独占する景色

 想い人が自分の部屋にいる景色と言うのは、幸せなものだ。
 いつ来てもいいようにと整理整頓していた部屋を気に入ってもらえ、そのまま泊まってもらえるなんてこの上ない。

 おしむらくはこの関係が恋人という甘い関係ではないことだろうか。いや、些末な問題だ。
 この人のために俺はいる。そう心から信じられる人が、相手なのだから。

「美浜さん、おタバコ吸われるんですね」
「まぁね」

 風呂を出た俺は、ベランダの手すりに肘をつく美浜さんの背中に声をかけた。
 俺を振り返ることもせず煙をくゆらせる美浜さんは白いバスローブを羽織っている。柔らかい繊維が優しく肌を包む高級品は、美浜さんのために用意しているものだ。
 着てもらえることが素直に嬉しい。
 窓辺に歩み寄ると、うっすらとタバコの臭いが香ってくる。タバコの臭いは好きではないが、発生源が美浜さんだと思うととたんに愛しくなるから不思議だ。
 ベランダに出て、隣を立つ。

 闇のなかでまたたくイルミネーションの美しさは、正直俺にはピンと来ない。綺麗だとは思うがそれだけだ。でも美浜さんが好きだということは知っていた。

 俺が身の丈に合わない高層マンションを借りているのは、そんな理由だった。
 夜景よりも美浜さんを見ていたい──甘ったるい口説き文句ではなく、心から思う。

「タバコ、もしかして苦手だった? 悪いわね」
「大丈夫です。昔吸ってたこともありますし」
「そう? いまはやめたの」
「恋人と産まれてくる子供に悪影響だなと」

「ふっ」

 美浜は目を細め、携帯灰皿にタバコの灰を落とした。バカにされた気がする。

「いい心がけね」
「美浜さんも赤ちゃん産むときのために禁煙した方がいいですよー」
「いいのよ、私子供産まないから」

 夜景に見つめ、美浜さんはきっぱりと断言する。闇に浮かぶイルミネーションを睨み付ける目は毅然としていた。

「アイドルはトイレに行かなきゃ結婚もしませんもんね」
「そう。結婚して子供産んだ瞬間にね、私たちはアイドルじゃなくなるの。『母親』に……おばさんになっちゃうのよ」
「わかります」
「わかんないわよ、あんたになんか」

 美浜は眉をしかめてくちびるを歪めた。受け答えを間違えたらしい。

 美浜さんはいまいち沸点がわからないから、少し困る。
 でも不機嫌になってくちびるを突き出す美浜さんはいつも通りに間違いなくかわいい。
 美浜さんは短くなったタバコの火を消すと携帯灰皿のなかにねじ込んだ。
 俺の隣をすり抜け、美浜さんは部屋のなかに入っていく。

「来なさい」

 まるで我が物顔だ。
 この部屋の持ち主は俺なんだけどな。しかし、その持ち主は美浜さんのようなものだ。
 薄暗いベランダから部屋に入ると、美浜さんが化粧をしていたことがわかった。赤いルージュを塗ったくちびるがささやくように動いた。

「脱がして」

 促されるままバスローブの腰紐をほどく。襟に指をかけると、バスローブはするりと美浜さんの肩を滑っていく。バスローブは音もなく絨毯の上に落ちた。
 引き締まった裸体が、灯りの下に晒される。
 肩も腕も細いというのに、胸はたわわに実ってきれいなお椀型をしている。体格に似合わない大きな胸だ。だというのにその下はあばらが浮き出るほど細く、腰はきゅっとくびれていて、さらにその下は──。
 ゴクリと唾を飲み込んだ。目をつむって顔をそらした。

「見てもいいのよ」
「美浜さん……」
「見なさい」

 命じられ、俺は薄目を開けた。
 つやめくような身体は磨きあげられ、非の打ち所がない。神々しささえある。触れば肌に吸い付くであろうことが、見るだけでわかる。
 
「胸に触って」

 その言葉は甘い毒だ。促されるまま右胸を手のひらでそっと覆った。とろけるような柔らかさが、触れた瞬間にすっと沈みこむ。

「美浜さん、俺……」
「私の身体、綺麗だと思う?」
「綺麗です」

 美浜さんが言い終える前に断言する。常日頃からの本心だが、鼻息が荒くては説得力もなにもないだろう。眼が血走っているかもしれない。現に下半身に血液が集中して、心臓の音がうるさい。
 愛しい人のはだかを見せつけられて冷静でいられる男がいるはずがない。ごくごく自然な反応だ。俺がことさら、がっついているわけじゃない。そのはず……だ。

「落ちぶれた元アイドルって、あんたもどうせバカにしてるんでしょ」
「美浜さん、あなたは綺麗ですよ」

 美浜さんはことさらに、俺のことをそう言う。どうせあんたも私をバカにしてるんでしょう、と、自虐的な罵倒を繰り返すのだ。
 もう慣れたやり取りではあるが、やはりいい気はしないものだ。好きな人を本人に否定されて嬉しい人間なんていないはずだ。



「あなたは綺麗ですよ」



 美浜さんはふっと口許を緩めて小首をかしげた。頭ひとつ分ほど小さい美浜さんは、まばゆい裸体を晒したまま俺を見上げる。
 一歩踏み出して、背伸びをして俺のくちびるに触れる。ボディソープの匂いと混じりあったタバコの臭いは、どうして甘美に感じられた。
 そっと離れるくちびるを追って、美浜さんの小さな顎を掴んだ。頬の肉は柔らかく、絹のようにすべらかだった。
 夜風に当たっていたからか、美浜さんのくちびるはすこし冷たかった。触れあわせていくうち、徐々に熱を持つ。
 肩をそっと押して、傍らのベッドにそっと押した。

 俺のベッドに美浜さんが倒れ込んで、枕元に長い髪の毛が散らばる。
 俺のベッドの上に、全裸の美浜さんが居る。その事実はひどく欲望をあおった。
 本来なら、俺が近づけるはずがない雲の上の人だ。
 落ちぶれてきたなどと、誰が……誰が言うのだろう。グラビアアイドルの時代から変わらず、美浜さんは天使のようだというのに。

「美浜さんは綺麗ですよ」

 ベッドの上に乗り上げると、膝がベッドに音もなく沈んだ。

「綺麗だ」

 心から思う。
 風呂上がりだと言うのに化粧をする、そのいじらしさ。できれば素顔を見せてほしいと思う。けれど自分のために飾ってくれるのだと思うと嬉しくもある。

「電気消して」
「いやです」

 条件反射のように拒否した。普段あまり口答えしない俺の反抗に、美浜さんは目をぱちぱち瞬かせた。素になったときのあどけない表情が、俺は好きだ。

「私を見て、って美浜さん言いました。だから、今日は電気消しません」
「あんたね」

 美浜さんは不機嫌そうに眉を寄せてそっぽを向いてしまう。顔を隠すように持ち上げられた手を掴んでベッドに縫い止める。

「綺麗なんだから見せてくださいよ」
「うるさいわね」

 美浜さんはアイドルで、『みんなのもの』だ。少なくとも美浜さんはそう在ろうとしている。だから、決して俺のものではない。でもこの瞬間だけは、俺が美浜さんを独占している。

「好きですよ」
「いちいち言わなくていい」

 ふんと鼻を鳴らすしぐさは美浜さんの照れたときのサインだ。あまり誉めると本当に不機嫌になってしまうから、まったく美浜さんは扱いづらい。
 なだめるようにキスをした。





2016/08/05:久遠晶