現の人

 突如鳴り響くチャイムの音に、私の意識は強制的に浮上させられた。
 でなければと思う気持ちと煩わしい気持ちが半分半分。ごそごそとうごめきながら時計を見れば時刻は朝の十時だ。

 ……休みの日に起きる時間じゃない! 私は瞬時に出る気を失くし、布団の中にもぐりこむ。
 その間にもチャイムは鳴りやまない.。押す指がつき指しかねないほどの力強い連打は怨念すら感じられる。

「うがーッ!! 寝れないじゃないのよ!!」

 叫んで飛び起きる。宅急便だかなんだか知らないが、一言文句を言ってやらないと気が済まない。
 玄関のチェーンと鍵を外して勢いよく開ける。

「あの、近所迷惑なんですけど!? ――み、三上さん!?」
「すまない、起こしたか」
「いや、なんでここが、っていうか、どうしたんですかその服! 泥だらけじゃないですか!」
「質問はひとつずつにしてくれないか」

 玄関に居たのは、私が担当する作家である三上さんだった。傍らには愛犬のツカサちゃんがお行儀よく座っている。
 乾いた泥が三上さんの灰色のジャケットのあちこちについているのを見て、大きな声を上げてしまう。
 どうして三上さんがこんなところにいるのか――疑問に思ってから、自分の格好にはっと気づく。
 パジャマだし、髪はぼさぼさだし、人さまに見せられる姿じゃないのだ。

「っと、とにかく、玄関でちょっと待ってください! 寝起きなんです、服着替えさせてください――うわぁっ」

 三上さんとツカサちゃんと玄関に上げ、私は着替える為に部屋に戻ろうとした。振り返った瞬間、後ろから二つのちっちゃな手に背中を押される。
 荒い息のツカサちゃんが私を押し倒して、頬をぺろぺろと舐める。

「わっわ! どうしたのツカサちゃん!」

 まるで数年ぶりの再会、と言った具合にツカサちゃんはしっぽを振り乱して喜んでいる。
 ツカサちゃんは躾のよくできたおとなしい犬だから、普段こんなふうに感情を全面に出してわふわふとじゃれることはまったくない。突然のことに私は慌ててしまう。
 このままじゃ顔がよだれまみれになっちゃう。でも、嬉しい! まんざらじゃないけど、でもちょっと困る。

「……そうか、キミはこんな顔だったのか」
「へ?」
「ツカサ、やめなさい」
「くうん」

 しばし黙っていた三上さんが静かに言って頭をなでると、ツカサちゃんは名残惜しげに私から離れた。しょんぼりと垂れた耳がかわいい。すっごくかわいい。

「すまないな、久しぶりだから舞い上がってるみたいだ」
「久しぶりって、この前会ったばかりじゃないですか? うふっ……そんなにわたしが好きだったの? ツカサちゃんたらかわいいこ!」
「わふん」

 頭をわしわしすると嬉しそうな声。ほんとかわいい! 思わずにこーっと自然と笑みがもれでてしまう。
 身支度のことを忘れていたことに気付いて、慌てて洗面所に引っ込む。顔を洗ってツカサちゃんのよだれを落とした。
 髪を解いても寝癖が戻らない。格闘するには時間が足りない。三上さんを待たせてしまう。
 しかたなく、私はヘアゴムで寝癖をごまかして、部屋着に着替えて玄関に戻る。

「お待たせしました。あ、ツカサちゃんの足拭かせてもらってもいいですか?」
「ツカサを上げてもいいのか?」
「そりゃ三上さんの大事なパートナーですもの。ツカサちゃん、足貸して~」

 ツカサちゃんは室内犬だ。家に上がる時に足の裏を拭かれるのはいつものことなのか、おとなしく足を拭かれてくれる。後ろ足も拭かせてもらって、私は三上さんとツカサちゃんを居間に招いた。
 ……本当は三上さんの乾いた泥をなんとかするべきかもしれない。シャワーを浴びるか、と提案すると丁寧に断られる。そりゃそうだよね。

「突然押しかけてすまないな」
「構いませんよ。散らかってますし、狭いんでちょっと恥ずかしいですけど。あ、そこ段差っ」
「ああ」

 廊下から居間に入るところが段差になっていることを慌てて付け加える。三上さんは知っていたようにひょいと足を持ちあげ、躓くこともなく居間へと入った。 
 ――まるで、見えていたみたいに。
 そんなわけないよね……?
 私は首をかしげ、怪我がなかったことにほっとした。
 居間の座布団の上に三沢さんとツカサちゃんを座らせ、お湯を沸かす。
 自分の家に、男の人がいる。その事実に緊張する。
 いままで男っ気がなかったから、男の人をあげるのは初めての体験だ。

