東方仗助は共に傷つく
リストカットという単語がある。言葉のとおり手首を切る自傷行為で、多くそれは心に闇を抱えた人間が精神的苦痛を紛らわせるために実行する。
自殺の為の自傷と俗に認識されているが、手首を切って死に至ることはあまりない。
だとするなら――彼女は死にたいのではなく、生きたいのだろうか。
東方仗助は調べたての知識を反芻しながら、手のなかで鈍く光るカミソリを見つめた。仗助自身はヒゲソリ派なので、これは母が顔剃り用に使っているものの新品だ。
仗助が心に描く少女はいつだって薄暗い目をしていて、手首には幾重もの傷がある。少女がなにを抱えているかはわからないが、人生に希望を抱いていないことは明白だった。
――どうして消してくれないの。私がそんなに嫌いなの。死なせてよ、お願いだから。
切迫した叫びが耳にこびりついている。
死にたがりの少女に対し、兄である露伴はヘブンズ・ドアーによって自傷行為を禁じた。少女は心のよりどころを失くして、露伴に泣きながら食って掛かった。
そこに居合わせてしまったのが仗助と形兆で、仗助は重たい空気に気まずさを感じるよりも泣きたくなった。
の悲しみと絶望が仗助には理解できないからだ。
仗助は死にたいと思ったことなど一度もないし、なにかを人から――祖父から、しげちーから――託されるたび、使命感を新たにしてきた。だからの気持ちはわからない。
クレイジー・ダイヤモンドは人の負傷をたちどころに治してしまえる。しかし心の傷は癒せない。
治したがりの仗助にとって死にたがりのは、吉良吉影とはまた別の意味で対極に位置する人間だ。
だからこそ気になる。
人は、人、自分は自分。そんな言葉で片付けられないほど、仗助はが気になってしまう。
踏み込みたくなる。癒したくなる。引き上げたくなる。心からの笑みを向けてほしいと――恋ではなく純粋にそう思う。
息を止めて、仗助は手首にカミソリを押し当てる。そのまま真横に引こうとして、結局仗助はいつまで経っても動かすことができない。
「……だめだ、やっぱ、わざわざ怪我すんのなんて意味わかんねぇ」
カミソリを手首から離してぷはぁっと息継ぎをする。
自分も同じことをすればすこしでもを理解できるのではないか、という真摯な興味本位は実行できなかった。
他人の負傷は治せても自分の負傷を治すことはできない仗助は誰よりも痛みを知っている。自分で怪我を作ることはできない。
「なんで……こんなこと。したがるんだろうな……」
自傷しようとしてわかったことは、自分とが決定的に『違う』人間であるということだけだ。思い知って悲しくなる。
光のない瞳を、どうにかしてやりたいのに。
そんなふうに物思いにふけっていたから、仗助は洗面所に乱入してきた母、朋子への対処が遅れた。
「仗助ーッちょっと洗面所貸しなさい! 急に外出かけることになって」
「うわああああッ」
勢いよく肩を押され、勢いで手首のすぐそばにあったカミソリが動く。
ぎゅこ。
擬音を耳ではなく身体で感じて、身が凍った次の瞬間には手首から血がほとばしっていた。
「だーッなにすんだこのアマーッ!」
「あんた仮にも母親に向かってアマとはなによ! あら大丈夫?」
「あら大丈夫? じゃねーっ」
「振り回さないでよ血が飛び散るでしょう!」
どくどくとあふれ出す血に動転する。じくじくとした痛みを感じて、やっぱり仗助はこんなことをしたがる理由がわからなかったのだった。
