どうしようもない馬鹿ども
真夜中―――葵屋の人間達が寝静まった頃、俺は庭に降り立った。
しっとりとした風が頬を撫で、コートの裾をはためかせる。
「般若」
「なんでしょう、蒼紫様」
月を見ながら闇夜に向かって問いかけると、後方から返事がかかる。ひざまずいているのだと、声の位置でわかる。
江戸幕府が崩壊し江戸城御庭番も消え、もう俺に頭を下げる義理などないというのに。……ああ、そういえば般若は、俺が御頭になる以前からも様付けで俺を呼んでいたな。
「操は」
「寝室でお休みになっております。体力が有り余っておられるとはいえまだ子供ですから、長旅がこたえたのでしょう」
「そうか」
はい、と小さく頷く声。
これが本題であるとは思っていないようで、般若は黙って俺の言葉を待っている。
「般若」
「はい」
銀色に輝く月。闇夜を薄く照らし、薄い雲を映し出している。
木の葉が揺れる。
「……お前は俺が『死ね』と言えば死ぬのか」
「蒼紫様の為に死ねるのであれば」
鉤爪を展開させたのだろう、その言葉と共に金属が擦れる音が聞こえる。
ゆっくりと布が持ち上がる音。躊躇っているのでも戸惑っているのでもない。単に感傷に浸っているしているだけなのだろう。
目を閉じれば般若の動作がつぶさに感じ取れる。
「止めろ」
般若の呼吸を見計らって声を掛けたのは、少々意地が悪かっただろうか。
「お前は」
戸惑うような吐息。必死に俺の真意を探っているのだろう。
俺の真意などわかるはずもない。俺のことしか考えないこの男では。
「俺の為に死ねるなら、どうしての為に生きようと思わない」
振り返ると般若は硬直していた。
目の前を睨む仮面は表情を変えることはない。しかし身体が強張っていた。
般若は鉤爪を喉元に触れたまま、なにか言いたげな息を吐き出した。
「何故……が、出てくるのですか」
平静を取り繕った声も、震えていては意味がない。
「私は―――」
「黙れ」
びくり、と般若の肩が震える。予想よりもずっと低い声が出た。よほど俺も、この男のへの対応には思うところがあったらしい。
「もう江戸幕府は崩壊した、もう御庭番衆などという組織は存在しない」
ひとつひとつ言葉を区切って、言葉をねじ込む。
もう御庭番衆は存在しない、御庭番衆にいた人間も新たな道を模索しているのだ。終わってしまった組織にしがみ付いていても自分の歩みを止めてしまうだけだ。
闘えなかった御庭番衆。しかしそれを憂いていただけではなにも始まりはしない。
「っお言葉ですが、蒼紫様」
躊躇うような声色。般若がなにを考えているのか容易に想像がつく。
般若が吐息に感情を滲ませるのは珍しい。つまり、それほど動揺しているということ。
「……私が、を幸せに出来るとは思いません。それに―――」
「それは、お前が決めることではないな」
冷たく言い放つと、般若は萎縮したようだった。弁解をするように俺に手を伸ばし、はっと手をしまう。
俺に触れることが、とても罪悪を感じさせることのように。
玄関の方の気配に気付いていながら、俺は言葉をとめる気はなかった。
「これからは……のこともすこしは考えてやれ」
「蒼紫様っ!」
般若がひときわ大きな声を出した。
荒く呼吸をして、般若は胸を押さえた。感情を消しきれていない。よほど触れられたくないことだったのだろう。
「私、私は―――っ」
「あおしさま……?」
般若の言葉を遮って、操の声が割って入った。
寝ぼけた操がまぶたを擦りながらこちらを見ている。
俺の言葉を仰ぐように、般若がこちらを見た。
「どぉしたの?」
操がたるんとした瞳で首を傾げる。
ぎこちない動きで操に近づくと、素足のまま縁側に降り立とうとした操を止めた。
