この世界が変わらないものでありますよう

 立春の前日、つまり節分。
 季節の変わり目に現れる鬼を退治し邪気を追い払って一年の無病息災を祝う、大切な行事だ。
 各家庭の前には柊の枝に鰯の頭を刺した柊鰯が戸口にたてかけられ、窓からは賑わいがもれ聞こえる。

 その様子を街を歩きながら眺め、操が傍らの般若に笑いかけた。
 街に出ているため、般若は青年に扮している。周囲からは、操と般若は仲のいい兄妹かなにかに見えていることだろう。

「悪い趣味だけどね、あたし、こういう家庭の喧騒に耳をそば立てるの、結構好きなのよね~」
「そうですか、私はああいった喧騒はどうにも苦手です」
「そう? 楽しい家なんだなって思って、あたしは好き」
「そうですか」

 心中を表に出さず、般若は答えた。
 通り過ぎていった家から絶えない笑い声が聞こえている。
 人の幸せをねたむ趣味は般若にないが、あまり聞きたくない部類のものであることに違いなかった。

 般若は幼い頃、食い扶持を減らす為にと実の両親から殺されかけた。
 幸せそうな子供がいる家庭を見ると、死から逃れたあと獣同然に身を堕とした当時を思い出してしまうのだ。
 村を追放されたから蒼紫に出会えたと思えば、両親を恨んだり幸せな家をねたむことはない。だが当時の惨めな自分に苦々しい思いを抱いてしまうことは確かだ。
 それに、今の自分にとってもそれは縁のないものだ。

「今日の料理はなにかな~」
「黒尉が魚料理と言っていました」
「やたっ。今日は節分だからきっと葵屋、混んでるよね。あたしも手伝いに入らないとマズイかなぁ。大変そう~」
「がんばってください、操様」
「いっそ般若君が女装して手伝えばいいのよ。節分なんだから」
「……勘弁してください」

 操の言葉を想像してしまって、般若は息を詰まらせた。
 普段と違う装いをすることによって鬼の目をやり過ごす風習は至極一般的なものだ。老人が子供の髪型をすることや、反対に子供が大人の髪型をすることもある。
 とはいえ、積極的にやりたいことではない。あまつさえその姿で人前に出るなど般若に死ねといっているのか。

「蒼紫様は女装似合いそうだよねっ」
「蒼紫様が御頭になる前、将軍の酒の余興にと女形をさせられていたこともありましたね」
「えええ! 当時の写真とか残ってないのっ」
「残念ながら」
「そんなぁ……で、どうだった?」
「すばらしい舞を披露しておいででした」
「そうじゃなくてーっ」

 話しながら道を歩き、葵屋へと帰り着く。

「ただいまー」
「あ、操ちゃん! ちょうどよかった。人手が足りてないの、手伝いに入ってくれる?」
「うん、わかった!」
「般若さんも、裏方お願いします」
「了解」

 節分だからか葵屋にはたくさんの客が集まり、てんてこ舞いとなっていた。
 それをどうにか捌ききり、宿泊客が寝静まった頃合になってやっと開放された御庭番衆一同はぐったりとうなだれた。
 宿泊客は全員旅籠に戻ったので、料亭のほうの葵屋にいるのは御庭番衆のみだ。
 操が机に突っ伏し、大きな吐息を吐き出した。

「あー、疲れたー!」
「お疲れさん。接客も調理も大変だねぇ」
「俺らは手伝わなくていいから、いやあ楽なもんだったぜ」

 変装ができる般若や背の低いべし見はともかく、傷だらけの式尉や巨体のひょっとこはにじみ出るヤクザ臭から客の前に出すわけにも行かない。
 結果として荷物運びなど裏方の力仕事に回るのだが、それが終わるとなにも手伝うことがなくなってしまうのだ。

