虹村形兆は共に汚れる

 ざあざあざあざあ。
 バスの屋根に叩きつけられた雨が断続的に甲高い音を立てる。
 突然の篠突く雨だが、傘を携帯している俺には雨など関係がない。この雨のなか傘も持たずに走り抜ける人々をバスの窓越しに見つめて、ひとり優越感に浸る。
 ん、と思考がそれたのは、バス停の屋根の下でひとりの女が突っ立っていたからだ。
 ぶどうが丘高校の制服を着た背の低い女は、傘を持たずに空を眺めている。道路に背を向けているから、バス待ちではなく雨宿りなのだろう。

「定禅寺ー、定禅寺ー」

 バスが到着したので、立ち上がって降りる。
 そばに立つと、こちらに背を向けている女が誰かはすぐにわかった。

「なにしてんだ」
「虹村センパイ」

 頭だけを動かして女――が俺を見上げた。
 世の中の絶望を凝縮させたようなどす黒い目が俺をぼんやりと見つめる。

「これからお帰りですか?」
「傘でもわすれたのか」
「それもあるんですけど」

 は言う。

「雨に打たれるのが好きで」

 ポツリと言葉をこぼすは、濡れていなかった。

「……でも、『風邪引くかな』って思っちゃったら……動けなくなっちゃって」
「あぁ」

 屋根を叩く雨の音に包まれて、俺とは押し黙る。
 は指を空に伸ばして雨に濡れようとした。しかし見えない壁に阻まれているように、その指は屋根の外を出ることはない。
 ぺたぺたと虚空の壁を撫でる様子は、端から見れば出来の悪いパントマイムのようだ。

「露伴の書き込みは雨に濡れるのも制限すんのか」
「自分に害があるとわかってする行為がダメなんです。車に轢かれそうな子供を助けようととっさに道路に飛び出すことは出来ても、飛び降り自殺ははかれません」

 今回の場合は『雨に濡れたら風邪を引いてしまう』という予想がのなか立った。だから行動が制限される。
 ―― は自傷行為ができない。
 露伴がヘブンズ・ドアーでそう書き込んだからだ。
 自殺願望の強いが見ていられなかったのだろう。なんだかんだ言って露伴この女を憎からず思っている。

 ヘブンズ・ドアーによる書き込みは露伴の愛情だが、にとっては奈落の底に突き落とされたような感覚だろう。
 弓と矢という目的を取り上げられた俺には、『もう一度手に入れる』という希望がある。にとっての希望はなんだろうか。

 ――誰かに殺してもらうこと、だろうか。

 虚空へ手を延ばすの指は手入れが行き届いている。手首の傷跡さえなければ、白く細い手は他者の目を引くほど美しい。
 口のなかに苦いものが広がって、俺は思わずその手を掴んでいた。
 よほど長くバス停で突っ立っていたらしく、の指は氷のように冷たかった。

「……虹村センパイ?」

 掴んだ手をそのままに俺は一歩踏み出した。
 屋根の外に出た瞬間、激しい雨が全身を濡らし始める。傘の活躍の場を奪ってしまったが、気にせず歩きだす。
 俺とは数歩歩いた段階で全身びしょびしょになった。
 傘を持っているのに傘をささない俺たちは目立つ。通行人が驚いた顔をして俺たちを見る。

「これで満足か」
「……ありがとう、ございます」
 
 雨音に掻き消されそうな言葉は、礼というより謝罪のニュアンスを強く含んでいた。
 はすがるように俺の指を握り返した。俺も強く握る。
 俺が手を離せばすり抜けて二度と会えなくなるような気がした。



 濡れ鼠になりながら自宅へ帰りつく。玄関に靴がないので億泰はまだ帰っていないようだ。

「ひとまずシャワーに入れ」
「虹村センパイがお先にどうぞ」
「お前が先だ」

 靴を脱いで家に上がる。靴を整えようとしているの首根っこを引っ付かんで洗面所に連行する。濡れた足跡ができるがいまは気にしない。
 自分の使うタオルを何枚か確保してからを洗面所に押し込んで扉を閉めた。

「虹村センパイっ」
「いいからさっさと入れ。風邪引かれちゃ困るんだよ」

 強く言い放つと、ドア越しにが押し黙る。
 ――むしろ風邪ひきたいのに。
 などと思っているのだろうか。つくづく自分を痛め付けるのが好きな女だ。
 衣擦れの音を確認して、俺は洗面所の扉から離れた。

