公私混同と無自覚恋心


 ラグナロク砲によるネオ・アルカディアの壊滅から、時が経って久しい。
 命を散らしたかに思えたゼロも帰還し、闇の時代の爪痕は今だ残るものの人々の顔には笑顔が満ちている。
 いまやレジスタンスの仕事は、賢将ハルピュイアや妖将レヴィアタンたちと共に都市の復興を臨むことになっていた。
 ――禍根は、未来への足枷にはならない。因縁に決着をつけるよりも、寄り添いあえる『今』を作りたい。
 ハルピュイアの言葉にシエルは心底嬉しそうにし、エルピスはその表情に救われた。


 レジスタンス内をエルピスが歩く。レジスタンスの実務を一手に引き受ける彼は、忙しなくレジスタンス内を駆けまわっていた。
 つき従うジョーヌの手にはさまざまなフロッピーディスクが抱えられており、エルピスの仕事量が伺えるというものだ。
 桃色のコートの翻りを、凛とした声が呼び止める。

「エルピス! 最近、エリアCの人間から食糧配給が少ないって不満がでてきてるみたいなの。これ、その資料」
、おはようございます。システマ・シエルによってエネルギー問題は解決しましたが、人間の食糧問題はまた別の問題ですからね。……わかりました。対策を考えておきます」

 エルピスは即座に思考を開始し、今後のプランを練りながら言葉を返す。から受け取ったディスクをそのまま傍らのジョーヌに突きだした。
 を見据えたままの動作。ジョーヌは慌ててディスクを受け取った。エルピスの人使いが荒いのは以前からだ。

「それでさ、エネルギー工場にシエルを視察に行かせたいの。今、システマ・シエルが発生させる光源を食物栽培に活かせないか研究してて……軌道に乗りそうなんだけど、実用化には施設がいるから」
「なるほど、それは早い方がいい。ジョーヌ」
「それならば来週以降になります。今週はネオ・アルカディア跡地から必要物資の発掘があるので、それは動かせません」

 携帯端末を操作しながらのジョーヌの言葉に、エルピスはふむ、と顎に手を当てた。
 考え込む一瞬の間に各人員のスケジュール、疲労度などをサーチし、結論を出す。

「では再来週が望ましいでしょう。ジョーヌ、コルボーさんにシエルさんの護衛をするように打診を。、それでいいですか?」
「えぇ。よろしくね、エルピスしれーかん!」
。ですから、今は『司令官補佐』ですよ」

 エルピスは苦笑した。
 レジスタンスの司令官はあくまでシエルだ。
 シエルを含めたレジスタンスメンバーはもう一度エルピスがトップに立つことを望んだ。しかしエルピス自身が辞退したのだ。
 かつての所業への責任をとってのことではない。その程度で自身の行為が清算できるわけがないことは、よくわかっている。
 人間とレプリロイドの共存を人々に示すためには、シエルとハルピュイアが復興の矢面に立つほうがよい――そう判断したゆえの辞退だった。
 バイルによる支配は短い間だったが、人々とレプリロイドに消えない傷と恐怖を残した。
 レプリロイドは人間としてのバイルを恐怖し、人間はレプリロイドとしてのバイルを恐怖している。
 なればこそ、復興は人間主体でもレプリロイド主体でもなく、それぞれが寄り添って行われなくてはならない。

 だから司令官はシエルで、エルピスはその補佐だ。
 補佐としてシエルを支え、人類とレプリロイドの平和に生涯を掛けて尽力する。それがいまのエルピスに使命であり、かつての罪を清算する方法だと信じている。
 それでもみな、エルピスを司令官と呼ぶ。
 実質的にレジスタンスを総括しているのがエルピスであるからだろうが、なにより。

「みんなエルピスに率いてほしいのよ。ねえジョーヌ」
「ええ……みな、エルピス様を慕っておりますから」

 くすりと口元に手を当てて笑うジョーヌに、エルピスは戸惑ったように視線をさまよわせた。
 過去の所業は消えてなくならないが、レジスタンスはそれを含めてエルピスを受けとめている。
 見合うだけのものを返さねばならないと、エルピスは居住まいを正した。