***
金曜日の夜にそんなことがあり、土日を挟んで月曜日の朝。
鋭く切れていた為かすでに傷はふさがり、赤くかさぶたのようになっているものの包帯も必要としなくなった。
家を出て学校に向かっていると、道端で合流した康一と億泰が仗助の手首に興味を示した。
「どうしたんだい、それ? 大丈夫?」
「新手のスタンド使いかぁ?」
「ああ、これちょっとカミソリ使ってるときにお袋にぶつかられてよォ」
「うわー、痛そう。ご愁傷様」
「包丁とか使ってるときに後ろから突進されたりとか勘弁してほしいよなー」
「億泰くん、お父さんとそんなことあったんだ」
「じゃれつかれんのはかまわねぇんだけどよ~」
「親父さん元気そうでよかったぜー」
通常なら手首に傷と見ればウッとするのだろうが、康一も億泰も仗助の怪我の多さは知っている。スタンド使いにされたものではないと知るとほっとした。多少心配されつつもすぐに話題は移り変わっていく。
基本的に学生服の長袖に隠れて、傷は他人に見えない。朝康一たちから質問された以外は特に気付かれず、仗助も怪我を忘れていた頃合だった。
「どうしたんですか……それ」
休み時間。髪をかきあげた拍子に、服のすそからちらりと見えた赤い線に、隣の席に座るが気付いた。
ぱし、とが仗助の腕を掴んで、手首の傷をまじまじと見つめた。普段さして感情をあわらさない瞳に居心地の悪さや恐怖と言ったものが浮いていることに気付き、仗助はあわてて説明した。
「カミソリ持ってるときにお袋に突き飛ばされてよぉ」
「突き飛ばされて手首に? どういう体勢だったんですか」
「いや、その」
まさか『の気持ちを知りたくて手首を切ろうとしていた』などと言えるはずもない――ましては本人だ。必死に頭をめぐらせてを安心させる言い訳を考える。
「実はスタンド使いに襲われてよォ。ガードしたら手首が」
「ガードして内側が傷つくなんて、どういう攻撃されたんですか」
「えっと……」
「いいですよ、ムリにごまかさなくて」
は唇を引き結んで、手首をそっと撫でた。いたわるような手つきだ。
怪我の理由を明らかに誤解されている。いや、実際に手首を傷つけようとしていたことは確かだが、意味合いがまるで違う。
「仗助さんが辛いのに気付けなくて、ごめんなさい」
「いや……そんな顔すんなよ……悪い……」
「違うんです。ごめんなさい、謝ってほしいわけじゃなくて、だから、謝らないで」
今にも泣き出しそうな表情に動転した。
仗助の手首を見つめて目が伏せるに胸が辛くなる。罪悪感がむくむくとわいてきて、どうすればいいのかわからない。
息がつまって、仗助は目をそらした。
も――仗助がの手首に傷を発見したときと同じ気持ちなんだろうか。あの時仗助は、になんと言ったか。
不意には顔をあげた。
「仗助さん、このあとお暇ですか」
「へ? 放課後は特に予定ねぇけど」
「えぇと、そうじゃなくて……つまりその、これから喫茶店にでも行きませんか?」
は立ち上がるとノートを鞄に押し込んで、仗助に首をかしげた。
言っている意味がわからなくてぼんやりと見つめていると、は苦笑した。
「おサボリデートに誘ってるんですけど、どうかな」
口の端をもちあげてわずかに笑う。
普段あまり笑わないだが、こんな表情もできるのかと仗助は驚いた。
気をもませてしまっているらしい。
仗助は苦笑して、好意を受けるために身支度を整え始めた。
――どうして、死にたく思うようになったのか、ですか?
