ファーストキスは鉄の味


「唇が痛い」

 彼女は言った。見れば、ささくれだった唇から血が滲み出し、赤く染まっている。

「どうしたんですか」
「冬場だから乾燥して……。ああ、痛い」
「人間って不便ですねぇ」
「人間、特に女ってのは不便……ていうかめんどくさいのよねー、手入れとか。リップクリームがあればいいんだけど」
「クリームですか」
「乾燥防止の為にね。まあ、エルピスが持ってるわけもないか。えーと、リップクリーム持ってたっけな」
「乾燥防止なら……で、出来ますけど」
「へ? リップクリーム持ってるの?」
「そういうわけではないですが……目、瞑ってください」
「よくわかんないけど……わかった」

 素直に彼女は従い、目を瞑る。
 暗闇の中で待っていると、顎を掴まれる。
 リップクリームでも塗ってくれるんだろうか。唇にひんやりとしたものの気配が近づくのがわかった。
 瞬間、口元に湿り気の帯びた空気が当たり、次に唇にやわらかいものが当たった。
 思わず仰け反ろうとするも、後頭部をのびた腕がそれをさせない。
 唇に当てられた控えめな感触がさらに押し付けられてかすかに潰れた感触が唇に伝わる。
 すこし感触が離れたかと思うと、今度は生暖かく濡れたなにかが唇を控えめにつっつき、濡らしていった。

 ぎこちなく気配が離れていく。
 追撃がないことを確認して、はゆっくりと目を開く。

「……なにがしたいの、あんた」
「えーと……乾燥、防止? ですかね?」

 気配の主は、すこし赤い頬をゆるませてはにかんでいた。
 その照れた様子から、唇と唇の接触がどのような意味をもっているのかについても理解しているらしい。
 らしいのだが……。

 なんの恥じらいもなく「キスですけど?」とか言ったら、はっ倒していたところなのだが。
 こうやってにやけ面もそれはそれで、恥ずかしい。
 なんかもう呆れる。レプリロイドって、どこからこういう知識――キスとか――を収集してくるのだろう。

 そういえばこの前、ゼロに命を助けられたっていう女性型レプリロイドがゼロにお礼のキスをしていた。そのレプリロイドにはゼロへの恋愛感情はないようなのだが、「お礼のキス」というサービス精神をどこから養ってくるのだろう。サービス精神と言えば、今日衰退して来ているレプリロイド心理学において、レプリロイドと人間の幼児の自我の発生について差異を考察した論文が水没した図書館から見つかったという。時間が出来たら読んでみるのも面白い。

 の疑問はまったく関係のないところにまで発展していく。
 やまない思考を途切れさせたのは、やはり唇の痛みだった。

「……ねえ、エルピス」
「は、はい。なんでしょう」

 俯いたが呼びかけると、エルピスの背筋がのびた。
 あんたは職場に上司に怒られる部下か。
 そう言いたくなったが、エルピスの心境はまさしくそうなのだろう。

「唇の乾燥は水分の気化によって起こるもので……唇に水を塗っても、余計に乾燥させるだけなのよ……?」
「えっ……そうなん……ですか?」
「ええ、残念だけど……」
「そうなんですか……すみません……」

 しょぼん、と眉を下げて謝るエルピスは、正直な話ちょっとかわいい。
 恥ずかしさから来る怒りなど、この表情を見るだけですぐさまかき消えてしまう。

「唇痛いけど、でもありがと。エルピスなりに気を遣ってくれたんでしょ?」
「は、はい。あ、いえ……私利私欲がありました」

 言いにくそうにそう答えるエルピスも、かわいい。
 思わずぷっと吹き出してしまった。

「そんな顔しないでよ、リップクリーム、ポケットにはいってたわ」
「はい……すみませんでした。あ、じゃあおわびにリップクリーム塗らせてください」
「へ? べ、別にいいけど……」

 リップクリームを渡して、目を瞑る。
 唇に触れたのは今度こそロウの感触で、すこしほっとした。
 ……微妙に残念な気がしているのは、気のせいってことにする。

 ぬりぬり。

「うわ、痛い痛い。押し付けないでよ」
「わわ、ごめんなさい。これぐらいの力加減でいいですか?」
「ん。……もう大丈夫よ、塗らなくて、ありがと――っ」

 際限なく唇に塗り続けそうなエルピスを止めた時、顎を持ち上げられて唇になにかが触れた。
 ロウじゃない。
 もっと柔らかい。
 さっきとおなじ感触。

 目を開けると、エルピスはさっきと同じ表情をして笑っていた。

「すみません……私利私欲、です」
「……鉄の味、気持ち悪くない?」
「レプリロイドですから、味覚というのはあまり」
「ああ、そっか……」
「あなたは? 気持ち悪いですか?」
「ん……だいじょう、ぶ」
「ならよかった」

 エルピスはもう一度笑った。

「あなたの唇、そうとうがさがさですね。だいじょうぶですか?」
「……思ってても言わないで。冬場だから仕方ないの」
「そうですか……人間は大変ですね」
「あ、待っ……これ以上は、リップクリームが落ちるからダメ」
「あ……ゴメンナサイ」

 さすがにこれ以上キスされたら心臓が持たない。
 レプリロイドじゃなかったら通じないであろうウソをついて、私は呼吸を整えた。





2010/12/25:久遠晶