永遠に届かない愛情と、永遠に見つからない本心



 空気が澄んだ夜だ。世界を押しつぶすように満月が天高く鎮座し、雲ひとつない。
 東京から馬車で二時間ほどの場所にある西洋風の豪邸の二階の自室、少女は窓越しに月を見上げていた。
 西洋布団から身を乗り出し窓を開けると、肌が張り詰めるような冷気が室内に流れ込んでくる。
 少女はぬいぐるみをきゅっと抱きしめて憂いのため息を吐いた。その息は白く、風にゆられて消えていく。
 身震いをし、肩をさすりながらも少女が開け放しの窓を閉める様子はない。月を見上げてから、少女は祈るように両こぶしに額を押し付けた。
 不意に遠くからかすかに馬車の音がすると、少女はぱっと顔をあげて期待と緊張の入り混じった表情を浮かべる。
 馬車の音がすこしずつ大きくなり家の真下にとまると、冷たさにこわばった頬が喜びでほころんだ。
 馬車から人が降りる気配がし、少女の笑みはより深いものとなる。

 ややあって、自室の扉をたたく音が二回響く。
 待ち望んでいた気配に少女はあわてて居住まいを正した。こほん、と咳払いをしてから、できる限りのきれいな声を出す。

「はい、どちらさまですか……?」
「私です。フフ、お久しぶりです、観柳です――」
「観柳さま!」

 歓喜の声をあげ、耐え切れないといった調子で西洋布団から飛び出すと、扉を開けて中に入ろうとする人影に勢いよく抱きついた。
 抱きつかれた白スーツの男――武田観柳は突然のことに身体の均衡を崩しそうになるが、すぐに持ち直す。

「おっと! 動いてはいけませんよ、病み上がりなのですから」
「もう平気です! ほら、わたし、こんなに元気に――つぅ」

 少女は自身への制止の言葉に元気よく答えて見せるが、言葉が終わる前にわき腹を押さえしゃがみこんでしまう。
 はずむような声が尻すぼみになって消えていくが、うめきだけは我慢した。

「ほら……言わんこっちゃない」
「う……平気、です」

 観柳は強がる少女を見て苦笑すると、仕方ないと言わんばかりにため息を吐いて少女を抱き上げた。

「か、観柳さま!?」
「ずいぶんとつめたいですね。窓を開けていたんですか? まったく、外にいた私よりも体温が低いなんて」

 至近距離からの観柳の声に少女が身を硬くした。姫抱きされ自然と密着する身体に少女がとっさに息を止めるが、観柳はどこ吹く風だ。
 観柳は姫抱きしたままベッドまで歩き、その上に少女を降ろしてやる。

「まだ退院してから一ヶ月も経っていないでしょう。無理は禁物ですよ」
「すみません、観柳さまが来てくれたと思ったら……」

 観柳が笑いながらいさめると、しゅんと肩を落とした。
 ベッドに座り込んだ観柳はいささかうんざりしたような表情を浮かべるが、うつむく少女は気づかない。

「来てくださってうれしいです。しばらく来てくださらなかったから」
「このところ仕事が立て込んでいましてね。私もに会いたかったですよ。……本当ですよ?」

 少女がぱっと顔を上げた瞬間に、観柳の表情は柔らかなものになっていた。
 見下したような底意地の悪い瞳はごまかしきれていないが、幼い少女は観柳の瞳の輝きが意味するものに気付かない。
 銀ぶちの眼鏡越しににっこりと微笑むその姿は誠実な実業家そのものであり、少女の兄のようにも感じられる。
 だがもちろんのこと兄ではないし、観柳自身にそのつもりもない。

「入院中、会いに行けなかったおわび……いえ、退院祝いと言ったほうがいいですかね」

 観柳は手にもっていた紙袋を少女に渡した。
 上質の紙で作られた紙袋はすべらかで、それだけで中のものの高級さを伺わせる手触りをしている。

「いま開けていいですか?」
「えぇ、もちろん」

 ゆっくりと袋を開けると、中には細やかな装飾の施された手鏡とかんざしが入っていた。
 感嘆の声を上げて少女が観柳を見上げる。
 観柳はにっこりと頬を持ち上げた。

「結わせてください」
「お、お願いします」

 観柳が髪に触れると、緊張した少女が静かに身を硬くした。

「あぁ、あなたの髪はいいですね。すべらかで美しい」

 語りかけながら少女の髪を結い上げ、観柳は満足げな笑みを浮かべた。
 少女が手鏡に映る自分の髪を色んな角度から見つめている。

「思ったとおり、このかんざしはあなたに似合う……」

 優れた調度品を愛でるように撫でられ頭に口付けを落とされると、少女は頬をばら色に染めた。

「似合って……ますか?」
「えぇ、とても。あなたの好みでは大丈夫ですか?」

 少女は首がとれそうな勢いでぶんぶんと首を振った。花がほころぶような笑みを浮かべて観柳を見上げる。

「こういうかんざしはすごく好きですっ。それに、なにより観柳様のくださったものならなんでもうれしいです」
「それなら安心しました」

 眉を下げ観柳は柔和な笑みを浮かべた。
 観柳を慕情を抱く少女は与えられるすべてに疑問を抱くことなく、観柳に花咲く笑みを見せる。

「いつもお仕事お忙しいなか、本当にありがとうございます」
「お礼を言うのはこちらですよ。いい息抜きになっていますから」

 抱き寄せられるがまま、少女は観柳の腕のなかにおさまった。
 少女が体温にとろけている間の観柳の邪悪な笑みを、少女が知ることがない。



 少女は観柳が懇意にしている大物政治家が溺愛する一人娘だった。
 いつかは一族の跡継ぎを産む女、血統を運ぶ為の箱。その箱を受け取り夫となる人間を取り込む為の先行投資でもある。
 すべては観柳の手がける事業の拡大の為であり、コネクションは多ければ多いほどいいということだ。