「かないませんね、あなたがたには」
「ま、司令官の名に恥じないよう馬鹿な真似はしないことね。補佐だけど。せいぜいご自愛することよ、エルピス! これは差し入れ」

 エルピスの胸にEクリスタルを押しつけたは、微笑みを浮かべたままくるりと踵を返す。その背中にエルピスは声をかける。

「ありがとうございます。そちらも身体は大切にしてくださいね、我々と違ってあなたは人間なんですから……って聞いてます、ちょっと、ー?」
「あーもう、定期メンテナンス逃げてるレプリロイドに言われたかないわ。はいはいー」

 エルピスの心配を聞き流しながら、は事務室へと入って行く。
 追いかけるが、扉にロックをかけられたことが扉横の端末に映し出され、エルピスはため息を吐いた。
 は他人の心配をする前に自分を気遣うべきだが、それをしない。

「まったく……という人は」

 エネルギーが続く限り連続活動が行えるレプリロイドと違い、人間は不眠不休ではいつか倒れてしまう。エルピスは心配だった。
 事務室の扉を見やりながら眉をひそめるエルピスを見上げ、ジョーヌが微笑んだ。

「エルピス様って、さんのことは呼び捨てですよね」

 声をかけられたエルピスは硬直し、それからゆっくりとジョーヌを見た。

「えっと……そう、ですか?」
「気付いておられませんか? シエルさんやセルヴォさん、私たちのことまでさん付けしてくださるのに、さんのことは呼び捨てです」

 エルピスは顎に手をあてて考えてみる。
 指摘されるまで気付かなかったが、確かにレジスタンスのメンバーにはみな――子供型であるメナートやアルエットに対してまでも――敬称をつけて呼んでいるが、にだけは呼び捨てだ。
 かつてハルピュイアやゼロを呼び捨てていた時期があったが、今は違う。
 だから、やはりエルピスはに対してだけ呼び捨てだ。
 ジョーヌは親しい関係の表れだと笑った。ゴーグルでその目もとはわからないが、きっと嬉しそうに細められていることだろう。

「呼び方以外にも、普段エルピス様とさんのやりとりと見ていて、仲いいなあってみなさん言っていますよ」
「み、みなさん?」

 特別、と親密な間柄とは思っていなかったから、またもエルピスは驚いた。
 今も昔も、が自分の為に頑張ってくれていることを、エルピスは理解しているつもりだ。
 に対する感謝の念は、身体を気遣うという形で表に出る。だが今のようにに聞き流されたり逆にねぎらわれてしまうのは恒例のやり取りになりつつあった。
 その様子を客観的に見れば、確かに『仲がいい』という表現になるのかもしれない。

 エルピスは唸った。のことを好きか嫌いかで言えば、当然好ましく思っている。
 問題はそこではなく、仮にも司令官補佐が他人に差をつけていいのか、という点だ。
 私生活ならばともかく、仕事上でのやり取りにおいて親密さを出すべきではない――そう結論付けたエルピスは、次の日からさっそく行動に出た。


   ***


 司令室で仕事をこなすエルピスの元に、がやってきた。
 先日頼んでおいたレポートをまとめあげてきてくれたらしい。からディスクを受け取りながら、エルピスは短く礼を言った。

「ありがとうございます、さん」
「どういたしまして、エルピス――え?」
「どうしましたか、さん」

 エルピスは首を傾げた。は驚いた顔をしていて、居合わせたジョーヌやゼロも、表情を変えている。
 ああ、とエルピスは頷いた。

「たかが呼び方と言えど、仕事とプライベートはしっかりと分けるべきです。そうでしょう?」
「まあ……そうかもしれないけど」

 エルピスの言葉を肯定しつつもは戸惑っているようだった。視線を落とし、考え込むように顎に手をやる姿は、エルピスの真意をはかろうとしているようだ。
 傷つきや不満が垣間見える表情に罪悪感がわきあがらなかったわけではない。
 職務に私情が絡んだ末の顛末をエルピスは身をもって経験している。
 同じ過ちを繰り返すことを何よりも危惧し、恐れているエルピスにとってこれは譲れないことでもあった。 