――いつからでしょうね。
――小学校三年の頃に家族の溝に気付いてしまって、それからかなぁ。
――ああ、溝っていうのは、家族と血がつながってなかった、ってそれだけなんですけどね。
――ショックだったな、あれは。
――でもなんとなく理解できました。私と義兄……露伴先生は両親からすごく過保護に育てられたんですよ。特に私は、友達の家にお泊りなんて絶対にだめだったし、門限も同世代の子よりすごく早くて。たまにはすこしぐらいハメはずさせてくれてもいいのに。
――その過保護さは、『他人の子』だからなんだなーって。
――そう思ったら納得できて、私も『他人の子』として迷惑をかけないようにと思いました。
語る言葉は他人事のように淡々としていた。
「中学にあがったころにはもう、だいたい今みたいな感じでしたね。ただそのときはまだ我慢できたかな。具体的になにが引き金だったのかっていうのは、ちょっとわからないです」
はそう言うと、困ったように自分の手首を撫でた。インドア派だというのにいつも手首に巻いているリストバンドの奥になにかあるか、それを仗助は知っている。
きちんとした説明が出来ないことにすまなそうにしながら、はティーカップを傾けた。
「あっ、なんかすみません、私ばっかり話しちゃって」
「いや、いいぜ。もっと話してくれよ」
「面白くないでしょう、私の話なんて」
は目を伏せてうつむく。
昼時のカフェ・ドゥ・マゴは活気に満ち溢れているというのに、仗助とのテーブルだけはしんと静かだ。二人で使う四人席が広い。
どう返せばいいかわからず、仗助も自身のカプチーノへと手を伸ばした。
温かさがのどを滑り落ち、気持ちが落ち着く。
「そりゃ、楽しい話じゃあねぇけどよ。それを言うなら俺の話だってそうだしよォ。俺は、のことが知りたいぜ~」
「でも、仗助さんはなにかにお悩みなんでしょう。そりゃ、ムリに喋れとは言いません。そーゆーことに至る理由なんて、私にだって説明できませんし」
「そう……だな」
「『感覚』なんですよね、結局」
「そう……か。だな」
『自』傷したわけではない仗助にはわからない次元の話だ。仗助があいまいに頷くと、は仗助の目を見据えた。テーブルの上の仗助の手に触れ、きゅっと握る。
「だから仗助さんが……私の話で気がまぎれるというなら、いくらでもお話します」
「お前も……お前こそ、大変だよな」
「仗助さんだって大変ですよ」
「そうか?」
「そうですよ! スタンド使いとのこととかでいつも傷だらけだし……そのうえ……」
の言葉は尻すぼみになって消えていく。ただでさえ怪我が多いのにさらに自分で傷つけてどうするのだ、という心配が言外に伝わってくる。
胸が痛い。
手首を傷つけて、すこしでものことを理解しようなどと、バカな考えだった――と心から反省の念が沸きあがってくる。同時に、だましていることへの罪悪感がじくじくと仗助の心をさいなむ。
は人の痛みを自分の痛みのように感じる性質なのだ。がどう感じるかなど、すぐ考えればわかるはずだったのに。
「なあ。違うんだ、本当はこの傷は自分でやったんじゃなくて、本当は――」
「おい」
「あ」
「相席いいかって聞こうとしたんだが……取り込み中か」
テーブルの傍らにやってきた虹村形兆が、触れ合った仗助との手を見て、不快そうに眉をひそめた。
テーブルの傍らにやってきた虹村形兆が、触れ合った仗助との手を見て、不快そうに眉をひそめた。
は形兆を見上げて、それから伺うように仗助を見た。
仗助もを見つめて、伺うように形兆を見上げる。
しかめっ面と視線がかち合う。形兆はナニヤラ機嫌が悪いらしい――理由に察しはつく。
形兆はにご執心のようだから。
「ええと、その……虹村センパイ、ごめんなさい。お察しのとおり取り込み中で」
「だろうな。ずいぶん仲がよさそうだ」
無言の仗助に気を遣ったが断り文句をいおうとすると、形兆はとげとげしく言葉を返した。
は黒くにごった目を瞬かせた。
形兆を見つめるの目はいつも冷えている。形兆を嫌っているのではないようだが、仗助は自分に対する視線との変化にいつも戸惑う。
さきほどよりも抑揚のない声では形兆に言葉を返す。
「そりゃあ、クラスメイトですから。たまには一緒におサボリもしますよ。ねえ?」
「まあ、そうだなぁ」
仗助の相槌に、形兆はより眉間のしわを深めた。
誤解をさせないよう、仗助は触れ合った手を離そうとした。その途中で、ふと思う。
――なんで俺が形兆のために遠慮してやらなきゃいけねェんだ……つうか、ほかに席あるだろッ!
