この雨が終わるまで



 ざあざあ、ざあざあ。
 居なくなる者を引きとめるように雨が降る。
 空が気を遣ってくれているのだとしたら、それは有難迷惑だ。

「雨、止まないわね」

 季節外れの大雨は、今日でもう一週間も振り続けている。だけど、もうそろそろ潮時だろう。
 明けない夜はないように、止まない雨もない。
 終わらない恋も、きっとこの世には存在しない。
 世の中そんなものだ。

「雨って好き?」

 窓に打ちつける雨粒を眺めながら、私は静かに尋ねた。
 般若からの返事はない。屋根に打ち付ける雨音だけが空間に響く。それがただ、息苦しい。窓を閉め切っているからではなくて、般若の存在を意識しすぎているからだ。
 私はため息をついて、貸し本に視線を移した。
 操さまは外に出て遊びたいと暴れ疲れて早々に眠りこけてしまった。だから、この部屋に遊びに来る者はいない。
 邪魔者は不要だと、翁たちは気を遣ってくれている。でもそのせいで、私はいまとても息苦しい。
 もう、十五年も会っていなかった。隠密としては短いけれど、若い男女にとっては途方もなく長い月日だ。

 十五年前──黒船が来訪した時、京都に御庭番衆の拠点を作ることになった。
 先代御頭に拠点づくりを任された翁によって京都御庭番衆の人員に選ばれた私は江戸城を離れざる得なかった。
 般若とはそれ以来会っていない。
 そこで与えられた任務は、私の人生で、一生消えないであろう汚点であり罪だ。
 私は維新志士の中に医者として紛れ込んだ。敵を欺くため、信頼を得るために心を尽くした。怪我をした維新志士を保護し、助け、癒し続けた。
 そうして気づいたら、江戸幕府は負け、維新志士が勝っていた。
 私はいったい何なのだろう。
 私が密偵として行った出来うる限りの行動は、すべて無駄だったのだ。江戸幕府を死に至らしめる手伝いを、していただけだったのだ。
 戦には参加が出来た。戦況を変える努力の余地があった。戦の渦中にいることが出来た。
 それなのに私は……。

「雨は」

 般若のつぶやきに、急激に現実に引き戻された。
 ずいぶんと間が空いていたから、うっかりすると単なる独り言だと聞き逃してしまいそうだった。
 ちらりと盗み見た般若は、ただ窓に顔を向けている。目を閉じて、雨音に耳を澄ましているのかもしれない。
 常に仮面をつける彼の表情や視線はわかるはずもなく、本心も深い霧に隠されているようで私には見通せない。
 蒼紫様ならわかるのだろうか。あの、偉大なお方なら。
 江戸城で生きてきた面々には、特別な絆がある。それは、心ならずも江戸城を離れ維新志士の内部で奔走していた私には、到底得られないものだろう。
 雨はとどまるところを知らず、延々と振り続けている。

「雨は臭いを消す。それに救われたことも多い」
「それはまあ、確かに。あなた個人の感情は?」
「私個人? どうとも思ったことはないな」

 般若が、文字を隠すように本を手のひらで覆った。顔を上げると、般若がぐっと身を寄せてくる。

「だが今は、お前とこうしていられる」

 どういう表情で言っているのか、と思った。眼前に突き付けられた仮面からは、般若の感情はうかがいしれない。仮面の奥の瞳は、どんな色をはらんでいるのだろう。
 私ははっと笑ってしまった。般若の肩を押す。

「ずいぶんと情熱的な言葉ね」
「私は本気だ」

 本気? 馬鹿言うな。私と添い遂げる覚悟もないくせして。
 立ち上がろうとすると、手首を引かれて畳の上に押し倒された。

「私を見ろ」

 言われなくても、天井をさえぎるように私に覆いかぶさる般若の仮面は、よく見えている。
 酷く泣きたくなる。
 恐る恐る、般若の仮面へと手を伸ばした。素顔を隠す仮面を外す。
 般若はされるがまま、息を飲む私を見ていた。
 黒船来訪からの十五年は、御庭番衆解体までの十五年に等しい。
 その間に、ずいぶんと般若の素顔は変わってしまった。

 最後に般若と会った時、彼はみいらのように包帯をぐるぐるにして、感染症による高熱で生死の境をさまよっていた。医学的な準備もなく顔を削ぎ落した、当然な代償であり洗礼だ。
 膿んだ傷にうじがわいてぐずぐずになった顔の包帯を毎日取り換えてやりながら、そのひどいありさまにため息を押し殺していたころが懐かしい。
 蒼紫様のために顔を削ぐなんて、馬鹿にもほどがある。
 だが同時に、蒼紫様に忠義の限りを尽くし文字通り身を削る姿に、どうしようもなく憧れた。
 どうか感染症ごときで死んでくれるな、と、心から思った。

