幻の君



 廃墟と化した夜見島へ、お供に愛犬一匹連れての一人旅。
 三上さんがそんなことを言い出したとき、私は驚いたものだ。

「わかってるとは思いますけど、危ないですよ

「そんなこと理解している――と私が返すことを君はわかっているだろう」
「まぁ、そうなんですけど。三上さんの担当編集として、一応止めとかないとなぁと」

 差し出された紅茶を飲む。三上さんの淹れるお茶はおいしい。
 三上さんの座るソファの隣で、ツカサちゃんがくつろいで足で首を掻いている。外出中は三上さんのサポートで気を張っているから、自宅にいる時しかツカサちゃんのだらけた姿を見ることはない。なかなかレアだ。かわいい。

 三上さんは紅茶のカップを鼻先に寄せて、その匂いを楽しんでいる。その様子を見てはじめて、私は紅茶の匂いを意識して嗅ぐ。
 甘い匂い――ピーチかなにかだろうか。

「ああ、よくわかったな。桃の皮を足したんだ」
「いい匂いですね」

 でも、三上さんのしぐさがなければ、じっくりと匂いを嗅いでみることもなかっただろう。それは、とてももったいないことだ。
 目が見えないからか、三上さんはその他の感覚が敏感だ。些細な音や匂いにも気がつき、味わうようにそれに触れる。三上さんの様子を見てはじめて、私はそれに気づかずに素通りしていたことに気づくのだ。
 庭先に咲く花の匂いに気がつかないことは不幸だ。三上さんに会って、私はそれを実感している。同時に恥ずかしくなる思いだ。

 私にとって三上さんは、高校生の時に近所に越してきた目の見えないお兄さんだった。時たま、一人暮らしの三上さんを気にした母の代わりに様子を見に行ったり、おかずのおすそわけをしたり――冷たい集合生活のなかでは、交流はそれなりにあった方だと思う。

 大学を卒業して就職した出版社で会った時には驚いた。
 奇才三上脩。気難しいと聞き及んでいたその人がお隣さんの『三上さん』とは、盲目という共通点があってもまったく気づかなかったのだ。
 昔からの知り合い――というほど仲良くはなかったけど――という縁があって若輩者の私が三上さんの編集となり、それが続いている。

「夜見島、って……『現代のバミューダ海域』ですよね。確か三上さんの故郷でしたっけ」
「ああ…島人消失事件のとき、私は四歳だった」
「それで、記憶喪失になってしまわれたんですよね」
「ああ。それでも、心のなかに幻のような記憶があるんだ」
「『人魚の涙』のモチーフですか」

 三上さんは静かに頷く。
 人魚の涙――三上さんの最新作。海辺で出会った幻のような少女と主人公のお話は涙が出るほど悲しくって切なかった。本人が言うには、記憶喪失なはずの三上さんの胸に『少女の面影』が強く残っていて、その面影が三上さんに筆を執らせた……らしい。

「『人魚の涙』を執筆して、彼女の面影をたどりたいと強く思ったんだ」
「それで夜見島ですか……」
「ああ。面影が見つからずとも、自分のルーツ――思い出を探すことは無駄ではないと思ってね」
「でもやっぱり危険です。せめて私が同行することはできませんか? ツカサちゃんがついてるにせよ、夜見島は廃墟ですよ、廃墟」
「長く滞在する気はないし大丈夫さ。取材旅行といえど、男と二人旅はきみのご両親が心配するだろう」
「確かに。お母さん心配性だからなぁ……」

 でも三上フリークの母ならイケイケドンドンになりそうだ。それはそれで困る。私と三上さんはそんな関係ではないのだ。

「それに人の気配がすると気が散るしな」
「絶対そっちが本音ですよね」
「まぁな」
「もー」

 私は不機嫌になったふりをして紅茶にくちをつけた。
 三上さんをかっこいいとは思うし、作家としての三上さんの魅力は担当である私がよく知ってる。担当であることを抜きにして、私は三上さんのファンなのだ。
 では作家ではない「三上脩」の魅力はどうかと言われると――。なんとも言えない、というのが本音だ。