対抗心や敵対心と呼べる感情にしたがい、一度は離した手をの手にふたたび重ねる。
にこやかに言った。
「そ。俺ら仲良くおサボりしてるんですよ……邪魔者は消えてくれません? ほかにも空いてる席はあるでしょうよ~」
「仗助さん、ぐいぐいいきますね。私、なんだかお二人に取り合われているような気分になってきました」
ノンキなが感心したように頷き、仗助は脱力した。反面、形兆はより嫌そうに顔を歪める。
「仗助とそんなに仲がいいなら、俺がお前に付き合ってやる必要はもうねぇわけだ」
「えっ……」
溜息と共に吐き出された形兆の突き放す言葉に、は焦ったような声をあげた。
この場合の『付き合う』とは、……リストカットのことだろう。
自傷行為を禁じられているは、痛みを得たいという欲求を自身では満たせない。
だからは自分の代わりに形兆に傷つけてもらうことを選んだ。形兆はそれに応じた。
仗助とが恋愛関係ではないことは形兆も百も承知だろう。それでもこんなことを言う。
形兆しかの自殺願望をすこしでもまぎらわせられる人間はいない――そう確信していて、あえて言っているのだ。
「えっと……それは……」
案の定は困り果てた。
重ねた手がじっとりと汗ばみ始めているのがわかる。
はあまり表情を変えない。そのかわり瞳がなにより雄弁に物を言うタイプだ。
わずかに目を伏せて困惑する様子がいかにもあわれで、仗助は溜息を吐いた。
「いいよ、座れよ形兆! ったくよ~相席断られたぐらいで拗ねんなっつーの。そんなんだから女にモテねーんだよ」
「生憎女がいなくて困ったことなど一度もないんでな」
形兆は不遜気に鼻を鳴らして、の隣にどっかと座り込んだ。
遠慮ないしぐさがどうにも露伴とダブり仗助は目を細める。露伴は素で遠慮がなく形兆はあえて遠慮なく振舞っているが、はたしてどちらのほうがタチが悪いだろうか。
眉を下げて形兆を見上げるを、形兆は顎を上げて見下ろした。の不安げな表情に矜持が満たされたのか、形兆は溜息をつくと腕を組んだ。
「……明後日の放課後は予定がない。それでいいだろ」
「あ……はいっ」
の目に安堵と、期待がよぎる。薄暗い目にほのかな喜びが映って、仗助は眉をしかめた。
暗に明後日なら手首を切ってやる――と、そういう会話だ。
目下の不安要素が解消され、は仗助を見つめた。
「さっきの話はまた今度ですかね」
「そう……だな」
仗助の謝罪は形兆によってさえぎられている。形兆の目の前で会話を再開するのもはばかれた。
「なんの話してたんだ」
「私の昔話を」
「ほう」
「露伴先生は昔はいいおにいちゃんだったんですよ」
「ほう」
形兆は気のない返事をした。の言葉はあながち嘘ではないが、真実でもない。それを見透かしているのだ。
取り留めのない会話のあと、はふと席を立った。
「お手洗いにいってきます」
「いってら~」
糸が張ったように場の空気が張り詰めたのは、が仗助と形兆に背中を見せた瞬間だ。
二人は互いに睨みあいながら、それぞれの飲み物へ手を伸ばした。
形兆は先ほどの不機嫌そうな表情をさらに深め、仗助の顔から先ほどまでに見せていた人懐っこい表情が消える。
「相変わらずヒデー野郎っスね」
「くだんねー傷で気を引こうとしてるヤツに言われたかねぇな」
仗助の敵意にあふれた言葉に、形兆は侮蔑でもって返した。
注文したコーヒーを傾けながら、形兆は仗助の手首へと視線を落とす。服の袖で形兆の角度から傷は見えないはずだ。先ほどの指に掌を重ねたときに、ちらりと見えてしまったのかもしれない。
仗助はあからさまに顔を歪めた。
「あんな言葉で脅しかけるようなヤツに言われたくもないっスね~。あと、これは気を引く引かないじゃなくて単に偶然っス。に説明しても信じてくんねーんだよッ!」
