鳥かごに鍵はない
かちこち、かちこち。時計の音が鳴り続ける。高い天井近くにある格子窓から、鳥のさえずりが聴こえる。
格子窓に雀が巣を作ったのだ。時折親鳥が餌をやる光景が見える。
私の日常はそれだけだ。時間がただただ流れ、消費され、無為に摩耗されていくだけ。
幽閉されて、この部屋からろくに出させてもらえない。
扉の向こうは御庭番衆とか言う隠密が常に見張っていて、私は逃げられない。
どうしてこんなことになったんだろう。
理由は今となってはわからない。だけどあの男は、武田観柳はえらく私を気に入って、こうしてずっと手元に置いて離さない。
私は息を吐いて、格子窓に見える鳥を見つめた。
あの子達と私は同じ。ご飯が与えられる瞬間をただ心待ちにしているだけの存在。だけどあの子達は羽ばたくことができる。私とは決定的に違うのだ──。
***
「交代の時間だぜ」
「おう、チビか」
扉の前に立つひょっとこに、べし見が声をかける。その声はいささか面倒くさそうな、気のゆるみが見受けられた。
武田観柳は、自身の身辺警護の他に幽閉している女の監視も御庭番衆に依頼している。高荷恵と彼女の監視は御庭番衆の役割の一つだが、戦いを求める御庭番衆にとって監視など単なる雑務のようなものだ。
お抱えのごろつき共にやらせればいいんだとべし見は思うが、仕事である以上仕方がない。
「女はどうだ?」
「ぼーっと寝てるぜ。いつも通りな」
「ま、あんな何もない部屋に押し込まれちゃあ寝ること以外やることもねぇもんな」
べし見は室内を伺いながら、内心で女に同情した。
新型阿片の製造方法を知る高荷恵と違い、彼女は阿片とはなんの関わりもない一般人だ。
だと言うのに彼女が幽閉されているのは、つまり観柳自身の嗜癖によるものに他ならない。
他者を支配し、踏み躙り、私腹を肥やすことを至上とする男だ。女を屈服させ支配させることが好きな、小悪党だ。
べしみは背を伸ばし、扉に設置された小窓から室内を覗き込んだ。
寝台の上にうずくまり、ぴくりとも動かない姿は生きているのかどうか疑うほどだ。
それも仕方ないのかもしれない。暇をつぶす道具すら取り上げられて狭い部屋に押し込まれ、刺激と言えばたまに訪れる武田観柳程度。
扉で隔たれた自分たちの声はや物音は、聞こえているのだろうか。
聞こえていてもいなくても、やることは変わらないが。
役目から解放されたひょっとこは、肩を回しながらあてがわれた自室へと戻っていく。ひとり扉の前に立ち、べし見はふうと息を吐いた。
幽閉された女も退屈だろうが、それを見張るべし見も退屈だ。
どれほどの時間をそうしていただろうか。
自分が石になったような気分でいると、般若が廊下の奥から近づいてきた。
背後には武田観柳の姿も見える。
花束を抱えたやけ面を見た瞬間、べし見の胸がずんと重たくなった。
べし見は念のため、表情の見えない同胞に声を掛けた。
「もう交代か?」
「いや。交代まではあと二刻ほどだ」
「だろうな」
交代の時間であってほしかった。退屈だからではない。
観柳がいるからだ。
般若の背後から顔を出した観柳は、べし見が形式上の礼をすると片手をあげた。
「お勤めごくろうさまです」
そのねっとりとした言葉遣いに、べし見は背筋を撫でられるようなぞわぞわした気分に陥る。
自分が大物だと勘違いをしている小物。それがでかい顔をしている様子は屈辱だ。
「彼女の様子はどうですか?」
「いつも通りです」
慇懃にべし見は答えた。ため息をこらえる。
外の気配を察したのか、扉の奥では女の動揺する声が聞こえてきた。
その悲鳴を聞いて、観柳はにたりと嬉しそうな笑みを浮かべた。
施錠を外し、扉を開け放つ。
「さん」
「あぁ……いや、いや、いや……」
「何日も留守にしてしまってすみません。近頃仕事が忙しくて……しばらくしたら、また仕事にいかねばならないんです」
「いや……やめて、やめて……」
「寂しがらせてすみません。そうだ、花を持ってきたんです。これで機嫌を直してください」
がちゃりと扉が閉まる。
語りかける声は鉄扉に阻まれ、急に聞き取りづらくなった。
しかし聞こえないわけではない。訓練された隠密の耳は衣擦れの音も嫌がる女のすすり泣きも、すべてをつぶさに聞き取ってしまえる。
はあ、とべし見はため息を吐いた。その肩をねぎらうように、般若が叩く。
般若面に隠された表情は読み取れないが、思うところはみな一緒だ。
女に同情しないはずがない。
交代までの二刻半の間、べし見はずっとすすり泣く女の声を聞いていた。二人の様子を直視しないでいられるだけ、まだましだろうか。
別に、慣れたものだ。隠密として生きている以上、嫌な任務は山ほどこなしてきた。