「背低すぎて変装もロクにできねぇチビもこういう時には役に立つよな。あっ背低すぎて気持ち悪いからお前も店員として客の前には出れねぇか」
「やるかデブ……上等だッ!その前歯しかない歯折ってやるぜっ!」
「二人とも静かにしてよ! お客さんが起きるかもしれないじゃないー!」
「うるせぇ操! これは俺たちの問題――」
「静かにしろべし見、ひょっとこ」
「了解しました御頭」
「……」

 蒼紫が言った瞬間、争いを止めるべし見とひょっとこを操が呆れた表情で見つめる。
 蒼紫は葵屋の手伝いをしていたわけではなく、先ほどまで寺で座禅をしており、ちょうど帰ってきたところだ。
 志々雄との激闘が終わった直後ほどではないが、蒼紫はよく寺で座禅をするようになった。

「豆がありますけど、皆さん食べます?」

 近江女が豆を入れた器を持ってやってきた。舞や琴の見世物をした直後なので、仮装をしたままだ。

「あたしはもちろん食べるー!」
「まあ今年ぐらいは食ってもいいか」
「ヌウ、放浪してた十年間、年中行事とは縁遠かったからな」
「式尉さんは?」
「出されたモンはいただくぜ」
「蒼紫様ももちろん食べますよね」
「……そうだな」

 みんなで豆をつまみながら、くだらない話に花を咲かす。

「豆喰ってると、どうにも酒が欲しくなるねェ。なあ般若」
「私は、酒のつまみならならゆでた枝豆のほうがいいな」
「こういうのってよ、ガキの頃はともかく、年食った今だと年齢の数まで食べんのだんだん辛くなってこねぇか」
「お前の年齢一桁だろ?」
「デブ、やんのか?」
「比古様がね、相変わらずつっけんどんでね……! そんなクールなところもかっこよくて素敵っ」
「お近は比古殿にぞっこんじゃのう」
「爺やー、それ古いのか時代先取りしてるのかわからないよ?」

 そんな様子を見ながら、蒼紫を無言で豆を食べていた。
 もともと口数の少ない蒼紫なので、会話に参加せずとも誰も気にしないし、それが普通なのである。
 一同も蒼紫の気質を理解しているので、蒼紫に無理に話題を振るようなことはしない。話したいと思えば、自然と口を開くことを知っているからだ。

「あ、豆撒くの、今年は爺やじゃなくて蒼紫様かな?」
「そうだのう、今年は蒼紫にやってもらおうか。どうじゃ、蒼紫?」
「……俺でいいのか?」
「豆を撒くのは一家の主がやるもんじゃ。将来の若旦那様なら不足はなかろうて」
「……」

 蒼紫が確認するように周囲を見渡した。表情そのものはいつもと変わらない無表情だが、瞳に蒼紫の感情が垣間見える。
 葵屋の一同――特に、京都御庭番衆の増髪、近江女、黒尉、白尉は蒼紫の心情に気づくとくすりと笑った。
「翁の言うとおりですよ。蒼紫様が豆を撒いてください」
「っていうか、若旦那にならなくたって蒼紫様は御頭なんだから、蒼紫様が撒くべきよ。あたしたち御庭番衆なんだから。ねえ?」

 近江女の言葉に操が周囲に向かって言った。同意を求める操に、一同はうなずく。
 蒼紫はかすかなため息を吐き出した。呆れでも退屈でも失望でもなく、もっと別の暖かな吐息。
 自分がここに居てもいいのだと、この場のすべてがやさしく語りかけてくるような雰囲気に、蒼紫は柔らかな目をした。

「わかった。なら――俺が撒こう」
「あ、そうだ蒼紫様。一応言っておくけど掛け声は鬼は外じゃないよ、鬼は内で福も内だからね」
「ん? 操様、京都にそんな風習がありましたか?」

 般若が操にたずねた。
 京都に鬼を迎え入れる風習はなかったはずだ。鬼を苗字に冠する家なら『鬼は内』と掛け声をすることもあるが、葵屋の人間に鬼がつく名前の者はいない。
 ひょっとこや式尉やべし見、蒼紫もよくわからないと言った表情をしている。