 服を脱いで体を拭いて私服に着替える。
 水の足跡を雑巾で拭いていると、遠慮がちにが洗面所から顔を出した。

「お風呂お借りしました」
「おお。着替え……は、大丈夫か」
「ええと……大きいですね。虹村センパイ」

 貸してやったシャツと短パンは当然だがにはあわない。だぼついたシャツは肩でひっかかって鎖骨が露出し、俺にとっての短パンはの脛までを隠している。
 むやみやたらにソソる格好だ。俺は目をつむって溜息を吐いた。

「茶が入ってる。飲め」
「何から何まですみません」

 シャワーを浴びたからなのか格好が恥ずかしいのか、頬を染めたがぺこりとお辞儀をした。


 他人の料理を食べるのは何年ぶりだろうか。
 とんとんとんとん。
 規則正しく鳴り響く包丁の音を聴きながら、俺はリビングでの料理を待つ。
 シャワーが貸してくれた礼に自分が作ると、が言って聞かなかったのだ。

「……億泰くん」
「なんだ」
「帰ってこないって」
「ああ」
「本当ですか?」
「残念ながらな」
「そうですか……」

 広瀬康一の家に遊びに行って豪雨に直面し帰れなくなった――電話越しの会話を思い出して舌打ちをする。
 普段なら億泰が帰ってこなかろうが大して問題ではないが、がいる現状では話が別だ。

 電車見合せ、バスの運行停止、風で飛び交う看板に剥がれる屋根。外で傘を差せばたちまち反転して壊れる始末。
 すさまじい猛威を振るう豪雨のなか飛び出すことが『自傷行為』と判断されてしまったため、雨が止むまではこの家を出られない。そして予報によれば夜から朝にかけて雨は降り続けるらしい。
 つまり、朝になるまでと二人きりだ。
 正確に言えばおやじもいるが、居るも居ないも似たようなものだ――この状況では。少なくとも抑止力にはならない。

「じゃあ、虹村センパイのためにお料理頑張りますね」
「お前の料理は不味そうだな」
「きっと舌が溶けますよ」

 男の家に泊まるって言う恥じらいはないのか、こいつは。
 意識されるのも面倒なのでどうでもいいが。
 の食事は文句なしにうまかった。思わずおかわりをし、腹一杯に味わってしまった。腹がふくれる満足感を、目の前の小さな女は長らく味わっていないのだろう。
 味見だけで腹がふくれる感覚など、俺にはとうていわからない。
 のことなど……なにひとつとしてわからない。

「俺は億泰の部屋で寝る。お前は俺のベッドで寝ろ」
「ダメですよ」

 自室にを招いて、億泰の部屋に向かおうとした俺を、は服の裾を掴んで止める。

「兄弟とはいえ部屋に勝手にはいるのはよくないです」
「……あのな」
「私、兄に勝手に部屋に入られるのとても嫌です」
「じゃあリビングで寝ればいいんだな」
「私だけベッドで寝させていただくわけにも行きません」
「そうは言っても、どうすりゃいいんだよ」
「一緒に寝ましょう」
「は?」

 思わず間抜けな声が出る。
 俺の動揺を知ってか知らずか、は続ける。

「それがいいです」
「お前な……」
「はい」

 俺を見つめる光のない目に恥じらいはない。
 ため息をつく。
 の隣をすり抜けて自分のベッドの縁に座りこむ。隣をぽんぽんと撫でてをいざなう。

「来い」

 言われるがまま近づいてくるに頭を抱えたくなる。
 警戒心がなさすぎだ。
 隣に座ろうとするの肩を突き飛ばしてベッドに押し倒した。
 生乾きのの髪がベッドに散らばる。は目を静かに開いて、俺を見つめた。

「言ってる意味がわかってんのか」

 キスができる寸前の位置で囁いた。
 顔を赤らめて恥じらえばまだ可愛いげがあるが、はさして動転する様子もない。
 ただ、にごりぎった目で俺を見つめる。

「虹村センパイ好きだからいいですよ」
「……相手ぐらい、選べよ」
「選んでますよ」
「痛め付けてくれる相手を選んでるってか」

 は苦笑した。
 興ざめだ。から身を離してベッドに座り直す。

「しないんですか?」
「お前じゃ興奮しねぇ」
「ごめんなさい」

 は寝そべったまま顔を横に倒して俺から目をそらした。

 は死にたがっている。死ねないのならせめて苦痛でもって死に近づきたいのだと――以前、こぼしていた。
 俺との関係も、俺が法で裁けないとはいえ人殺しの犯罪者だからなのだろう。
 俺に殺されるか、もしくはせめて手酷く扱われることを望んでいるのだ。
 理解できない。
 だが、はじまってすらいない人生が無為に――苦痛と共に消費されていく感覚だけは理解できる。
 その感覚をすこしでも和らげる方法が、にとっては肉体的な痛みなのだ。
 の手首に真新しい傷はない。すべて癒えて完治した傷跡だ。