特にべし見は下級隠密。下っ端中の下っ端であったから、その分生臭い仕事も多い。だから慣れている。慣れ切ってしまっている。
愛しい相手との逢瀬を終えた観柳は、満ち足りた笑みで扉から出てきた。
「それではさん、また私が戻ってくるまで、いい子にしてるんですよ」
「いや……いや、いや……やめて、いかないで……」
「また来ますからね」
縋り付く女を優しく振り払い、部屋に押し込み、扉を閉めて鍵を掛ける。
見張り役のべし見に気が付くと、観柳はにっこり笑う。
「お勤めごくろうさまです」
やはり気持ちの悪い笑みだった。
べし見は会釈をしながら、扉に目をやった。
すすり泣きは止まらない。
観柳がやってきたあと、女は一晩泣き明かす。汚される自身の身体を思ってなのか、自由になれない身の上を嘆いているのかはわからない。
一番不可解なのは、観柳の物音を聞くだけで動揺していやだいやだと叫ぶのに、観柳が部屋から出る時になると追いすがることだ。
何年幽閉されているかは知らないが、気が触れてしまうのも当然だろう。
べし見はもう一度ため息をついた。
隠密の任務はあれこれと想像を巡らせることではない。ただ一人と決めた主のために、忠義を貫くことだ。
首を振って考えを押し流し、交代の時間が訪れるまでべし見はまんじりともせず扉の前に立ち続けた。
***
次に見張りに立ったのは、それから四日後のことだった。
「交代の時間だぜ」
「よおべし見。待ちくたびれたぜ」
声を掛けると、式尉は大きく伸びをする。
「調子はどうだ」
「いつもと変わらねえよ。まったく腕が鈍って敵わないぜ」
大仰にため息を吐く式尉に苦笑する。
式尉と持ち場を交代し、扉の前に立つ。そうしてから少したって、ふと声がした。
「――べし見って名前なの?」
べし見の背後、扉の奥からの声だ。
思わずべし見は背後を振り返った。小窓を覗き込もうとしてから、やめてる。驚いたことを感づかれたくはない。
いままで一言も喋らず、じっと息をひそめていた女だ。なにかたくらみがあるのかもしれない。
べし見は沈黙した。すると、また扉から声がする。
「変な名前ね。式尉とか、ひょっとことか。みんなお面の名前なのね」
よく知っている。外界から隔絶されている分、廊下から聞こえる声もよく覚えているのだろう。
今まで女の声と言えば、観柳を嫌がって泣いている時しか聞いたことがない。
こんなきれいな声も出せるのか、とべし見は驚いた。
返事をしないべし見にかまわず、女は続ける。
「お願いがあるの」
鈴が鳴るような声だ、と思った。
「格子窓に、鳥の巣があるの。だけど親鳥が帰ってくる様子がなくて、雛がどんどん衰弱していってるのよ。もう三日になる」
大方、天敵に食われたか人間に捕まったかしたのだろう。よくあることだ。
なんとなく嫌な予感がした。
「助けてあげてほしいの。じゃなきゃ、あの男に悪い噂吹き込むわよ」
脅し文句付きのお願いに、べし見はため息を吐いた。頭が痛くなってくる。
「あなたの悪い噂ではないわよ。あなたの上司の悪い噂よ」 「……今はだめだ。交代の時間が来たら、雀のことはなんとかしてやるよ」
「ありがとう。面倒をかけるわね」
短い礼のあと、それきり女は黙りこくった。
普段通りの沈黙が下りる。そうしていると、先ほどの提案は幻かなにかだったのでは、という気もしてくる。
だが現実だ。
***
高い位置の格子窓を見やったべし見はため息を吐く。
自分の背丈三つ分ほどの高さだが、隠密であるべし見にとってはなんてことはない。
地面を蹴って跳躍し、屋根に掴まって格子窓を見下ろす。
女の言うように、衰弱した雛が死にかけている。それを回収し、べし見は格子窓の奥を見やる。
薄暗い室内で、女が死んだように眠っていた。周囲には以前観柳が彼女に送った花束が散乱している。
暇つぶしに花びらをむしっていたのかもしれない。色とりどりの花びらに囲まれて眠る女に月明りが差し込む様子は、ひどく幻想的だった。
べし見は力を抜き、地面に着地した。
何が悲しくて、脅されて雛の世話をしなければならないのだろう。
小箱のなかに巣ごと雛を入れて、観柳邸の離れにある自室まで歩く。
その途中、女の元に向かう途中の観柳とすれ違った。
「おや、べし見さん。……なんですかそれは」
「……めじろの雛です」
「ふぅん。まあ、いいですけど」
顎をあげて雛を見やる観柳は、まるでごみ溜めを見るような目をしていた。
畜生たる雛への軽蔑と、それを抱えるべし見への嘲りの目だ。
やはりこの男は嫌いだ。
この雛が、あの女が愛着をもつものだと知ったら、どんな表情をするだろうか。
こんな汚らしいものを気にかけるなんて、と顔をしかめるだろうか。
なんにせよ、観柳は囚われの女の気持ちや願いを気に掛けることなどない。気に掛けていればとっくに解放しているはずだ。
