傷跡と矜持
風が髪の毛を撫でる感触で、私の意識はゆったりと浮上していった。
「ん……」
うめきながら無意識のうちに辺りに手を伸ばす。
当たり前のようにそばにいたぬくもりを探し、それがないと知って初めて私は目を開けた。
布団にいるのは私だけ。
開け放された障子。縁側に座り、私に紫煙をくゆらす式尉がいた。
月の登り具合から見て、時刻は真夜中。月明かりが照らす式尉のむき出しの背中に走る傷跡に眉をしかめた。
「まだ……消えないのね」
「起こしたか」
手を伸ばして、背中の傷に触れる。
傷のない箇所はない式尉の体で、そこの傷はひときわ深い。傷が癒着し、盛り上がり、色や感触も普通とは違う。
「勲章みたいなもんさ、これは」
「背中の傷は逃げた証と聞くわ」
もしくは、忍び寄る敵に気づかず攻撃された証。
振り返った式尉が傷跡に触れる私の手首をとり、 畳に組み伏せる。
私は式尉にされるがまま、近づいてくる式尉を見ていた。
「お前を守った傷だ」
目を閉じる。
ああ、やはり唇の感触もすこし違う。まぶたと唇を横切る傷跡は蒼紫さまにされたものだから、少なくともこの傷はある種式尉の誇りになっているのは嘘じゃないんだろう。
懐かしいな。江戸城に侵入した敵方の隠密を仲間に引き入れると蒼紫さまがおっしゃった時は、我が耳を疑ったものだ。
蒼紫さまは、仲間に引き入れた式尉を監視することをしなかった。
元敵方の、裏切るかもしれない信用ならない相手。簡単に仲間を裏切る人間は、いつか御庭番衆も裏切る。そもそも諜報部員である可能性だって極めて高いというのに、血迷ったとしか感じられない蒼紫さまのご判断。
……一番血迷っていたのは、それを承認した当時の御頭、先代さまかもしれないと言ったら不敬罪になるだろうか。
式尉はくっくと笑う。
「あんときのお前は本当にギスギスしてたよな。笑顔のひとつも浮かべやしねェし」
「信頼できない、仕事でもない相手に見せる笑みなんてもっていないわ」
「言うねェ。……それが今じゃ、こんなにも女になっちまって」
ざらざらの指に骨盤のくぼみをなでられて、息が止まる。
「疑ったことを悪びれはしないけど、感謝はしてるの。本当よ?」
いつか裏切るであろう元敵方。それを疎い、警戒し、事が起きる前に始末しようとするのは当然のことだ。
だけど、私は式尉ばかり警戒していたせいで、本当の裏切り者に気づかなかった。
式尉の背中の傷は、その時のものだ。
「……ゴメンね」
「感謝してるなら、謝るんじゃなくて礼にしてくれねェか?」
「ゴメン。……ありがとう」
「それでいい」
よくできましたと言わんばかりに大きな手で頭を撫でられ、そのまま引き寄せられる。
「あったかい」
「あぁ……布団、戻るか」
「大丈夫。だから……あなたは、行っていいよ」
驚いた表情の式尉に笑ってみせる。
崩れた笑顔は目に焼き付けてほしくない。できる限りの綺麗な笑み。
揺れた式尉の瞳が愛おしい。
別れの場面で男にすがりつく女にはなりたくない。守り通したい自尊心というものがある。
自分の傷を誇りと言う式尉。私はそんな式尉のそばにすこしでもいられたということが私の誇りのひとつでもある。
一番大切だった御庭番衆の一員であるという誇りはなくなってしまった。
だから、残ったこの誇りだけは、守り通したい。
もう会うことはないから、この時ぐらいはイイ女でいたいのだ。
2011/9/9:久遠晶
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