「では、こちらも相応の対応をすべきですね。エルピス司令官補佐」
「あ……」

 に敬語を使われ、エルピスは困惑した。急に精神的な距離が空いたような気がして妙に心細くなる。
 そんな言葉づかいはやめてくれと言いそうになり、口をつぐむ。
 エルピスは心中を表情に出さないように微笑した。

「そうですね。そうしてください」
「かしこまりました。それでは自分は職務があるのでこれで」

 慇懃に一礼し、去っていく背中を見つめる。そのように仕向けたのはエルピス自身であるというのに、違和感が拭いきれなかった。
 そんなエルピスに、ジョーヌがおずおずと声をかける。

「いいんですか、エルピス様? 呼び方ぐらい気にせずともよいのでは……」
「そういうわけにもいきません。こうするべきなんですよ」

 内心の動揺を隠してエルピスはジョーヌににっこりと笑いかける。
 ジョーヌは申し訳なさそうにうつむいた。


 エルピスとが他人行儀な口調になってから一カ月。じょじょに口調にもされるのもなれてきた頃合い。
 レジスタンスベースの廊下を妙にふらふらと歩くを見つけた。

「どうしたんですか、体調でも悪いんですか?」
「……なんでもありません、仕事には支障ありませんので」
「そうは言っても……」

 無表情をよそおうの頬は赤らんでいる。熱を確認しようとハンドパーツをのばすと、頬に到達する前に振り払われた。

「それは、部下と上司のやりとりじゃあありませんよ」
「……すみません」

 いさめられ、エルピスは口を引き結んだ。
 距離をあけたのはエルピスだから、寂しいと感じることは許されないだろう。
 そんなふうに引き下がってしまったから、が倒れた時、エルピスは心底後悔した。

 熱を出していた。予兆には気づいていた。普段なら意地でも頬に触れて体温を確かめて、医務室に押し込んでいたはずだ。
 引き下がってしまったからはそのまま無理をした。
 無理をして根を詰めて――会議中いきなり倒れ、いまこうしてベッドのなかで高熱にうなされている。
 苦悶の表情で目をつむるは傍らにひざまずくエルピスにも気づかない。
 エルピスは申し訳なさに胸が締め付けられる思いだった。動力炉はきしんで悲鳴をあげ、しかし声にはならずにかすれた吐息しか吐き出せない。
 罪悪感に苦しむエルピスに、レジスタンスの一同は苦笑しながらも微笑んだ。

「エルピス様……視察の件などはこちらでどうにかしておきます。エルピス様はさんのそばにいてあげてください」
「ルージュさん……いえ、そういうわけにも行きません……わたしは――」
「いまエルピスが仕事したら、エルピスまで倒れてしまうわ。仕事のことは気にしないで」
「シエルさん……」

 ありがたい申し出であったが、受け入れるには抵抗があった。
 ダークエルフに見入られ暴走した罪悪感は、常にエルピスにまとわりつく。だからこそいままで以上に職務を全うしているのだ。
 言葉は悪いが、の風邪の看病は他のレプリロイドにも出来る。だが司令官補佐としての仕事はエルピスにしかできない。そう信じている。そうであってほしい。
 シエルに言われたからとはいえ、仕事をおいそれと放り出せるわけがなかった。

「いいの。仕事は私たちに任せて。大丈夫だから」

 シエルはそう言う。優しげな笑みと言葉に心底ほっとしたのもつかの間、エルピスの脳裏にはある言葉がよぎる。

 ――ゼロが居るから。
 ――もう、エルピスは居なくて大丈夫。

 ゼロ帰還の時にも聞こえた幻聴。
 自分の存在は伝説の英雄にとって変わられ、居場所がなくなり打ち捨てられてしまうのでは、という恐怖。
 量産型レプリロイドに芽生えた自我が、存在理由を失うのは嫌だと悲鳴をあげる。
 表情を歪めたエルピスはシエルの申し出を断ろうと口を開いた。
 大丈夫です。仕事に戻ります。そう言おうとした――その時。