「――と、そういうことです。少々回りくどいですがね」
「なるほど」

 少女の館から観柳邸へと戻る馬車の中、観柳の説明に四乃森蒼紫は短い相槌を打った。
 観柳はキセルを吸いながら、蒼紫を見た。

「御庭番衆ともなれば当然そこも調べていると思いましたが」
「信用している相手には人は自分から話すものだ」
「それは確かに」

 くっく、と観柳は喉の奥で笑った。蒼紫の言葉が心からのものではないとわかっているからだ。
 少女に見せていた人好きのする笑みは既になく、金の為なら手段を選ばない腐った実業家は歪んだ内面を隠さない。

「まあ、お互い不要な詮索は避けるのは、仕事仲間として仲良くやれる秘訣でもありますからね」
「そうですね」

 蒼紫は短く返事をし、馬車の窓ごしに遠くなっていく館を振り返る。
 馬車の前まで観柳を見送った時の少女の瞳は、観柳を信頼しきっていた。心酔と言ってもいい。病弱で友人のいない少女は観柳の装った優しさを疑うことなく受け入れ、頼りきっているのだ。

「いっそのこと、私が娶ろうかとも考えているのですよ。このままあの一族との繋がりが強くなれば、彼女の夫となり一族の財産と権力を手中に収めることも夢ではありません」

 愉悦の笑みを浮かべて観柳は、少女への投資が最大限有効に働いた場合の展望を語る。とはいえ、少女の夫となる人間には財力はもちろん、それなりの血統が要求される。成り上がりの観柳が彼女を娶るのは難しい話ではある。
 だが少女があのまま観柳へ傾倒すれば、箱入り娘を溺愛する父がそれを考えることは想像に難くない。
 観柳の声色に少女への愛はなかったし、あったとしてもそれは金を持つ存在に対する執着でしかないのだが。

(憐れだな)

 蒼紫は心中で、何も知らぬ箱入り娘に同情した。少女はこのまま騙され続け、蒼紫の隣に座る腐った男の慰み者になるのだろうか。少女が真実を知ったとしても、それはそれで不幸な未来でしかない。
 観柳と癒着している父親も裏では名の知れた悪徳政治家であり、そのことに気づいていないのも少女だけだ。
 真実を知ろうとしていないのか、知る術を教わっていないのか――蒼紫にはわかるはずもなく、関係のないことだった。

「ま、こんな面倒なことをしなくても恵さんが新型阿片の製造法を吐いてくれれば、私は巨万の富を得られるのですがねェ」

 蒼紫の心中を知ってか知らずか、観柳がキセルから立ち上る紫煙が掻き消えていくのを見ながら一人ごちた。
 少女の利用価値は家柄と一族が持つ資産のみ。であれば、巨万の富を産み出せる阿片のほうが観柳にとっては重要だ。
 不意に観柳がなにかに気づいたように懐を探った。
 取り出した小さな木箱を観柳は蒼紫の手に放り投げる。

「あなたに差し上げます」

 蒼紫が木箱を開くと中から澄んだ音色が奏でられていく。
 ぜんまい仕掛けで短い旋律を奏でる、南蛮の装置だ。

「オルゴールです。彼女からいただいたのですが、私の趣味ではありません。不要であれば捨ててください」

 興味なさげに言うと、観柳は脳内の思案に耽る。
 その様子を見て蒼紫は静かにため息を吐き出し、木箱を懐へ閉まった。

(まったく憐れだ)

 少女の飛び切りの愛情は利用され、観柳に届くことはない。
 歪んだ観柳の本心に少女が気付くこともなく、両者は永遠に一方通行のままだ。

『観柳様、また来て下さいねっ』

 観柳を馬車まで見送る少女の、屈託のないふにゃりとした笑みが目に焼きついている。観柳を慕う瞳に十年前葵屋に残してきた少女を見出し、蒼紫はその像を振り切るように目を閉じた。
 憐憫の情を抱くものの、歪んだ関係をどうにかしようと思うほど蒼紫も善人ではない。

(今の自分を、操が見たらどう思うだろうか)

 溜息を吐いてそんな憧憬に似た感傷を押しながし、蒼紫はいつもの自分へと戻った。
 迷いがあるとすれば、観柳の元にいて強者と出会えるのか――その一点のみでしかなく、哀れな少女の安否など蒼紫にはどうでもいい問題でしかない。
 すでに少女のことなど頭の隅にもとどめていない観柳が、新型阿片の産み出す利益を思って唇を三日月型に歪ませていた。





2012/2/14:久遠晶
書きながらものすごく観柳が好きになりました。
次はヤンデレ観柳の夢でも書きたいです。えぇ、監禁系の。
2012/2/22:誤字修正と微改訂。展開は変わってないです。読みやすくなったかな?