 どこか浮世離れした雰囲気を持つ三上さん。常にサングラスをかけていることもあいまって、どこか違う世界を見ているのではないか――という隔絶した感覚がぬぐえない。それは知り合って六年ほどが経ち、それなりに親しくなれたと思う現在でも、続いている。
 三上さんの書く作品にも、三上さんのそういった人間性は現れている。三上さんの作品はいつだって孤独に溢れていて、優しいのに物悲しい。
 仲良くなれたと思ってもすぐ遠くなる。上っ面を撫でるような冗談は物悲しい。
三上さんのことは好きだけど、恋愛対象にするにはむなしい相手、というのが私の見解だ。

「……君の気配が嫌いなわけではないんだが」

 不意に三上さんが言った。唇は居心地悪そうにぐねぐねとまわり、しかしサングラス越しの見えない瞳は真っ直ぐに私のいる目の前を見つめているのが、なんだかアンバランスだ。

「今回は、真剣に……『彼女』のことだけ、集中していたいんだ」

 それが三上さんなりのフォローなのだと、ややあって気づく。

「別に、なんとも思っていませんよ。お気遣いなく。……ま、三上さんのご意向はわかりました。ただ携帯電話は忘れずに携帯してくださいね!?」
「もちろんだ。ありがとう」
「いいえ。心配ですけど、三上さんのことはツカサちゃんに託します」

 ねー、とソファに転がすツカサちゃんに相槌を求める。ツカサちゃんは「くぅん」と鳴いて答えてくれる。やっぱりかわいい!

「私になにかできることは? 夜見島の資料でもまとめましょうか?」
「そうしてくれると助かる。夜見島についてまとめた点字本が少なくてな……」
「……つまり私に点字本作れと。もぉ、しょうがないなぁ。わかりましたよ、夜なべします」
「すまんな」

 謝りつつも止めはしないのだから、まったく人使いが荒い。

「徹夜させるからには、いい話のネタたくさん掴んできてくださいね!」
「……ありがとう。きみのそう言うところが好きだ」
「はへ」

 三上さんはそう言うと、静かに手を伸ばした。うろうろとなにかを探して宙を掻く手に触れて、私の存在を知らせる。
 三上さんの手はぺたぺたと私の腕を辿り、頭にたどり着いた。わしわしと頭を撫でられる。
 ちょちょちょ。いきなりどうしたんだろう。
 高校生の時、ごくまれに頭を撫でられることは会った気がするけど。大人になった今これをされるのはひどく恥ずかしい。

「君は過剰な心配をしないからな」
「えぇ? どうでしょう……心配はしてますよ、それなりに」

 言っても聞かないことは知ってるから、それならできる限りのサポートをするしかない、というだけだ。
 そもそも三上さんが決めたことなのだから、なにか怪我をしても三上さんの責任なわけだし。私はその時『言わんこっちゃない』と言いながら手をさしのべる役割――と自分で勝手に決めているだけだ。

「その距離感が君のよさだ」
「暗に冷たいって言ってます? それ」
「褒めてる」

 三上さんはクスクス笑った。頭を撫でていた手は離れ、今はツカサちゃんのお腹をくすぐっている。ツカサちゃんは夢心地だ。羨ましい! 私もツカサちゃん撫でたい。

「おかげで心置きなく夜見島に行けるよ」

 三上さんは嬉しそうに笑った。
 その表情は子供のようで、どこか過去を憧憬するようか老いた雰囲気もある。
『幻の少女』の痕跡をたどれることが、そんなに嬉しいのだろうか。まるで……まるで恋する少年だ。

 私は不意にひどく不安になった。三上さんはいつだって、急に掻き消えてしまいそうな危うい儚さを雰囲気に孕んでいる。
 急き立てられるような焦燥は、友達にノロケをマシンガントークされたような、食傷したような気分にとって変わった。
 なんかすっごく寂しい。
 隣の家の友達としての感覚を押し込んで、私は三上さんの無事と収穫を願った。


 三上さんが幻のように消えてしまってから、半年が経つ。私はどうしてあのときの感覚に素直になっていなかったんだろうかと――あの手を掴めばよかったと、そればかり後悔している。





2014/9/26:久遠晶