 完治する前に私は京都にいったけれど、般若がどうなったかはずっと気がかりだった。
 生き抜いて上級隠密になったところで早死にすると思っていたけれど、なんと十五年も生き延びるとは。
 ──いや。違う。そうではない。生き抜いたのではなく、死地に送られなかっただけだ。
 隠密として、あるいは格闘家として高等であればあるほど、あの戦乱の世ではかえって保護される。密偵として最前線に送り込まれるのは下級から中級の隠密たちばかりで、強い者は江戸城の警護に回されるのだ。
 徳川慶喜を警護するべく城内に配置されていた御庭番衆の精兵は、江戸城が無血開城したあの日、どんな気分だったのだろう。
 聞けるはずもない。

 般若の素顔は、思っていたよりずっとましな顔をしていた。
 鼻も、くちびるも、耳も、頬の高さすらもない。それでも、布団に伏せ顔をさいなむ激痛と感染症に臥せっていたころと比べればずっとましだ。
 指先で頬をなぞる。人間の皮膚の感触ではなかった。
 私は努めて頬を持ち上げて笑う。

「この顔をみて、蒼紫様は笑ってくれた?」
「いや。なにも言われなかった」
「……ふっ、蒼紫様らしい」

 場面が容易に想像できる。
 変貌した素顔を晒す般若を一瞥して、動じることもなく次の任務を言い渡す蒼紫様を想像すると、自然と微笑みがもれたる。
 そんな方だからこそ、忠義を尽くす甲斐があるというものだ。



 その呼び名で呼ばれるのは久しぶりだ。御庭番衆として育ち、与えられた名前。
 般若は手袋を外し、素肌の指で私の頬に触れた。私の身体をたどり、ぐっと身を寄せてくる。
 この身体に抱きしめられるのは、実に十五年ぶりだ。顔は変わっても、抱きしめるときのしぐさは昔と変わらない。
 瞳の光は以前よりも鋭さを増した。
 はあ、とため息を吐く。

「今の私は人妻なのよ。維新志士の一人に求愛されて、結婚してるから」
「未亡人の間違いだろう」

 知っていたのか。
 私は急に、この男が憎らしくなった。
 愛の言葉も囁かず、こうして当然だと言わんばかりに畳に押し倒し、身を寄せるこの男が。
 私と離れていたこの十五年間、この男はどんな気持ちでいたのだろう。
 私と離れていた時、この男は少しでも私を思い出すことがあったのだろうか。

「それに、愛していたわけではないんだろう」

 ねじ込むように般若が言う。どうかそれ以外の言葉は言ってくれるなと懇願するような口ぶりでもあるし、不遜な口ぶりにも思える。

「不器用な男ね、あなたって」

 これまで女を口説くことも、篭絡することもして来なかったのだろう。
 隠密としてはどうだろう。情報を引き出すための手管は教わらなかったのか。
 ――いや。茶化すのはよそう。
 彼も私も、骨の髄まで御庭番衆だ。御庭番衆として生き、御庭番衆として死にたがる、終わった組織に縋り付く哀れな戦士だ。
 その彼が、仮面を捨て、持てる限りの誠意さでもって接してくれている。
 だと言うのに、過去と未来ばかり気にしているのは、無礼以外の何物でもない。

 般若の背に腕を回し、抱きしめ返した。

 ぼたぼたと雨の音が響き続ける。陰鬱な気分にさせる、篠が突くような大雨だ。
 私の涙など掻き消して、なかったことにしてくれるはずだ。

「一晩だけよ」

 持てる限りの誠意と優しさを総動員させて、私はそう言った。
 本当は引き止めたい。どうか私のそばにいてと、うぶな娘のように囁きたい。
 般若だって私の気持ちは知っているだろう。それでも、睦言は言わない。
 ──お互いに。
 私たちはお互いに残酷で、それ以上に、やはり骨の髄まで御庭番衆だ。
 忠義を尽くす方法が違う。それだけ。
 私は新しい道を歩む。般若はただ蒼紫様の行先にお伴する。それだけの違いだ。
 そして、その道に、互いはいない。
 それだけの話だ。
 結論は出ている。互いがそれを告げる必要もない。
 この雨が明けたら、般若はもう居なくなる。仕方ない。
 それまでの時間を私にくれた。それだけでいい。
 大切なのは、それだけのことのはずだった。





2016/11/03:久遠晶