しゃがみこんで目線をあわせ、般若は操の乱れた寝巻きを整える。
俺は顔を背け、視線だけで操を見た。
「どうなされたのですか?」
「んとね~、蒼紫様がねえ、すんごい顔でわらっててね、おもしろくてね、はんにゃくんにおひげはえてた」
「……寝ぼけてらっしゃるのですね」
はあ、と溜息を吐き出すと、般若は寝間の方へ操の背中を押す。
操は眠たそうに般若にもたれかかった。
「俺の用件は以上だ」
「蒼紫様……」
「はんにゃくん、いっしょにねよ~」
「寝かしつけてやれ」
俺が言うと、ややあって般若は頷いた。操と共に寝間に向かう。
居なくなった背中が、いやに頼りなく見えた。
般若が、俺への忠誠心とへの思いに板ばさみになっていることは知っている。
般若は律儀だ。あの日―――親に捨てられ野垂れ死にかけていた般若を、俺は助けた。そのことに恩を感じているのだろう。
俺への恩義に報いる為に、般若は恋心を捨てている。
だが、もう御庭番衆は存在しない。これから、般若達がどのような道を行こうが、それは自由だ。
般若が縛られる必要は、ないのだ。
「親心ってやつかい、アンタもおせっかいだねぇ」
後ろから声がかかった。式尉だ。 肌寒い夜風を気にする様子もない上裸姿で、式尉はこちらに歩み寄る。
「ま、よかったと思うぜ」
俺がなにかを言う前に、式尉は言った。
「般若も頑固だからな、ああでもしなきゃとちゃんと向き合うってこともねーだろ」
歯を見せてにやりと笑と式尉は大きく息を吐き出して、空を仰いだ。
「般若は大馬鹿野郎だ。べしみもひょっとこも」
どこか遠い目の式尉は、そう言った。
雲間に光る月を見つめながら、どこか諦めたような表情で。その表情は泣いているようにも、自嘲しているようにも思える。
のいる部屋に、蝋燭の火が灯った。
「御庭番衆は……もう存在しない」
「ま、そうだなァ。だから俺たちは馬鹿なのさ」
式尉は溜息を吐いた。
お転婆な愛娘が周囲を困らせる様子を見た時のような、うんざりしながらも好ましさを感じているような―――。
しかし、その瞳は、やはり、どこか遠くを見ている。
それでいて、声色はすべてを見透かしているようなもの。
「なんの話だ」
「さァねえ。俺は、俺のやりたいようにするだけさ。アンタが嫌がったとしてもな」
こちらを向いて、ニヤリ、と式尉は笑う。
悪戯を仕掛ける子供のような目だが、無邪気というよりは意地の悪い表情だ。
「……お前も」
俺と式尉の間を、風が通り抜けた。木々を揺らして、木の葉を散らす。
耳元で鳴るその音が酷くうるさいと思った。
「本当に馬鹿な男だ」
の部屋から灯が消える。
式尉は苦笑した。
「アンタほどじゃないさ、御頭」
笑っているような泣いているような声が、酷く式尉に似合わないと、そんなことを思う。
葵屋を出ると、べし見とひょっとこが荷物を纏めて俺を待ち構えるようにして立っていた。
俺の考えは見透かされていたということか。仕方のないやつらだ。
音もなくやってくる般若には、溜息すらつけない。
本当に仕方のないやつらだ。
縛るものなどなにもないと言うのに、なにも生まない闘いに身を投じようとしている。
御庭番衆の誇り、それだけの為だけに。
……どうしようもないやつらだ、本当に。
覚悟はあるなら、これ以上、俺が止めることは出来ない。
「ならば行くぞ。御庭番衆に最強という華を添える為に―――」
薄い雲が月を覆い隠しつつある。
そして俺は、操の前から姿を消した。
2010/02/14:久遠晶
葵屋を立つ前にこんな会話があったら悶える、と思って書きました。
べし見とひょっとこ視点の話しもいつか書きたいですね。