手紙に添えられた優しさ


「てんもんぎろん……ですか?」
「そうだ。そこの、一番端の本棚の下から三番目にある。取ってきてくれないか」

 十本刀が一人『百識』の方治は、自らの部下であるにそう声をかけた。
 普段方治の書斎に居座っている四乃森蒼紫は野暮用で居らず、今この書斎には方治との二人だけである。

「て、てんもんぎろんですね……承知いたしました」

 すぐそこの本棚にある本を取ってくる。難しくともない命令だが、はなにかとてつもない重要な任務を言い渡されたかのように居住まいを正した。
 死地に向かうような足取りで本棚に向かったは、いつまで経っても戻って来ない。
 を呼んでも、歯切れの悪い返事で待ってくれと言われるだけだ。仕方なしに方治は書を中断して立ち上がった。

「なにをしているのだ、お前は」
「わっ、わっ」

 本棚にいるに声をかけると、体を竦ませたが持っていた本の山をその場に落とした。

「もっ申し訳ありません!」

 慌ててしゃがみこんで本を拾い、はそのなかからいくつかを方治に差し出す。

「あの、てんもんぎろんという本はこの中にありますか」
「お前……なんだこれは。天文議論どころか、た行の本ですらないではないか。お前は――」

 続けてを叱咤しようとし、方治は言葉を止める。確認するようにを見ると、心底申し訳なさげな瞳と目があった。

「もしやお前……文字が読めないのか」
「……申し訳ありません」

 そういうことか。
 方治はへの怒りを収め、溜め息を吐いた。

「お前、どこの出だ」

 本棚から自力で本を探し出す。
 革張りの椅子に戻って読み込みながら、傍らのに尋ねた。

「北の方の……農村で育ちました」
「そのわりには方言もなければ言葉使いも悪くないな。まさか、お前が文字を読めないとは思わなかったぞ」
「華族の元で召使いとして働いておりましたので、言葉使いはその時覚えました。ですが文字は……」

 方治の座る西洋机に茶を置いたが、申し訳ありませんと呟いた。方治はかぶりを振る。

「知らないことは誰にでもある。私が今、お前が文字を読めないことを知らなかったようにな。明治になり誰もが学校に通える世になったが、食い扶持を稼ぐ為に学校に通う暇のない人間は大勢いる。そう気を落とすな」
「はい……。ですが、そのてんもんぎろんという本は覚えました。そのお探しの時は、今度はきちんと持って参りますっ」
「うぅむ」

 はそう言うが、実際のところこの本の読書頻度は高くない。
 面倒だが、本を読む時は今度から別の者に持って来させるか。そう思った方治の脳裏に、ある妙案が浮かんだ。

「お前に意欲があるのなら、私がお前に文字を教えようか」
「え?」

 目の前のが驚いた顔をして聞き返した。

「お前に勉強意欲があるのなら、私が鞭撻を取ろうではないか。どうだ?」
「え、ですが……」

 困惑の表情をしているが、同時に喜びも見える。
 俯いてなにやら考えこむは、方治の時間を使わせては申し訳ないと思っているのだろう。
 だがやがて、誘惑に負けたように顔をあげた。

「あの、本当によろしいのですか? 方治様はお忙しいのでは……」
「その息抜き程度になればと思ってな。もっとも、お前にその気がないのなら構わないぞ」
「い、いえっ。ぜひ、私に文字を教えてくださいっ!」

 が体を乗り出して、方治に懇願する。意図せずして大きな声になったらしく、慌てて口をつぐむ。その動作がなぜだかおかしく、またいじらしくて、方治はくすりと笑っていた。



 実際のところ、との時間は方治にとって素晴らしい息抜きになった。
 年齢的に勉学を求めていたこともあるだろうが、はすぐに簡単な読み書きを覚え、方治の言葉を海面綿のように吸収していった。

「お前は覚えるのが早いな。こちらとしても喜ばしい」
「そんな。方治さまの説明がとてもわかりやすいからです」

 灯りに照らされたが嬉しそうにはにかんだ。
 二人の座る机には勉強に使った紙が散乱している。そのうちの一枚を手にとり、が書いた字を見ながら方治は苦笑した。
 字はまだ下手だ。
 が気恥ずかしそうに身を竦める。

「いつか私も、ちゃんとした形式の手紙が書けるようになりますか?」
「その前に、まず自分の名前を間違えずに書けるようにならなくてはな」
「……精進します」
「そうだな。お前がきちんと読み書きを覚えたら、最後の問題として私が手紙を書こう。それを読めて、正しく返信が出来たらそれで完ぺきだ」
「本当ですか? 方治様からお手紙をいただけるなんて光栄です。頑張ります」
 は居住まいを正した。

「もっとも、これから忙しくなる。緋村剣心や斎藤一たちとの抗争が激化してくるところだ。今しばらくは、お前の勉強に付き合えないだろう」
「心得ております。私、志々雄様の勝利を確信しております。方治様の部下として志々雄様に仕えることが出来て幸せです」
「それでこそ、臣下というものだ」

 方治が満足そうに笑い、もにこりと笑った。
 そんな会話が、いまは遠い過去に思える。


   ***


「方治は獄中で自害した」

 警察病院のとある一室。手負いの方治の部下を見舞いに来た張は、挨拶もそこそこに本題を切り出した。
 張が告げても、は目を見開いただけだ。そんなの反応を見て、張は続ける。

「志々雄様は死亡、宗次郎は逃亡。鎌足のヤツは諜報部員に。ワイは……斎藤んトコでひとまず大人しくしとる」
「意外……ですね」
「意外?」
「鎌足様は、志々雄様が亡くなられたら後をお追いになるのではと……」

 の言葉は小さく消えていく。
 張は頭を掻いた。

「なにシケたツラしとんのや。ワイがここに来たのは、方治のヤツがワレを心配しとったからなんやで?」
「え?」

 顔をあげたに、張はある封筒を投げて寄越した。

「方治から預かったワレ宛の手紙や」
「影の任務……?」

 張は頷き、志々雄様を後世に伝える語り部の任務の説明を始める。
 はそれを黙って聞いていた。封筒から手紙を取り出し、字を力なくなぞる。

「あの方は……私がちゃんと文字を覚えたら、私に手紙を書いてくださると言っていました」
「そうか」
「私、あの方の字がすごく好きだったんですよ」
「そうか」
「この手紙が全部読めるようになるまでは私も死ねないですねェ」

 困ったように笑って、は張を見た。

「優しい人ですね、張さんは」
「ワイは方治に頼まれたから来ただけや」

 憮然とした張に、または笑った。





2012/1/17:久遠晶
アンケートお礼です。方治に投票してくださった方に届け~ 2016/11/03:冒頭だけほんのちょっと文章修正