「だって、鬼は外って言ったら、般若くん出て行っちゃうじゃない」

 般若や蒼紫たちは、操の言葉を理解するのに若干の時間を要した。
 『般若』とは、嫉妬のこもった鬼女の面のことだ。つまり鬼を追い出すということは、般若面をつける彼を追い出すことになる――と操はそういうことを言いたいのだろう。

「せっかく全員そろったのに、またいなくなるなんてイヤだもの」

 操はすこしだけうつむいて唇を尖らせた。蒼紫たちのいない十年間、操はずっと寂しい思いをしてきた。
 やっと江戸城御庭番衆が帰ってきたのだから、誰一人欠けてほしくない。
 そんな気持ちでの、先ほどの言葉なのだ。

 ひょっとこが無言で操の頭を引っつかんだ。そのまま体重をかけるようにぐりぐりと撫で回す。

「ちょ、ちょ、ひょっとこ、なにっ!? 髪型乱れるんだからやめてよっ。三つ編みって結構面倒なのにっっ」
「うるせぇ」
「えー!? って、ちょっとべし見まで!? いい大人が腕伸ばして女の子の頭ぐりぐりするとかみっともな……きゃー!」
「うるせえ、お前はただ黙ってればいいんだよ!!」

 操の髪型が崩れるのも構わずひょっとこが頭を撫で回し、さらにべし見が操の頬を引っ張り始めた。
 その様子を見ながら、式尉がうつむく般若の肩に腕を置いた。

「涙腺に来たかい。年をとると涙腺がもろくなっていけないねェ」
「うるさい」
「ごふっ。その様子だと、お前さんマジで……」
「うるさい」 
「おっと。なんだ、やるかい?」
「これこれ、般若と式尉までなにをやっとるんじゃ。おとなしくせんか。べし見とひょっとこもじゃぞ。これから蒼紫が豆を投げるところだと言うに」
「それもそうね。髪型ぐちゃぐちゃにしたこと、蒼紫様に免じて許してあげるわ。べし見にひょっとこ」
「そりゃどーも」
「あっかわいくないっ」
「おいっなんで俺だけなんだよっ」
「またか、お主らはまったくっ」

 操がべし見に飛び掛り、べし見がうぎゃあと抗議の声を上げる。
 近江女や増髪がくすくすと笑い、黒尉が頭を抱えて白尉が困ったように笑った。
 式尉とひょっとこが操とべし見の戦いに野次を飛ばす。
 翁が操をいさめようと近寄り逆に肘鉄を食らい、怒って乱闘に加わり始める。
 その様子を見つめる蒼紫の、今までになく優しい色をした瞳に、般若は目を開いた。蒼紫と出会ったあの少年の日から今までの間で、はじめて見る柔らかな表情。
 蒼紫は般若の視線に気づくと、かすかに首をかしげた。そのしぐさもやわらかい。


「もー! 静かにしてください。翁も乱闘に参加しないでください」
「すまん……つい。てへ」

 際限のなくなりそうな乱闘を近江女と増髪がとめる。
 部屋が静かになったところで、自然と蒼紫に視線が集まった。
 蒼紫は咳払いをすると、かすかに頷く。
 

「――鬼は内、福も内」

 低い蒼紫の声とは対照的な、炒り豆が床にこぼれる乾いた高い音が葵屋にかすかに響く。
 その後、豆の音を掻き消すように拍手と笑い声があがった。
 幸せそうな灯りのもれる家庭。自分には縁のないものだとほのかな憧れを封じていた般若は、今自分がその輪の中にいることに気づいて――だから白面の下、変貌した顔を歪ませて笑った。

 御庭番衆を締めくくる彼らの先が、これからも明るく幸せに満ち満ちていますように。





2012/2/3:久遠晶
拍手コメントに触発されての『雨間から差し込む光』の続きです。コメントありがとうございましたv