簪と日常
顔面を殴って、相手の拳を避けて、みぞおちを蹴る。目の前に落ちてきた頭を膝で殴る。それで相手は倒れる。
立ち上がろうと体勢を立て直す前に、こめかみを蹴り飛ばす。
般若は首をかしげる。顔の真横に突き出た手を取って、そのまま前のめりに投げ飛ばす。
般若がだいたいそれぐらいの動作を繰り返すだけで、男三人は尻尾を巻いて逃げだした。
「……相変わらず、見事なものね」
「私など。蒼紫様なら、もっとすばやく倒していた」
ぱんぱん、と両手をはたく般若の背中を見ながらつぶやくと謙虚な返事。
まあ、実際蒼紫様の方が早く終わったと思うけど。
「怪我はないか?」
「ええ。ごめんなさいね、変装してるのに……」
「構わん。この場では、お前より私が倒した方が注目されなくて済む」
「ありがと」
振り返って私を心配する般若―――今は青年に化けている―――にすこし笑ってみせる。
なんの変哲もない娘としてこの町にいる私は、表立って騒げない。それを気にして男たちを撃退出来なかったのだから、そこに割って入って助けてくれた般若はお礼しか出てこない。
ふと通りのほうを見ると、私達のいる路地裏を気にしていた野次馬が慌ててどこかへ行った。
端から見ると般若は、困っていた女性を助けた英雄なのだろう。般若は困ったように頭を掻く仕草をした。目立っているのが居心地悪いらしい。
「ごめんね、なにかおごる」
「いや……」
「遠慮しないでいいから。なにがいい?」
「女に金を出させる訳にもいかん」
「体裁気にしちゃって。私たちの間にそんなのないでしょ」
言いながら、男に絡まれた拍子に千切れてしまった髪紐を拾う。
「使えそうか?」
「んー……よりあわせて補強しないと、ちょっと無理そう。少なくとも今は無理は使えないわ」
気に入ってたのにな、この髪紐。適当にくくるだけでも映える色合いをしてるから重宝していたというのに。
「……なら、これでも使うか?」
そう言って般若が懐から取り出したのは、布に包まれた簪だった。
丁寧な細工が施されたそれはどう見ても高価な物。どうしてこんなものを般若が。
「お前が気に入るかはわからないが」
「これ、もしかして」
「ああ」
「変装道具なんて、借りちゃっていいの?」
「なんだと?」
般若が目を見張った。
私、なにか変なこと言ったかな。任務にも使う大事なものだし、他人が使っていいようなものじゃないと思ったんだけど。私も自分の変装道具を他人に貸すのなんて嫌だし。
首をかしげると、般若はあからさまな溜息を吐いた。あれ、なんか呆れられてる?
「それは……お前に渡そうと思っていたものだ」
「は、へ、えっ!? そ、れはとどのつもり、私にこの簪を譲渡……」
「お前の好みに合わないのなら、いい」
そんなことはない。流石長年の付き合いと言うべきか、私の好みを的確に突いてきている。
でもまさか般若が私に贈り物なんて、晴天のヘキレキにも程がある。驚きで声が出ない。
「遠慮はしなくていい、さほど金をかけた訳でもない」
「ち、違うの。びっくりしただけ。……ありがたくイタダキマス。ども」
「……嫌ならいいんだぞ?」
「いえっ。嬉しいです」
緩む頬を隠す為に口元を手で覆う。
金をかけていない、なんて嘘だ。装飾の細やかさといい、かなり値が張るものに決まっている。
……やばい。恥ずかしい。
顔に熱が集まる。
なんで、こんないきなり……!
いきなり俯いて顔を覆う私を疑問に思ったのか、般若が私の名を呼んだ。
「気分でも悪いのか、」
「いえ、そう言うわけじゃあ……」
私の顔を覗き込むようにしながら、頬に触れてくる般若。ひんやりとした指先が、火照った顔に気持ちいい。
のはいいんだけど、ひたすらに恥ずかしい。
ほんとにどうしちゃったの、般若。基本的に、般若は他人に触らない人なのに。
街中でこんなふうに触られると、余計に顔から火が出そうになる。
般若の様子を窺うように顔を上げると、般若は笑っていた。青年の変装をしているから表情がわかる。
「どうした、顔が赤いぞ」
「……あんた、さてはわざとやってるわね」
「髪紐が千切れたお前に簪をくれてやっただけだ」
「そこじゃないっ」
「ん?」
にやりとした笑みのまま般若が首を傾げた。わかりやすく大仰に表情を動かして、私をからかっている。
「……もう知らない」
「おごるのではなかったのか。私は団子がいい」
「……うぐぐ」
お礼の話を引き合いに出されてはなにも言えない。
般若は柔らかい笑みを作ってみせて、私の頭を撫でた。
私は溜息をひとつ吐き出して、簪で髪を結い上げる。
「どう?」
「似合っている。安心した」
「ありがとう」
やっぱりちょっと恥ずかしい。
こんないじわるするなんて、般若ってばひどい人だわ。
2010/05/01:久遠晶
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