言えない言葉



 私が耳を落とし鼻を削ぎ唇を焼いて異形の顔になった時、蒼紫様は眉ひとつ動かされなかった。
 何重にも巻いた包帯を取りさって変貌した素顔を晒す私を一瞥し、「次の任務だが」と呟かれたのみだ。
 密偵の任務を与える際の、いつも通りの所作。
 注視するでもなく、目をそらすでもない。
 蒼紫様への恩義に報いるため、自主的に顔を削いだ。異形と化した素顔が蒼紫様に不快感を与えてしまうのではと不安だった私にとって、普段通りの態度を貫く蒼紫様のお心の広さは、この上ない救いだったのだ。

 私の行為は間違いではなかったと。
 私はここに居てもよいのだと。
 書類に視線を落とす蒼紫様の沈黙が、何よりも雄弁におっしゃっていたのだ。


   ***


 変り果てた素顔を見て、大抵の者は目を見張った。
 御庭番衆の仲間と言えど、変貌した私の顔には感じるものがあってしかるべきだ。私の決断に呆れ、「異常だ」と眉をしかめられるのは、覚悟していた。
 式尉たちなどは驚きつつもあっけらかんとしていたのだが。

「……こりゃまた、えれぇ物騒な顔になったもんだな」
「まぁデブと違って暑苦しくねぇからいいな」
「あん、やんのかチビっ!」
「おい、止めっ……上等だ!」
「……こいつらの方がお前より物騒かもな」

 式尉はひょっとこ達のやりとりを眺めて肩を竦め、私に笑いかける。
 私はどのような表情をすればいいのかわからず、また顔が引きつって動かせなかったのもあり……ただ内心で胸を撫で下ろしていた。
 蒼紫様の為に行った事だ、後悔はない。だが苦楽を共にする同胞に拒絶されるのは、やはり怖かったのだ。そのことをやっと自覚する。
 心配は杞憂だった。私の顔を見て眉をひそめた者も、私への扱いは以前と変わることはなかった。それどころか以前よりも尊敬の念を持って接された。御庭番衆の仲間、私の同胞。
 蒼紫様を思う気持ちは同じだ。
 しかし。

「おやまぁ。随分と男前になったものじゃないの」

 顔色ひとつ変えずに言い切ったの感性だけは、自分の顔の事ながら未だに信じられん。

「……本気で言っているのか」

 私を見つめるの瞳には偽りも皮肉もない。本心であると告げていた。
 だがあまりにも突飛な言葉を信じられず、私は聞き返していた。

「蒼紫様の為でしょう」

 は笑う。かすかに唇が弧を描き、凛とした瞳に柔らかな光が灯る。
 の指が、私の羽織に触れる。

「蒼紫様への忠誠心の現れ。前のお世辞にも格好いいとは言えない顔より、ずっと良いわ」

 随分な言われようだ。思わず苦笑した。

「もちろん、蒼紫様にはかなわないけどね」

 ゆるやかに微笑むの指が、羽織りを滑る。

「私は好きよ。その顔」

 私の首に手を回し、はすこし背伸びをして私に触れた。
 ……歯茎にやわらかいものが触れ、その感触にぞわりとする。
 唇はすぐに離れ、はわずかに身を離した。

「これって口付けになるのかしら」

 困ったようには笑う。
 は私の胸に頬を寄せ、私に身体を預ける。すがるように私を抱きしめて。

「……こんな事で私の気持ちは変わらないから」

 震える声で言う。
 身を寄せていると、の香りをいつもより強く感じる。引き込まれるように、私はその肩に触れた。

 私の気持ちは変わらない、とは言う。しかし、が私に抱く感情にどんな名前が付いているというのだろう。
 は一度も私に「好き」「愛してる」などといった睦言は吐いたことはない。
 それを言うなら、私もだが。
 指を絡め、視線を交わし、ただ私たちは言外に何かを語る。
 聞えないふりと気づかないふりに、長けた二人だ。
 私たちは御庭番衆だ。優先順位にはなにを差し置いても蒼紫様が存在する。
 が裏切り蒼紫様に刃を向けたのなら、私はを殺さねばならない。
 ためらいなく殺せるように、しておかなくてはならないのだ。
『私の命は、蒼紫様の為に』
 共通する合い言葉。
 私は蒼紫様の為に命を尽くす。


***


「般若ッ!!」

 蒼紫様の悲鳴が聞こえた。ガトリングガンが慟哭する。駆けだした私の身体は、勢いを無くして床に倒れていく。痛みはなかった。頬に触れる冷たい床の感触だけが鮮明だ。
 私はこのまま死ぬのだろうか。急速に瞼が重くなっていく。  かすんだ視界の奥で、抜刀斎が自らの愛刀を手にするところだった。
 五秒、と言ったところか。時間稼ぎはあまり出来なかったが、抜刀斎ならばやってくれるだろう。
 最後に抜刀斎のような人間と戦えてよかったと、心から思う。
 蒼紫様を守る為に死ぬ。後悔はない。
 後悔はないが、わだかまりがあるとすれば―――。


