまま、静かに唇を動かした。
「どうしてこんなひどいことするの」
「首を絞めてる人間に言われたくはないな」
「わたしはただ、幸せになりたいだけなのに」
「なればいいだろ」
「露伴先生の書き込みが、それをさせてくれないんだよ」
違う。を不幸にさせないために、僕はに書き込みをしたんだ。
それでも、僕のヘブンズ・ドアーはにとっては地獄への扉なんだろう。
「『自殺することができない』なんて書き込むぐらい、露伴くんはわたしが嫌いなの?」
違う。大切だから、死んでほしくないから書き込んだんだ。
そんな叫びは言葉にならないし、言葉にしたとしてもの耳には届かない。
視界の下側に吸い込まれている手首には白い包帯がある。
くそ。
口の中に苦味が広がって、僕は顔を歪めた。
包帯の巻かれた手首を掴むと、痛かったのかは顔をしかめた。ヘドロのような黒い瞳に、恍惚の色が宿る。長らく感じてなかった痛みなのだろう。
どうしてそう死に近づきたがるのか、僕には理解できない。漫画のためなら自分が傷つくこともやぶさかではないが、自虐趣味そのものは僕にないのだ。
「虹村形兆にやってもらったのか、この傷は」
「虹村センパイはいい人だよ」
露伴くんと違って――言外のイヤミが伝わって、僕は不愉快な気分になった。
に対しても虹村形兆に対してもだ。
虹村形兆はどうやらこの女が好きらしい。
好きだからこそ、この女の代わりにこの女の手首を切り裂いた。倒錯していて理解できない。
虹村形兆なりにこいつを理解しようとした結果なのだろうが、人のせっかくの書き込みをむげにするようなことをしやがって。
「虹村形兆はお前を殺してはくれないぜ」
「でも……死に近づけてくれる」
この女は『死』という救いを求めている。
理由はわからない。ヘブンズドアーで読んだこの女の中身はただ『死にたい』という切実な悲鳴で埋め尽くされていて、理由がわからないことに彼女自身も追い込まれているようだった。
を生かしていることは、僕のエゴなんだろうか。考えないわけじゃない。考えないわけじゃないが、誰も僕を非難は出来ないはずだ。
非難するなら、今すぐを殺してやればいい。それが出来ない人間に僕を非難する資格はない。
だから――僕を非難できるのは虹村形兆だけだ。
アイツはアイツなりにこの女と向き合って、こいつを救う方法を考えている。
「お前が虹村形兆を好きなのは、あいつが法で裁けないとはいえ人殺しだからなんだろうな」
はなにも言わなかった。
ただ静かに涙をこぼした。
「ひどい人だね、露伴先生って。死なせてくれないなんて」
「……お前が、死ななければいいだけの話だ」
自然と苦虫を噛み潰した表情になる。
ふいにの指先から力が抜けた。首の圧迫感は消えるが、息苦しさは変わらない。
彼女は僕に興味を失ったように、鞄を掴むと部屋から出ようとする。
「」
小さくて細い背中に声をかけた。はわずかに首を動かして僕を見る。
本当に僕を見ているんだろうか。
見て、くれているんだろうか。
「昔みたいに」
昔みたいに、お兄ちゃんって呼んでくれよ――切実な悲鳴は言葉にならず、なったとしても届かない。
結局僕は言葉を溜息にして、首を振った。
「いつでも僕を殺しに来いよ」
薄暗い死に近づけば、こいつのことをすこしでも理解できるんだろうか。
は表情を変えず、僕の言葉を無視して部屋を出て扉を閉めた。
今日も僕は死にたがりの妹を前になにも出来ず、無為な時間を消費した。
妹に救いが訪れる日はいつだろう。
その救いは、僕の救いにもなってくれるだろうか。
2013/6/26:久遠晶
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