「そうかい。まあ確かに、アイツの性格なら『遠慮して嘘ついてる』って判断されそうだな」
「……なんて言えば納得してもらえっかな~……」
「お前よー……俺に相談すんなよ、それ」
形兆はうなだれる仗助に眉をしかめた。毒気を抜かれたように溜息を吐いて、形兆はコーヒーを一気に飲み干す。
「ホントのこと言うしかねーんじゃねぇのか。事情は知らねーがよ」
「いやー、しつこく説明すると泥沼にはまりそうな気がして」
「あいつ人の話聞かねぇからな……。とことん自分勝手だ」
「そうはおもわねぇけど」
しみじみと言う形兆に仗助はムッとした。
仗助から見たは、他人を心配するあまり自分を犠牲にするタイプだ。それこそ、優等生なのに友人の不調を心配してサボリに付き合ってくれるぐらいには。
形兆は仗助をまじまじと見つめる。
「お前からはあいつがどういうふうに見えてんだ。惚れると盲目的になるタイプか?」
「惚れてねぇしありのまま見えてるつもりだがよ~ッ。むしろ、俺はお前からがどう見えてんのかが疑問だよ」
「あぁ?」
「を痛めつけてなにがしたいんだよ、お前は」
仗助は吐き捨てるように、形兆に食って掛かった。
死にたがりのにとって形兆は自分を傷つけてくれる稀有な存在だろうが、仗助にとっては友人を傷つける不届きものだ。
敵意をむき出しにする仗助にも、形兆は表情を崩さない。
テーブルの向い側に座る形兆はクレイジー・ダイヤモンドの射程内に入っている。それでも、街中かつの前で戦闘をはじめたりはしないだろう――と判断しているのだ。
正しい認識であるがゆえに苛立つ。
「交換条件、ってことになるのか」
「あぁ?」
「俺は手首を切る。あいつは……まあ、俺の言うことを聞く。口に出して契約したわけじゃねえが、暗黙の了解的にそうなってる」
「……なんつー関係だよ、お前ら。異常だぜ」
「ああ、異常な女なんだよ、あいつは」
形兆は自分を棚にあげて、ともなげに言った。
「俺に八つ当たりすんのは勝手だが、あいつを殺してやったほうがあいつは喜ぶと思うぜ。仗助ぇ」
八つ当たり。そうなのかもしれない。
の苦しみを、どうすればやわらげられるのかが仗助にはわからない。
形兆は痛みを与えることでの苦しみを和らげている。仗助はそんなことは間違っていると思う。だが実際、形兆はに必要なのだ。
情けなくて歯噛みする。
「なんだかよくない雰囲気ですね。争い事はよくないですよー……?」
が、恐る恐るといったぐあいに二人のもとへと戻ってきた。おずおずと所在なさげに眉を下げ、二人を見つめる。
仗助はあわてて眉間に寄せていたしわをほぐした。ごまかすようにに笑いかける。
「いや~形兆とフルーチェについて話してたんだけどよォ。はトロトロ派とプルプル派どっちだ?」
「フルーチェですか? 私はどっちでもいいかなぁ。あえていうならプルプル派です」
「お前もプルプル派かよー!」
「なんでそこでフルーチェなんだ……」
先日億泰と喧嘩した理由がコレだったのだ。特に他意はない。ちなみに突っかかってきたのは億泰である。
仗助はあまり嘘が得意なほうではない。
すこし考えれば嘘だとわかりそうなものだが、はほっとしたように口の端に笑みを浮かべる。
「よかったです。深刻な喧嘩じゃないみたいで」
「アハハ……」
「そうだ、よかったら飴玉いりますか? さっき小銭を落としたおばあちゃんを助けたんです。そしたらお礼にいくつかもらったんですよ」
「じゃあもらおっかな」
「俺はいらねー」
「そうですか? 甘いものは心を落ち着かせますよ。虹村センパイはもっと甘味を摂取したほうがいいですね」
「嫌いなんだよ」
「それは残念」
仗助に飴玉を渡して、は自分の紅茶を飲んだ。その拍子にテーブルに出した飴玉がいくつか転がって床へと落ちていく。
「わっ」
はあわてて立ち上がった。ころころと床を転がっていく飴玉を追いかける。
