自信に満ちた笑みで彼は言う
何が起きたのだろう―――とは思った。
夜、いつも通りに別々の布団で寝ようとしただけだ。いつも通りなら、それで何事もなく朝がやってくるはずだった。なのに。
「お前は、これでいいのか」
唐突だった。腕を掴む比古の手が熱い。
「お前は俺に惚れてる。いい加減素直になれよ」
いつになく真剣な比古の声。
は手を振りほどこうとするものの、比古はそれを許してくれない。
「自信家も大概にしてくれ。お前を放っておく女は中々いないと思う。けど、すべての女がお前に惚れるわけじゃない。……特に私のような女は」
「」
すこしだけ、比古の声に怒気が含まれる。やらかした失敗を認めない子供を叱るような、厳しい口調。
何故こんなことで責められなくてはいけないのか。
目を潰され、蒼紫の役に立てないことに絶望し、朔夜は御庭番衆を抜け出した。
行くあてもなくのたれ死ぬところだった朔夜を助けた比古は『ここに居たいなら好きにしろ』と、それだけ言って全ての決断を朔夜に任せた。
目の見えない自分を嘲ることもない比古の言葉が心地よく、また、有難くもあったから、朔夜は比古の元に居ついた。
だが、『私の命は蒼紫様の物』というの意識は、御庭番衆を抜けた今も変わっていない。
それを比古は知っているはずなのだ。
「私の命は蒼紫のもの。何度も言ってるだろ」
「知っているさ、そんなこと」
掴まれた腕に力がこもる。比古は続けた。
「だが、おまえの命がそのシモノリアオシのものなら、お前の心は俺がもらっても構わないだろ?」
比古の言葉に、の時が止まる。
言葉は確かに聞こえていたが、は耳を疑った。動揺を隠せない。手が震えそうになる。
「じょ、冗談は……」
「おまえの身体も、心も……寄越せよ、俺に」
「……なにを言ってる」
「本気だ。俺は」
次の瞬間、硬い肉感のなにかがを引きよせ、強く締める。首元で比古の声がする。鼻に硬いなにかが当たる。とくんとくんとくん……規則的な音が聞こえる。
―――それが比古の心臓だと、本能でわかった。
理解した瞬間、は比古を押しのけていた。
布団の上で縮こまり、首を振りながらは苦悶の表情で言う。
「やめろっ! 私に触れるな……! お、お前にそうされると、おかしくなるんだよ」
「……」
「だめ、ダメなんだ。私の命は蒼紫様のものだと言ったろう。だめ、だめなんだよ」
「―――」
子供を諭すような口調だった。
布団の腕で身を守るように身体を抱きしめるに、再度暖かいもの―――比古の腕が回される。
着物越しに感じる比古の体温。布越しでもわかる、心地のいい比古の鼓動。すべてが解けだしてしまうような甘美な感覚には目を閉じかけて、はっとして、その腕を振りほどこうともがく。
「だめだ、ダメだダメだダメだ!! お前は私の傷を見てないから言えるんだ! 私は目が見えないし、なんの役にも立たな―――んっ」
柔らかいものがの唇に触れる。湿り気をおびてぬらぬらする、やわらかすぎる感触に鳥肌が立つ。
首を振ろうとすると、がっしりとした比古の手が頭を押さえる。さらに唇に押しつけられる。
「ん、ふっ」
唇が塞がっているため、鼻から息が漏れた。
濡れた生暖かいものが唇に触れたかと思うと、の唇を割って口内に侵入してくる。
舌で感じるなにかの感触は思ったよりざらざらしていて、に凹凸のついたナメクジを想像させる。
「んっ……はっ」
それが比古の唇であることに、はやっと気付いた。
かすかに聞こえる比古の吐息が、の身体を熱くさせる。もうなにも考えずにこのまま溺れてしまいたくなる。
抵抗するの腕から力が抜けていく。そのまま比古に肩を押され、は布団の上にゆっくりと押し倒された。首に感じる硬い感触は比古の腕だろう。 ややあって比古から解放され、体温が遠のく。
「あ……」