「お願い……できますか」

 ベッドから起き上がったが静かに俺を見つめる。
 切実な懇願に、自然とため息がもれた。都合よく肯定と受け取ったらしいは、俺の部屋を出てリビングへと向かった。
 自分の鞄をもって帰ってきたの手には『お守り』が握りしめられていた。

 刃渡り三センチ、顔剃り用の『お守り』の手を俺に差し出す。
 カミソリを受けとると、はほっとしたように手首を向けた。
 手首には太い傷が幾重にも重なっている。

「3ヶ月か」
「頑張りました」
「そうだな」

 いままでの最長記録だ。
 の白く細い手をとる。氷のように冷たく人間味のない手首に、カミソリを押し付けた。
 皮膚に刃が埋まり、つぷりと赤いつぶ浮き出てきたあたりで真横にカミソリを引く。
 肉が一文字に裂けたあと、遅れて血液がしみだしてくる。

「うっ、ふ……はぁっ……」

 息を止めていたが辛抱たまらないと言った様子で深く息を吸い込んだ。顔を歪めながらも頬は赤く上気し、うっとりと傷口を見つめている。
 血はの手首を伝い、俺の手のひらを通り抜けていく。は滴る血をもう片方の手で受け止めて、床を汚さないようにした。

「前から疑問だったんだが、痛いのが気持ちいいのか?」
「普通に痛いですよ。だから……実感できるんです」
「実感」
「生きてるんだなって」

 死にたいくせに生きている実感がほしい。よくわからない。
 自分を傷つける以外の方法で『実感』できたなら、は死にたがりをやめるのだろうか。
 やめてくれるのだろうか。

「ありがとうございます、虹村センパイ……これでわたし、もうしばらくはだいじょう――」

 掴んだ手首を引いて、身体を引き寄せる。
 もう片方で後頭部を押さえつけて唇に唇を押し付けた。
 の身体がこわばる。微かな抵抗を、手首を握りこむことで制する。ぬるりとするのは血だ。

「虹村センパ――ぁ」

 声をあげようとした瞬間に舌を押し込める。唇をこすりあわせて、唾液を送って、舌を絡めとる。
 ぎこちなくうごめく舌は俺に応えているのか、舌を追い出そうとしているのか。
 息ができなくなったが、掴んでないほうの手で俺の肩を押す。
 生暖かい湿気が、服越しに肩に伝わる。
 の口からずるりと舌を引き抜いて身を離す。

 は涙目になりながら、口許を血で染まった手で隠した。

「ごめんなさい……シャツ、血で汚しちゃった」

 こんなときでも、怒るよりも先に謝罪が出てくるのか。
 頬を撫でると暖かさが指先に伝わる。もう氷のような冷たさは感じない。いまこの瞬間は、こいつは『活きて』いるのだろう。
 血を流している瞬間だけは。

「気にしなくていい」

 もう一度引き寄せてキスをする。
 の手首から滴る血は俺の手をよごし、ベッドを汚して床にも飛び散っていることだろう。
 明日の掃除を思うとイラついてくるが、思考の隅に押し退ける。
 腰を抱いてもう一度ベッドに押し倒した。

「俺にもくれよ」

 未だこぼれ続ける血を舌先でなめとると鉄の味がした。決してうまくはない。
 傷口に舌をねじ込むとが痛みに顔を歪めた。人形みたいな顔に人間的な感情が浮き出る様子を見ていたくて、俺は好きでもない血液をすすった。
 苦痛に歪む表情が見たいわけじゃない。
 だが、こいつが顔に表してくれる感情は苦痛だけだ。

「……なにを、差し上げ、ればっ、お礼に……なります、か」
「わからなきゃいい」
「ひうっ」

 痛みに言葉を切れ切れにさせながら、健気には俺を見上げる。
 俺が求めているものを、は与えてはくれないだろう。
 を救う方法はあるんだろうか。『自傷できない』という露伴の書き込みではを救えないことはわかっている。
 救う方法なんてわからない。わからないから、せめて一緒に汚れるぐらいのことはしてやりたい。
 どうせもとから俺の手は汚れているのだから。

「……好きですよ、虹村センパイのこと」
「そりゃどーも」

 打算的な愛情のくせにと思うと腹が立つ。
 生きてることを感じたくてを抱き締めた。今だけはが俺のものだと錯覚させてほしい。
 抱き締め返すの腕は頼りない。生きているか不安になって、俺はの肩口に顔を押し付けた。





2013/6/27:久遠晶
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