「えるぴす……」

 の乾いた唇が、ただそれだけ口にした。単なる数字の羅列でも、レジスタンスの司令官でもない、その名前を。
 そのつぶやきを聞いて、エルピスの胸がぐっと痛くなった。

 ――なにをバカなことを。もう、あのときとは違うんだ。

 エルピスは自嘲して首を振った。
 捨てられる不安を抱く必要も、『司令官エルピス』の偶像を演じる必要もない。
 のそばにいてやりたい。その気持ちをシエルたちは容認してくれている。頼らない道理はなく、いまこの場では頼ることこそがシエルたちに好意にこたえることとなる。
 笑って、エルピスは頷いた。

「ありがとうございます、シエルさん、ジョーヌ。……が治ったら、すぐ復帰します」

 それは、セイギのイチゲキ作戦に追われていた時には決して言えない言葉だった。
 いまのエルピスなら言える。成長し、仲間から寄せられる自分自身への信頼に気づけたいまのエルピスならば。


   ***


 頬に浮いた汗をふき取ってやったり、すこしでもが寝心地いいようにとの反応を見ながら空調を調節する。
 解けた氷を交換して新しい氷嚢を額に置くと、は静かに目を開けた。

「すみません、起こしてしまいましたか?」
「なんで……あぁ、もしかして倒れたの、私……」
「はい。会議中に、いきなり」
「……世話をかけたわね。もう大丈夫よ。仕事に戻るわ」
「寝ていてください」

 起き上がろうとした肩を掴んで、そっとベッドに戻す。
 エルピスの有無を言わせない態度にはむっとした表情になる。エルピスの手を振り払おうとする手は熱く、力ない。

「高熱が出ているんです。寝ていてください。……それと、申し訳ありませんでした。あなたの体調に気付いてあげられなくて」
「……体調管理の不備は私の責任よ。謝罪されても嫌味なだけね」

 肘をついてわずかに身を起こしながらの言葉に胸がくっと切なくなった。
 以前はの素直ではない言葉が嫌いで、今はそこがかわいらしいなと好ましく思っている。だが、この状況ではその返答は悲しくなるだけだ。

「とにかく、わたしが看病しますから……ゆっくり寝てください」
「あなたが? ちょっとまって、あなたには大事な仕事が――」
「ジョーヌたちに任せました。必要な指示は飛ばしてありますから、支障はありません」
「なんで……そこまで。私に」

 熱で赤らんだ顔を歪めて、は呆れたように溜息を吐いた。困惑の視線はわずかに潤んでいて、いかにもつらそうな様子にエルピスは眉をひそめた。
 ベッドの上の小さな指先を両手で掴む。
 ひざまずくように床に膝をつき、を見上げて懇願する。

「そばに居たいんです。あなたが治るまで、そばに」
「だから、どうして……」
「あなたの体調不良に気付けなかった。無理させてしまいました。司令官補佐失格――いや、あなたの友人として最低だ……」

 強い罪悪感があり、の手を握るハンドパーツに力がこもる。感知する熱が、高い。

「だから、せめて、看病ぐらいはしたいんです。さん……」
「――わかった。寝てるし、看病もされるから……そんな表情しないで」
「本当ですか!?」
「本当よ」

 ほっとしてエルピスは笑った。
 言葉を肯定するように、は再び布団のなかにもぐりこんだ。汗でへばりついた髪の毛を頬からどけてやり、氷のうを額に置いてやる。
 甲斐甲斐しく世話を再開するエルピスに、が不満げな顔をした。

「どうしました、さん。なにかしてほしいことがありますか」
「その『さん』というのをやめて」
「え?」
「私は……いま、病人で。あなたは仕事を休んで看病をしてくれてる。仕事じゃないんだから……その呼び方をやめて」
「え、あ……」
「私を友人と……思ってくれてるなら。相応の呼び方があるでしょう……」

 はそこまで言うと首を反対側に倒して、エルピスからぷいっと視線をそらした。その耳が赤いのは、病気による発熱だけではないだろう。ないはずだ。そうであってほしいと――何故だかエルピスは祈るような気持ちになった。

