渇望と恋着



「蒼紫様」
 と、が微笑む。
 俺を視界に認めた瞬間、ぱっと花がほころぶように頬を持ち上げて笑う。  柔らかな日差しを受け、まるで自身が淡く光っているようだった。
 俺が声を掛けると、はキリリと目元を鋭くし、背筋を伸ばして居住まいを正す。
 俺への尊敬と喜びを、全身から発散させながら、俺をじっと見つめるのだ。
 敬意に満ち満ちた視線を受ける度、の笑顔を見る度、気づかされる。
 ──は、“御頭”としての俺しか見ていないという事に。



 を組み伏せたことに、特に理由はなかった。  俺を心から慕うこの部下は、俺が浅ましい欲望を見せた時、どう反応するのか。しいて言えばそれだけの、子供じみた好奇心だ。

「……蒼紫様、お身体の具合が―――」
「そういう訳ではない」
「では……」

 は俺が貧血でも起こしたと思ったようだ。不安げに下から俺を見つめる瞳は疑いのかけらもない。

「……本当に大丈夫なのですか? 今白湯をお持ちしますから――蒼紫様っ?」

 首筋に顔をうずめるとの素っ頓狂な声が聞こえる。覆い被さって抱き締めたら、重かったのかは呻き声をもらした。

「あ、あの……無理はなさらないでくださいね。ご自愛ください、蒼紫様。医者を呼んで参りますから」

 抵抗の素振りがないどころか、は俺の体調を本気で気遣っている。ぽんぽんと俺の背中を叩くは、俺が邪な感情を抱いているという事にすら気付いていない。
 信用されているのか、が自分の身体を甘く見ているのか。――両方だろう。
 帯を解くと、流石に戸惑ったらしい。申し訳程度に俺の手に触れ、やんわりと行動を阻害する。

「あ、蒼紫様……?」

 頬を染め、助けを乞うような眼差しで俺を見やるを無視して、胸元を肌襦袢ごと掻き開いた。
 自然、あらわになる肢体。
 慌てて着物を閉じようとする腕を、掴んで止めた。

「あ、蒼紫様……なんのお戯れですか?」
「……少し黙れ」

 鎖骨に口付けると、の身体が強張る。
 戯れ。は、俺が思い詰めての行動だとは微塵も思っていない。
 流石のもようやっと事態を飲み込んで来たのか、戸惑いながらも俺の胸板を押し返してくる。その動作で胸が痛むのは、余程俺が血迷ったからだろう。
 の首筋に苦無を当てた。

「――
「……はい、蒼紫様」
「お前は、俺の為に死ねるか」

 が目を見開いた。しばし目を瞬いてから、ふっと目を閉じる。俺の手の上から苦無を握り、力を込める。

「私の命は貴方様の物……」

 苦無にの血が伝う。苦無の刃がじょじょにの肉に食い込んで行く。

「……あ。申し訳ございません、蒼紫様。退いてもらえませんか」

 不意に、が目を開けた。
 は心底申し訳なさげに眉を下げ、窺うように俺を見る。

「このままでは、私の血で蒼紫様を汚してしまいますので」
「……この世に執着はないのか、お前は」
「蒼紫様の為に死ねるなら本望でございます」

 ふわりと微笑まれ、反応に困った。

 苦無を首筋から外すと、あ、と残念そうな声。
 紙一重で頸動脈まで入ってはいないものの、首筋から血が流れている。
 溜め息をひとつ吐き、俺はの上から退いた。

「すまなかった」
「……蒼紫様?」
「試すような真似をした、すまない」
「蒼紫様? なにかお気にかけている事でもあるのですか?」
「いや、なんでもないんだ。すこし立ち眩みがしただけだ」

 怪訝そうな表情を浮かべながらも、は俺の言葉を聞き入れた。
 立ち眩みがしただけで相手の服を乱す訳がない。俺の言葉は無条件で聞き入れるのはの悪癖と言えるだろう。
 は、俺がに欲情するとはまるで思っていない。

「あ、あの、お身体は平気ですか? 腹痛に効く薬でもお作りしましょうか?」
「構わん。……
「はい」
「――お前は、先程自分の命は俺のものだと言ったな」
「はい」
「……ならば、」
「はい、なんでしょう」

 にこり、とは笑う。目はまっすぐ俺を見据えたままだ。なんの一点のないこの目が、俺はすこしだけ怖い。俺を通り越して、別の誰かを見られているような気分になってくるからだ。恐らくそれは――は気付いていないだろうが――事実だ。
 俺に忠誠を誓うは、そのあまり盲目的なまでに俺を慕っている。
 御頭が脱げと言えば、迷わずは着物の帯を解き、身体を俺に捧げるだろう。の命は俺のものだ、その身体も、俺の意のままに出来る。

 ――では、心は?

 俺が欲しいのは身体ではなく、の心だ。大切なものを見つめる時の、柔らかな光が灯ったその瞳だ。思い人を見てかすかに頬を染め恥じらうの気持ちだ。
 俺が求愛したところで、は義務感でそれを受け入れる。命令すればあの男への繋がりも断ち切るだろう。
 の一番は『御頭』、ならば、は『俺』の命令に逆らわない。


 それを痛い程知っているから、俺は何も言わない。言えない。
 思いを告げた所では真の意味で俺を見ないし、を苦しめるだけだ。
だから、は俺達の旅には同行させない。それ故にが悲しもうとも、歯止めがきかなくなった後の事を思えばその方が余程マシだ。
 やがてはあの男と祝言を挙げるだろう。それで構わないと思う。
 を幸せに出来るのは、あの男しか居ないのだから。


 幸せになってしまえばいい。しわしわの老体になり、孫に死に際を晒して泣かせて悲しませればいい。
 そうして、俺の事など忘れてしまえ。俺が記憶の隅に居座る余地も無い程、あの男で心を満たしてしまえばいい。
 そんなふうに考えていたから、志々雄との闘いを終え京都に帰った俺は、あの男と、と、その間にいる小さな子供を見ても、素直に祝福出来た。

 ――儚い恋だった、恋い焦がれていた、お前を、お前だけを。





2009/8/3:久遠晶
2009/10/29:ちょっぴり修正
手を出そうとして出し切れなかった蒼紫です 2016/11/03:誤字修正