その背中を見つめながら、形兆は口を開いた。
「バカだな」
「バカっすね」
飴玉を落としたことではない。さまざまな思いを込めて形兆は言い、仗助もさまざまな思いのもとで同意した。
「でもどーにも放っておけないんスよね」
「……やっぱそれ恋じゃねぇの」
「なんでそんなにライバル増やしたがるかね~。恋じゃねェって。ただ笑顔が見たいっつうか、そばにいるとなんかほっとするっていうか……」
「それが――いや、いい」
「うん?」
「言っとっけどな、俺だってあいつに惚れてるわけじゃねえ。お断りだ、なんか」
形兆の言葉に、仗助は肩をすくめた。
ややあって飴玉を回収したがテーブルに戻ってくると、形兆は席を立った。
「もう行かれるんですか?」
「ああ。大事な話だったんだろ。代金はここに置いとく。つりは今度返せ」
「わかりました。さようなら、虹村センパイ」
「じゃあな」
「もう二度と乱入してくんなよ~」
仗助の悪態を形兆はムシした。去っていく背中を頬杖をついて眺めながら、わざわざ用事を作らなくともに会う方法はあるだろうに――と仗助は思ったのだった。
結局その後も誤解は解けず、とりとめのない会話をしてお開きとなった。
仗助はの過去話を聞き続けたが、のなにかをつかめたとは思えなかった。
それでも二人の距離はすこし縮まった気はした。
夕焼けの帰り道を歩きながら、ぽつぽつと会話をしながら仗助はそう思った。
「はじめてです。こういう話を誰かにしたのは」
「そうなのか?」
「聞いてくる人も話す人もいなかったし」
「む、ムリに聞き出しちまったんなら……」
「いいえ! とんでもありません。すこしスッキリしました。仗助さんを元気付けたかったのに私がお世話になっちゃって、だめですね私」
「いや、の話が聞けてよかったぜ。お前もあんまり、ムリすんなよ」
の頭にぽすんと掌を落とした。撫でたあとに異性の友達にやることではなかったと気付いて、あわてて手を離す。
特に嫌そうな顔もせず、は仗助を見上げた。
「仗助さんの手っておっきいですね」
「ああ、まあ……悪い。つい」
「仗助さんがそれで楽になるならいいですよ」
照れたように笑って、は頭を撫でやすいように仗助に頭を差し出した。
それならば、と仗助はもう一度の頭を撫でる。
「楽しいですか?」
「まあそれなりに。ありがとな」
頭から手を離して、足の横にだらりと下げた。
そうして無言で歩いていると、路上の石に躓いたが仗助に寄りかかった。接触はほんの一瞬で、はすぐに体勢を立て直す。
「ごめんなさい」
「いいってことよ」
「バランス感覚悪くて」
「気にすんなよ」
照れているのをごまかすように、は自分の髪の毛を触った。その様子を見下ろしていると、制服の袖から線がちらりと見えた。
手首の傷痕だ。幾重にも重なって盛り上がった傷痕を見てとても悲しくなった。
も自分の傷を見た時、同じ気持ちだったのだろうか。ぼんやりと思いながら、仗助は自宅のバスタブでカミソリを見つめながら考える。
だとするならやはり――この行為は無駄なのだろうか。
カミソリを押し当ててすこしずつ横に滑らせる。皮とその下のわずかな肉が切れるだけで、深く裂けることはなかった。
やはり自分には自傷行為などムリだ――。
仗助は溜息を吐く。
行為が無駄だったとしても、仗助のこの気持ちは無駄ではないはずだ。
を知りたい。助けたい。傷ついている理由と痛みを知りたい。
まずはゆっくりとを知っていくところから始めようと、仗助は頬を叩いた。
共に傷つく覚悟はすでに出来ているから。
2013/8/7:久遠晶
料理中に億泰にじゃれつくおやじさんと億泰と、『女にモテない』発言を否定しない形兆がとてもかわいいと思うんですよ。
もしいいね!と思っていただけましたら送っていただけると励みになります!