「う、と……?」
「ん……なあに」

 たどたどしく発音すると、は静かにエルピスのほうを向いてくれた。ぎこちなく微笑んで、エルピスを見つめてくれる。
 エルピスだけを。
 司令官ではないエルピスを、昔からは見ていてくれたのだ。
 あ、ああ。なんだろう、これは。
 胸に暖かく灯る、この感情はなんだろうか。
 心地よい気持ちが気泡のように胸から立ち上る。
 見慣れたの顔が色鮮やかに思えるのは、が熱で頬を染めているからだろうか。

「エルピス」
「な……なんですか。
「ふふ」

 柔らかな微笑みは、がエルピスによく見せてくれる心からのまなざしだ。
 普段と対して変わらないはずなのに、どうしていつも以上に綺麗に思えるのだろう。

 これは――まずい。
 まずいぞ。
 オーバーヒートしかけた内部をすこしでも冷却しようと、半ば本能的に深呼吸を繰り返す。ぐるぐると回転する頭はから回りしていてなにも考えられない。
 エルピスの異変に気付いたが、首をかしげる。

「どうしたの? 顔が赤いわ。冷却装置の誤作動でも――」
「……!!」

 レプリロイドにはない細さとしなやかさを備えた指先が頬を撫でると、全身がぎくりとこわばった。それでいて心地よく、決して不快ではない。エルピスはこれに似た感覚を知っている。
 ――そんなバカな。わたしがに……? そんなこと、あるはずがない。
 電子頭脳によぎった考えに首を振る。この感触はシエルに対して抱いた感情とよく似ているが、まるっきり同じではない。だから違うと言い張る。

「大丈夫です。すこし考え事をしていただけです」
「……仕事が気になるなら、私べつにひとりでも――」
「それは大丈夫です。あなたの看病をさせてください」
「そう……?」
「ええ」

 こくんと頷く。
 突如としてメモリにかかった負荷は莫大なものだが、それ以上にもつらいのだ。

「わたしはもちろん風邪を引いたことなどありませんが、つらいのでしょう?」
「……そうね。とっても。でも……」
「でも? なにかわたしにできることありますか?」
「エルピスが頭撫でてくれたらすぐよくなるかも」

 思いがけない言葉にエルピスは面食らった。普段のなら絶対に言わない言葉だ。
 先ほどよりもの顔が赤いのは、高熱だけが理由ではないだろう。
 きっと心細いのだろうか。
 エルピスは言われるがままハンドパーツを持ち上げ、おそるおそるの頭に触れさせた。ひどく緊張して、人間であれば脂汗のひとつでもハンドパーツに浮いていたところだろう。
 頭を撫でるとは嬉しそうに笑った。
 呼応するように動力炉は活性化し、内部機構がいままで以上に熱を持つ。だというのに気持ちはひどく穏やかになって落ち着いた。

 ――仕事を休ませてもらって、よかった。

 心からそう思って、エルピスも頬を持ち上げてにっこりと笑った。


   ***


 エルピスの看病の甲斐あってか、はすぐに快復した。
 早い復帰に、エルピスは病み上がりなのにと思った。しかし、エルピスのおかげで早くに治ったのだといわれると気恥ずかしさと嬉しさがあった。無理はしておらず、心からの言葉だとわかるからだ。

 レジスタンスベースの廊下をエルピスが歩き、ジョーヌが付き従う。桃色のコートの翻りを、凛とした鮮やかな声が止める。

「エルピス! 先日の物資発掘の件で、ゼロが――どうしたの?」
「い、イイエ」

 丸い瞳に見つめられ、エルピスはとっさに目をそらした。
 風邪の看病のさなかから、なぜだかと相対するとどぎまぎしてしまう。

 いったいなぜそうなっているのか、エルピス自身検討がつかなかった。
 シエルに対して感じていた思いとはまた違うのだ。恋愛感情ではなく、友情と言う言葉だけでも片付けられない。
 の風邪が治っても、が色鮮やかに見えたままだなとエルピスは思った。くだらない思考を押し流し、仕事モードに再び切り替わる。

