呪いか祈りか
「無償の愛は美しいと言いますけど、間違いだと思うんです」 と、彼女は言う。
「『あなたが生きていれば他になにも要らない』なんて、生きてることが見返りじゃないですか」
無償の愛なんて存在しない。
薄汚い欲望をきれいな言葉でくるんでいる分、汚れているものです。
彼女はよくそんなことを私に喋った。
村の信仰を否定し、人々に嫌われてもそれを貫く女性だ。
通常なら思っても言わない言葉をはっきりと口に出し、拒絶する。
それでも、彼女が否定するものの塊である私を――否定しない。
「信仰と、牧野さんとの友情は別ですから」と、彼女は言う。
「私とあなたは友達ですか?」
「違いますね」
私はその言葉に息をつまらせた。明確な拒絶だったし、話の流れからして否定されるとは思っていなかった。
彼女は目をつむってしんねりと首を振る。
「求道師ではない、あなた自身を見せてくれないと友達にはなれませんもの」
「私個人の?」
穏やかな目が私を射ぬく。
私個人の人格。求道師としてではない私……。
「また来てください。今度はその黒い服を脱いで、手ぶらでね」
別れ際に彼女は笑った。手に持ったマナ教の経典が、急に重たくなった気がした。
布教活動を軽く受け流されてからと言うもの、私は暇さえあれば彼女の家を訪れるようになった。
なるべく手土産を持参していたが、ある日「わざわざ話題を探してこなくていいですよ」と言われてからは手ぶらで出向いた。
彼女と居るのは心地いい。牧野慶という名を――役目を忘れられる。
彼女の家で、何を話すではなくボーッとするのが好きだった。うとうとしていると膝枕しましょうかと笑われ、それにいたくプライドが傷ついてムッとしたことに私自身が驚いた。
私が苦しんでいる時、八尾さんに膝枕をしてもらうことが多い。八尾さんに手を差しのべられたらありがたいほどだというのに。
『彼女』だったから不愉快だったのか、八尾さんではなかったから不愉快になったのか。
考えてみても、村人にそんな申し出を受けたことがないからわからない。
牧野の家は尊敬の対象だ。私にそんなことを言い出す村人などいない。
「牧野さんたら、案外かわいいのね」
彼女はころころと笑う。ムッとする私はよほど小難しい顔をしていたらしい。
きっと…私は彼女に惚れていのかもしれなかった。
そよ風が吹いて傍らの彼女の髪を揺らしたとき、仄かに漂った匂いに私は劣情を抱いたのだ。
花のような甘い香りに邪な感情が沸き立ち、髪を撫でて整える仕草は容易く私の心を乱した。
「どうしました?」
紅を差したような鮮やかな唇を、よく覚えている。
「無償の愛なんて存在しないんですよ」
と彼女は言う。肩に触れた手を背中に滑らせ、抱き締めたい。
そう思う私を咎めているように感じた。
「私も、そう思います」
肯定すると彼女は目を見開いた。
素直な気持ちだった。私がいくら彼女に懸想したところで肉欲が伴えば、それが目的になってしまうはずだ。
「無償の愛なんて存在しないんです」
だから私は私の好きなように生きるわと、彼女は常々言っていた。
それなのに、どうだ。
銃をもった化け物から私を庇って、彼女は笑っている。
瞳を潤ませて、それでも聖母のように微笑む。
貴方だけは生き延びて――なんて、祈りのような呪いを囁きながら倒れる彼女は、清らかなのに薄汚なかった。
2016/11/18:久遠晶