思わず吐息が漏れた。離がたいと感じてしまっている。
「……っ、すげ……」
なにが『すごい』のだろうか。はとっさに顔を横に向けた。
真上から吐息が聞こえる。かすかに微笑む、そういう吐息だ。
「―――っやめっ!」
指が共襟から素肌の中に侵入してくる。さあっと血の気が引き、は暴れ出した。
それまで抵抗らしい抵抗を見せなかったの激しい拒絶にも、比古は行為を止める様子はない。
比古はの両手を片手で掴むと、もう片方の手で帯を解きにかかる。
「やめ、やめろ比古っ! 見るな、みるなっ!」
足と腕を出来うる限り動かして抵抗するものの、かえってそれが着物をはだけさせる結果となる。
抵抗も空しく、の肌がひんやりとした外気にさらされた。
「やめ……比古……」
やっと、比古の手が両手から外される。ぬくもりも離れる。
目は見えずとも、視線は感じる。おぼつかない手つきで着物を手繰り寄せ、身体を隠した。
御庭番衆に居た頃に負った無数の傷。
細菌感染によって病気になり、化膿し、爛れ、皮膚が癒着し、赤く歪んだ傷は全身余すところなく存在する。
全身の傷は【隠密としての】にとっては誇りにも等しいものだったが、【女としての】にとっては重荷でしかない。醜い傷を、比古にだけは見られたくなかった。
惚れた男にだけは―――。
武人の誇りと女の自尊心はまったく違うものだ。
「……わかったろ、傷だらけなんだよ、私の身体は。私の身体なんか使おうとしたところできっとすぐに萎えて―――」
「それは、俺が決める」
ぬめり、と濡れたなにかが、肩の傷に触れた。太刀傷を舌でなぞられている。
「……っ、比古っ?」
「それに俺は、性欲処理がしたくてお前を求めてる訳じゃない」
「ひ、比古!?」
傷を舌でつつかれ、声が上擦る。
傷をなぞる舌の熱さに身震いがする。
「……っ!! 比古、やめ―――」
「」
比古は言う。緑弥の手に指を絡め、意地悪く笑う吐息と共に。
比古は言う。の手に指を絡め、意地悪く笑う吐息と共に。
「お前の惚れたこの比古清十郎ってェ男は、身体に傷があるぐらいでお前を軽蔑するような、そんなちいせぇ男なのかよ?」
言ってみろよ? そう言わんばかりに、の顎を掴み、親指で唇に触れてくる。
いつも通りの声色で、いつも通りの笑う吐息で。
の目は見えない。顔も知らない男―――だが、その表情がよくわかる。
この男はから拒絶されるとは微塵も思っていなくて、そういう、自信に満ちた笑みでを見降ろしているのだ。
それがわかったから、の身体は震えた。
「……あ、」
思わずは泣きだしていた。
比古は黙っての頭を撫でる。
素直になって……いいのだろうか。比古への思いを認めると、四乃森蒼紫への忠誠心が軽いものになってしまうような気がして、それが怖かった。自分の命にも等しい存在を、自分の手で侮辱してしまうような気がした。
そんなの迷いを見透かし、包み込むように比古は抱き締める。
「わたしの命は……蒼紫さまのものだ」
「ああ、知ってる。だが心と身体は俺のものだ。そうだろ?」
吐息が微笑む。
絡まる指先から、比古の熱が直に伝わってくる。
とくん、とくん、とくん……比古が生きている証。
「それでもいいのか、私で」
答えるように、比古の唇が下りてきた。
そのことにむず痒さを感じながら、知識はないのになかば本能的に、比古の舌に応えた。
強く身体を抱きしめ合うと、まるでつがいの貝殻のようにぴたりとはまりこむ。もともとひとつだったかのように密着して、比古の心臓の音に合わせての鼓動が高鳴る。
「あいしてる……」
どちらともなく、二人は囁いていた。
もう嘘はつけない。ずっと比古に触れたくて、触れられなかった。今はの腕の中にいる。力強い身体。
胸の内から弾けた気持ちのまま、はもう一度比古に口付けた。
2010/3/18:久遠晶