「それで、ゼロくんがどうかしましたか」
「ええ。それがね……」

 手元の端末を操作し、が眼前に資料を投影させる。
 指し示される内容を見ているうち自然とと肩がくっついていることに気付かずに話し込む。
 その様子を見ながら、ジョーヌは静かに微笑みをこぼしたのだった。





2013/9/31:久遠晶
今後名前呼ぶたびにどきどきするエルピスはかわいい




◆オマケ
看病の途中の差分
差分っていってもかなり差がある
名前を呼ばれて喜ぶ女の子にむんむん来ちゃったエルピスです



 気がつけば、血のかよう唇にシリコン製の唇を押し付けていた。
 むにゅりとした感触を知覚して、慌てて身を離す。
 が目を見開いていた。
 しまった、なにをしたんだわたしは――。唇と唇の接触が持つ意味は知っている。人間が恋人に対して行う親愛の情で、当然とエルピスは恋人ではない。
 こと、色恋における羞恥心というものをレプリロイドは感じにくい。肌と肌の接触に大した意味合いを込めないし、人間が恥らう理由も理解しにくいのが一般的だ。
 エルピスは違う。
 シエルに恋に似た憧憬を抱きシエルに認められたいがために暴走したエルピスには、恋愛感情も、それに伴う羞恥心も痛いほど知っていた。

 だから、突然キスされた以上にエルピスが戸惑った。
 自分の行動がわからず、視線をあちらこちらに移動させて言い訳を探す。

「えっ、あっ、す……すみません!! その……つい、してしまっただけで! 他意はないんです!!」
「『他意はない』?」

 ベッドに寝たままぎろりと睨まれ、エルピスはううっと息を詰めた。
 エルピスだって、いきなりキスされれば相手が人間かレプリロイドかに関わらず不愉快になるだろう。遊びで行うものではないと思っているからだ。
 うろたえるエルピスには長い長い溜息を吐き出した。

「どうせなら、『好きだ』とでも言ってみなさいよ……」
「ッ!? 、な、泣かないでください……!」

 の瞳からぽろぽろと涙がこぼれたのを見て、いよいよエルピスの回路はショートしそうだ。なにをどうすればの機嫌がよくなるのかわからない。慌てふためくあまり、から言われた言葉が認識できず、結果としてエルピスは火に油を注ぐ一言を言ってしまう。

「そんなにわたしのキスはいやでしたか」
「はあ!?」
「ご、ごめんなさい」

 強い語気で言い返されて、思わずびくつく。

「あんたは、わ、私が嫌がると思って……!!」
「ごめんなさい……!」

 反射的に謝るエルピスに、はふーっと息を吐き出した。
 しょぼくれる様子はどう考えても頼りがいのある『エルピス司令官』の姿ではない。そんな自分を情けないと感じる余裕は今はなかった。
 が怒りを押さえ込んでいるのがよくわかった。もう一度溜息をつくと上半身を起こして、ベッドに座り込む。寝ていてほしいと思ったが、この状況でそれを言おうものなら自分がスクラップにされてしまうかもしれない。

「本当に……『つい』『してしまった』『他意はない』のね?」
「はい。……いえ、す、すこしだけ……『したい』と思って……しました」
「どうして?」

 が眉根を寄せた。不快感ゆえと言うより、単純にエルピスの言葉が疑問なのだ。
 表面上の怒りは落ち着いている。だからエルピスはびくつかずに、自分の本心を探れた。
 なぜ、キスしてしまったのだろう。半ば衝動だったが、欲求があったことも確かだ。
 に触りたい、という欲求が。
 感情の理由はわからない。以前シエルに感じていたような恋心を、に抱いているとでも言うのだろうか。それは……違う気がした。シエルにいま向けている、そしてかつて向けていた感情と、いまに向けている感情はイコールではない。
 だが、当然好ましくは思っている。

 胸に手を当てて考え込むエルピスに、はすこし悲しそうな顔をした。

「質問を変えるわ。その欲求は、私にだけ? それとも他の人にもそうなの? ……シエルとか」
「それは……違います。昔は、いざ知らず……いま、シエルさんにそういう感情は抱いてません」
「……そう」
「その質問で言うなら……あなただけです。キスしたいと思ったのは」
「でも、好きじゃないのね?」
「う……」