***


「働き口が見つかったわ」

 が、感情のない声で言った。

「……そうか」

 には背中を向けている。だからお互いの表情はわからない。

「住み込みでね。雇ってくれるところがあったの。自分でもまだ、信じられないけど」

 ぽつりぽつりと、は言う。
 不戦の敗北。御庭番衆が存在する意味はなくなり、私たちは宙に浮いた。
 一人また一人と新たな人生を見つけられた者を見送り続け、御庭番衆には私や式尉達、だけが残った。
 そのも、新たな人生を見つけた。
 は器用で器量もいい。むしろ、今の今まで働き口がなかったのが不思議なのだ。

「本当は……このままで良いのかと思う」
「どういう事だ?」

 つい振り返ると、は私に背中を向けたまま、すこし乱れた髪に櫛を通している。かすかに見えるうなじに、つい触れた。
 櫛を横取り、髪を梳く。戦闘要員と言えどそれなりに手入れはしているらしく、その滑らかさは私の髪の非ではない。髪を私に任せ、は話を続ける。

「蒼紫様の為に私たちは闘っていたのに……闘うことなく、戦は終わって。これからは御庭番衆を、蒼紫様の事を忘れて生きろなんて……」

 それは御庭番衆の誰もが思い、どうにもならなかった事だ。
 私もも、新たな人生を見つけた者を非難している訳ではない。ただ戸惑い、歩く術を失っただけ。
 の前には、御庭番衆としてではない新たな道が広がっている。果てなき道に茫然と立ち尽くし、蒼紫様への忠誠心ゆえに立ち止まっているのだ。
 櫛を畳に落とし、の肩口に顔を乗せる。

「私達の事は構うな」

 の身体がびくりと震えた。

「お前が此処にいても、蒼紫様がお嘆きになられるだけだ」
「……そんな、こと」

 わかってる。という言葉は、掠れて消えた。

「お前には歩く術がある。行って、良い男を見つけて、子供を作って、たまには喧嘩したりしながら、人並みに幸せになれ」

 平穏な人生を生きること。今の私には出来ないことだ。
 蒼紫様のお役に立つために顔を削いだというのに、今やこの顔のせいで士官話が来ないのだから、まったく難儀なものだ。普通の男としての人生も送れない。御庭番衆にとどまり、蒼紫様の部下であることしか──枷であり続けることしか出来ないのが、今の私だ。
 だからこそ、には私には出来ない生き方をしてほしい。
 この願いは御庭番衆で在りたいにとって、どれほど残酷なことだろう。
 こんなことを言いながら、私はを抱きしめたまま腕を離せないのだ。本当にを思うなら、突き放してしまえばいいのに。
 それが出来れば苦労はしない。

「……本当に酷い人ね、あなたって」

 腕の中でが動く。振り返って、背中に腕を回す。強く抱きしめる。
「わたしっ、般若の事……!」
「言うな」

 言葉の途中で、のくちびるに歯を押し付けた。
 口付けとも言えない、くだらない、なんの意味もない行為だ。
 それでも、は冷静になってくれたらしい。冷や水を浴びせられたような驚いた顔をして、目をぎゅっと細めた。
「……本当に馬鹿ね、あなたって」

 微かに笑うの目元は赤い。
 胸に顔を押しつけ震えるの髪をあやすように撫で続ける。その間私はずっと、ただ天井を仰いでいた。

 私たちの胸に在るのは蒼紫様への思いのみ。
 私たちの道は交わらない。目的は同じでも、二人で居れば互いの存在が刃を鈍らせる。戦争が終わった後も、蒼紫様という目的の為に歩く道は分かれている。

「……蒼紫様を宜しくね」
「あぁ」
「主夫してるあなたも、素敵だと思うんだけどね」
「言うな」
「わかってる。ごめん。今だけだから」

 眉を寄せて、それでもは微笑む。

 ―――愛している、そんな言葉は言えない。
 湧き上がる情動を言葉にしたら、どうにかなってしまいそうな気がした。蒼紫様の為だけに生きる私にとって、この思いは邪魔にしかならない。
 私の胸の中には常に蒼紫様と共にがいた。
が蒼紫様に刃を向けた時、躊躇わずにの首を飛ばせたかと言えば、―――自信はない。
 だって、きっとそのはずだ。
 この気持ちはいつだって同じ。
 言葉にこそ出来なかったが、をなによりも愛していたとも。






2009/7/7:久遠晶
初、般若夢。般若大好きです。
般若は蒼紫を思う余り、恋心を封印していたという感じです。