砂漠
山に霧が降りる早朝。通学のために上粗戸地区を駆け抜けながら、駐在警官である石田に声をかけるのは少女の日課であった。
「ちゃん、転ばないようにね~」
「だーってバス行っちゃうんだもーん!」
羽生蛇村を取り囲む山々に反響する元気な声に苦笑しながら「今日も平和だ」となごむのは、石田の日課だ。
石田が駐在警官となってから、ほぼ毎日繰り広げるやり取りだった。少女が高校を卒業するまで繰り返されるのだろうと、石田は漠然と考えていた。
しかし穏やかな日常は、村が異界に飲み込まれて消失したことによって不意に消失する。
石田は村の最初の死亡者だ。
彼は屍人化した村人を恐怖することもなかったし、変貌した村に絶望することもなかった。ある意味で、もっとも幸せなまま死に至れた人間だろう。
屍人として二度目の生を得たあと、好物の羽生蛇蕎麦を食べ散らかす石田の姿はなかなかどうして愛嬌がある――と感じるのは同胞のみであったのだが。
少女の方はといえば、事態を把握できないまま物陰に隠れて震えていた。
真夜中に散歩に出ていた彼女は、ほかの住民と違い寝込みを襲われることは免れた。しかし却って発狂しそうなほどの恐怖にさらされることとなった。
屍人の目を掻い潜って自宅に帰ると、両親は居間で一家団欒の食事中だった。
窓から覗きこんだ部屋の中で、屍人と化した家族がおぞましい奇怪な笑い声をあげている。
それでぷっつりと糸が切れてしまった少女は、ふらふらと歩いて父親が経営している酒屋の入り口へと回った。シャッターを開け、戸のガラスを割っても屍人が来ることはなかった。
目についた一升瓶をひっつかみ、道中で拾った栓抜きで手際よく栓を開ける。
少女は瓶の口を見つめて数秒間、ためらった。
死にたくない。だが化け物にはなりたくない。正気なままでも居たくない。
そんな少女が選んだことは、酒による逃避だ。
ふらふらと腰を下ろして、一気にあおった。
ひりつくような痛みが喉を襲う。その痛みで現実をごまかそうとするように、少女は度数の強い酒をごくごくと胃に流し込んだ。瞬く間に一升瓶を空け、他の酒へと手を伸ばす。飲み下せなかった酒が顎から胸までをびしょびしょに濡らすことも構わず、まさに浴びるように飲む。
通常ならば急性アルコール中毒になってもおかしくない量だ。それでも酔いが遅いのは、体内に入り込んだ赤い水の力だろうか。
泣きながら酒を飲んで、飲んで、飲んで――。
ゆらり、とぼやけた視界になにかが移った。
「いしだぁ……さぁん?」
背中にトンボのような羽を生やし、顎も変形していた。それでも少女は石田とわかった。
異形と化した石田を目にしても恐怖しなかったのは泥酔していたからで、それ以上の理由はない。
酒の海に突っ伏していた少女はけたけたと笑った。
「いしださんだぁ~」
石田は少女にゆっくりと近づいた。昆虫のような大顎がひくひくとうごめき、膝を折って少女のとなりに座り込む。
生者を仲間に引き入れようとする屍人が、少女を見ても殺そうとしないのは単に武器がないからだった。
石田は少女の体を優しく抱き起こす。それは酒を覚えていた石田の体が、泥酔する少女から酒の臭いをかぎとったにすぎない。泥酔し、現と幻の境にいる少女は実に心地よさに身を任せ、愛されていると感じて石田の首に手を回した。
そして、もっとも幸せな屍人の一人となった。
2016/11/18:久遠晶