 その質問には肯定も否定もできなかった。

「わかりません……。キスしたいとは思います。しかし、以前シエルさんに抱いていた感情と、あなたへの感情は違います。でも、あなたが他の方とキスしているのを想像したら……」
「嫌な気持ち?」
「殺したくなる。――あ、ち、違います。もののたとえで、本気で殺意があるわけじゃあ」
「わかってる。エルピス……すこし、いいかな。近づいて」
「? はい」

 促されるまま近づくと、がエルピスの首を抱きしめて引き寄せた。
 突然のことに身体がこわばる。関節がさび付いたように動けなくなった。
 胸をぐっと押し付けられるとレプリロイドにはない柔らかさが伝わって、本格的に頭がショートしそうになる。

「な……にを」
「どう? なにも感じない? ドキドキする? 嫌な気持ち? どう?」
「いや……ではない、ですが。でも、これは、」
「もし他の人に抱きしめられたら? シエルならどう? シエルと私と、どっちがいい?」

「私は、あなたに私を好きになってほしい」

 ぶり返したらしい涙が、の目から再びこぼれた。
 相変わらずエルピスに抱きついたまま、はわずかに身を離して至近距離でエルピスを見つめる。
 有機物で構成された虹彩がエルピスを捉える。エルピスは思わずアイセンサーをまばたきさせて、ピントを合わせた。

「あなたがずっと好きだった」

 率直な愛の言葉に息がつまる。
 はもう一度エルピスをぎゅっと抱きしめると、いやいやをするように首を振った。

「あなたがシエルを好きなのは知ってるわ、それでも、私……!」
!」

 声を荒げて名前を呼ぶと、の肩がびくりとはねた。首の後ろに回された手から力が抜けたので、エルピスは肩を押してそっと身を離させる。
 はぽろぽろと泣き出しながら、きゅっと眉根を寄せて俯いた。エルピスはの頬を両手で挟んで、優しく顔を上げさせる。
 
「こちらを向いて。
「いや……いやよ。聞きたくない」
……っ」
「いや――ん、む……」

 頭を傾けて、下からかすめとるようにして唇を押し当てた。
 ついばむようなキスはやがて激しくなって、親指で口を開かせると舌を差し込んだ。ホンモノの舌と唇はとろけそうに熱くて、エルピスは自身の潤滑油は人間にとって有害ではないのか――などという考えは浮かばなかった。
 粘膜をこすり合わせて堪能して、やがて身を離した。

「な、にを……するの」
……ごめんなさい。わたしにはこれがあなたの望む感情かどうかは、まだわかりません」

 は唇を引き結んだ。違う。そんな表情をしてほしくない。

「それでも、あなたが求めてくれるなら……あなたの求めてくれるものを返したい。いまはそれじゃあ……だめですか」
「それは……」
「あなたの望むことをしたい。あなたがわたしを望んでくれるなら……」

 エルピスが言うと、はまた泣いた。しかしすぐに涙をぬぐって、ぎこちなく笑う。

「ありがとう。いまはその言葉だけで充分だわ。……でも」
「で、でも?」
「熱を出しているときにキスするのは……やめて。体温が上がりすぎて頭痛がするから……」
「すっすみません!!」

 ぽすりとからだをベッドに沈めるに慌てて謝ると、はくすりと笑った。
 もちろん熱で辛いのだろうがそれ以上に安らかで、その表情を見てエルピスも笑う。
 いまはそれじゃあだめか、と言った直後だが、もう翻したくなるぐらいどきどきしている。
 苦笑して、エルピス布団のなかに手を差し込んでの手にそっと触れた。

「これから、よろしくお願いします」
「ええ……よろしく、エルピス」

 この後、エルピスは職務中の呼び方に再び悩み、二人で首をかしげたのだった。
 さんとは呼びたくなくて、司令官とも呼んでほしくない。とはいえそんなふうに困るのも楽しくて、エルピスは笑った。




オマケ完