どうしてべし見は、観柳ごとき男に頭を下げねばならないのだろう。
理由は簡単だ。
蒼紫が観柳と手を組んで、観柳の配下に甘んじているからだ。
――べし見たちのために。
時代の適応できず、流れに背き、御庭番衆で在りたがる愚かな部下四人のために、御頭が最強を求めているからだ。
『最強は御庭番衆だ』と蒼紫は言う。最強の証明を求めてさすらう御頭は、それが自分たち四人のためだとは決して言わない。だが言葉にせずとも伝わるものだ。
蒼紫が自分たち四人のために、最強という華を御庭番衆に添えようとしていることぐらい、べし見は知っている。
そのために蒼紫は観柳の配下に甘んじている。
観柳に顎で使われる蒼紫を見ることは、べし見にとっては屈辱だ。他の三人だって、同じ気持ちに違いないはずだ。
***
世話を始めた雛たちは、鳥かごのなかでぴよぴよと鳴いている。
死にかけだったが、今はすっかり元気になった。巣から出て、ぴょんぴょんと飛び跳ねながら翼を震わせて飛ぶ練習をしている。
もうそろそろ、巣立ちも近いかもしれない。
あの女の気持ちはわからない――べし見は思う。
せっかくなら自分で世話をすればいい。それぐらい観柳だって、しぶしぶかもしれないが許可するはずだ。
格好の暇つぶしなのに、べし見に押し付ける。
――羽ばたけるようになるまで世話をして。元気に成長して巣立ったら、印にひとつ、羽根を見せて。
――私が世話をしたら、きっと羽根をむしって逃げられなくしてしまうわ。
遠慮がちに声を落とす女の気持ちなど――べし見にだってわからない。
女の境遇に同情して、自分は観柳のような小悪党とは違うのだと思い込んだところで変わらない。
やっていることは同じだ。
憐れな女を助けてやろうと手を差し伸べるほど、べし見は若くない。そして恩知らず者でもなかった。
ただ、ありがとうと笑うあの声が、耳から離れない。
回転式機関銃の弾丸に倒れながら、べし見の脳裏にあの鳥の翼が浮かんだ。
もうそろそろ、巣立ちの時期だった。べし見が死ねば、あの鳥は鳥かごの中で餓死してしまうだろう。
餓死する前に、誰か見つけて保護してくれればいいのだが。
巣立ちまで見守りたかった。しかし本当は気づいていた。
狩りの訓練もさせないまま野に放てば、一日と持たずに死んでしまうことを。
一度人間が保護したのなら、死ぬまで責任をもって世話をしなければならないのだ。
知っていた。
それでも女の言うように、あの鳥を野に放とうとしていた。万にひとつぐらいは生き残るだろうと、躍進を夢見て希望を押し付けて。
生き残ることなど、万にひとつもありはしない。わかっているのに、それでもなお。
羽ばたけない自分が、なんと馬鹿なことだろう。
だがきっと、観柳は般若たちが倒してくれる。そう信じた。
自分が死の淵だと理解し、般若はあの女のことを思い出した。観柳を倒せば、あの女も自由になれる。
陽だまりの下で笑うあの女を一度見てみたかった。
そんな淡い想いは、目の前で悲痛の表情を浮かべる蒼紫に塗りつぶされる。
かすれていく視界のなかで、蒼紫は目を見開いて言葉を失っていた。
どうかそんな顔をしないでほしい。
笑うのも泣くのもうまくない。演技でしか感情を表現できない、不器用で愛おしい、我らが御頭。
「お、御頭……やっぱりだめでした……。俺たちを御庭番衆に居させてくれた御頭のため、命を賭けてみたけれど……」
最後の最後まで、役立たずだ。観柳をどうにかすることもできず、弾除けの盾としても不十分。
受けた恩を、なにひとつとして返せていない。
だから、そんな泣きそうな顔をしないでほしかった。
涙をありがたいとは思えない。
しいて言うなら笑ってほしかった。
これで解放されたと思ってほしい。べし見は単純にそう思う。
戦うべきに戦えなかった御庭番衆。ひとり、またひとりと新しい人生を見つけられたものを見送って早十年。
御庭番衆には自分たち四人だけが残った。
戦いしか知らず戦うことしかできない惨めな四人のために、どこにだって羽ばたいていけるはずの蒼紫は鳥かごの前から離れられない。
巣立つことが出来ず、開け放された鳥かごにしがみつくしか出来ない自分たちのために。
だからせめて、自分たちに出来ることは蒼紫の行く末に最後までお伴することだと思った。
それなのに。何の役にも立てない。
「すんません……最後の最後まで役立たず、で……」
手から螺旋鋲が零れ落ちた。それを拾おうとする動きが出来ない。
蒼紫の慟哭が聞こえる。
その叫びを聞きながら、べし見は「枷が外せた」と思った。
もう、蒼紫の枷となることはない。
死に向かうべし見の脳裏で、鳥かごから羽ばたく鳥の、大きな翼が見え――そして終わった。
2016/11/18:久遠晶