落つる木の葉と殿心


「愛に身分差は関係ないと、思わなくて」

 の細い指先がそっと、般若の共襟に触れた。その瞬間、びくん、と静電気が流れたかのように、般若が動いた。

「……姫、様」

 般若は上擦った声でどうにかそれだけ呟いた。逃げるようにじりじりと後退るものの、背中に木の幹が当たり、それ以上の動きを止められる。
 の瞳は、仮面越しの般若の瞳を見据えたままだ。

(……貴方はなにもわかっていない)

 心中で毒づき、絡み付く視線を顔ごと逸らした。の瞳を視界に入れないように、般若は強く目を閉じる。の残像が瞳に残っている。

「もしも貴方に慈悲がおありなら――」

 ――今すぐ私をはねのけ、その口で死ねとおっしゃってくださいまし

 紅い唇が囁き、懇願するようにその柳眉が寄せられる。

 先程よりも優しく、壊れ物を扱うように、再び、は般若の共襟に触れた。
 身体を硬直させる般若を見つめながら、彼女は距離を縮める。そのまま、指先はするすると共襟を登り、般若の首筋に触れる。びくん、と先程よりも大きく般若が反応を示した。
 ごくり、と唾を呑んだ事を振り切るように、般若は息を吐いた。耳元で鳴る心臓が、酷く煩い。

「……落ち着いてください、姫様」
「わたくしはいつでも冷静でございます」

 頬を般若のがら空きの胸に寄せ、慈しむような悲しむような声色で、はそう返す。

「わたくしの気を違えさせたのは、貴方様でございますのに」

 般若の胸元に微かに湿った吐息がかかる。ほのかに立ち上る匂いに、必死に木の幹を掴んでいた手が理性を失う。本能のままに般若は腕を跳ね上げ――。

「あまり般若をいじめないでやってくださいますか、姫様」
 我が主のその声で、般若の腕は振り下ろす寸前で止まった。
 の後ろ、すこし離れたところで、背の低い木の葉を避けるようにしながら、蒼紫が顔を覗かせていた。

「わたくしは般若に愛を説いているのです、邪魔をしないでもらえますか」

 振り返り、不機嫌そうに眉をひそめるの肩を、そっと、そうっと、羽根が肌を撫でるかのごとき繊細さで触れる。般若はそのまま、彼女を剥がした。

「……私は蒼紫様に忠誠を誓っておりますので」

 悲しげな表情だったは、その言葉に顔をあげた。ぱちぱち、とまばたきを繰り返し、綺麗な唇から発せられたのはこの場には似つかわしくない言葉。

「……般若は男色なのですか?」

 微かに呻いたのは蒼紫で、溜め息を吐き出したのが般若だ。

「御冗談を……。私にその趣味はありません。が好きではない方の求愛には応えられません」
「……私の事ですか?」

 言葉には出来なかった。だから般若は、硬直する筋肉を無理やり動かして頷く。

「そう」

 の唇が弧を描く。眉をひそめたまま、それでも唇だけは笑う。

「ならば、仕方ないわね」

 ――うそつき
 唇の動きは声にならず、般若にのみ、罪悪感と胸の痛みという形で届く。
 仮面の奥、般若の素顔はにはわからないというのに、すべてを見透かすような悲しげな微笑み。
 般若の言葉が本心であるならば、何故、何故彼は今もまだ、の肩を掴んでいるのだろう。
 越しに、般若はちろりと蒼紫を見て、会釈する。気にするな、と蒼紫は片手を上げる。
 愛に身分差も生きた年月の差も関係ない―――なんて、この世はそんなに都合よく回りはしない。
 般若が背にした木から、まだ枯れていない瑞々しい葉が、それでも枝から零れ、地面に重なった。





2009/8/17:久遠晶