「それにしても、よく私のアパートわかりましたね」
「ああ、最初はきみの実家に足を運んだんだがな。独り立ちしてたんだな」
「母に会ったんですか」
「久しぶりにな。丁寧にここの住所を教えてくれたよ」

 母さん、知り合いとは言え警戒心がなさすぎるよ……。相手が三上さんだから問題なかったけど。頭を抱えそうになってしまう。せめて一言私に断ってほしかった。
 沸かしたお湯を急須に注いで、すこし冷ます。三上さんに飲ませるお茶だ。真剣に淹れないと。タイミングを計りながら茶葉を投入する。
 お茶に集中したいのだけど、どうにも後ろの居間が気になる。
 振り向いてちろりと三上さんをうかがうと、三上さんも私を見ていた。目がばっちりと合い、絡み合う。
 うっ、と私はうめき声を洩らした。無理やり視線をはがして、お茶を見つめる。

 三上さんは目が見えない。だから目があった気がするのも気のせいだ。三上さんは今日はサングラスをかけていないから、いつもと違って戸惑ってしまう。
 胸がどきどきしていることに気付かないふりをして、淹れたお茶を居間へと運ぶ。

「そう言えば、ここに来る前に電話ぐらいしてくれればよかったのに」
「電話しようと思ったんだが、夜見島で失くした。サングラスと一緒に」
「……三上さんをひとりで行かせたのは失敗だったかな」
「どうだろう。あんな体験、きみに耐えられるか……」

 なにやら含みのある呟きが聞こえる。
 ようやっと眠気が覚めてきた。この人は一人旅帰りなのだ。しかも口ぶりからすると自宅に帰るよりも私と会うことを優先している。

「朝一番に私のとこに来るほど、いいことがあったんですか? 小説のネタにはなりそうですか?」
「いいこと……か、どうかはわからないが……壮絶な体験をしたよ」
「幻の少女には会えました?」
「ああ」

 三上さんは深く頷いた。わずかに俯くとまつ毛が白い肌に影を落として、憂いを秘めた表情によく映える。

「幻の少女は、私の姉だったよ……」
「お姉さん? 三上さんにはお姉さんが居たんですか? お元気でした?」

 私の言葉に三上さんはふ……と微笑んだ。さみしげな笑みだ。

「記憶も、すべて取り戻した。しかし、これを本にするかは……」
「胸の中にしまっておきたい、ということですか」

 三上さんはこくりと頷く。体験が壮絶すぎて、まだ咀嚼しきれていないのだそうだ。

「思った以上の収穫をなされたんですね。こちらとしては、作家三上脩の発見につながればと思っていたので、無理に島での体験を書かずとも構いませんよ」
「こちらとしては、と言うが、それはきみ個人の意見だろう」

 バレたか。編集部は作家三上脩に多大な期待を寄せている。読者もだ。
 編集部は今回の取材旅行でなにかを掴んで返ってくることを願っていたし、取材に行ったのだから、それを活かしてほしいと思うことも当然だ。
 私個人としては、書きたくないことは書かないでほしいと思っている。三上さんは評価や需要を気にして物語を紡ぐタイプの作家ではない。内から流れ出る言葉をカタチにしていたら、自然と脚光を浴びる――そういう天才タイプの作家だ。編集部の意向や編集者の方針に振りまわされてほしくない。

「いいんですよ、上はどうにかします。だから、三上さんはお好きに書いてください、そうすれば勝手に本は売れます」
「……きみは本当に……」
「な、なんです?」

 三上さんは目を開いて、驚いた顔をした。いつもよりも表情豊かな三上さんに戸惑ってしまう。いや、サングラスがないから目の動きがよくわかるだけなのかもしれないけど。
 私はごまかすようにお茶をすすった。三上さんは中性的な美形だ。それを意識してしまう。

「いいやつだな、きみは」
「なんですか、藪から棒に」
「思ったことを言っている。いままでの私は他人に興味などなかったが……うん、きみはいいやつだ。昔から、本当に」
「ほ、褒めてもなんもでないですよ」

 真顔でしみじみと言われて気恥ずかしくなる。なにか私、いいこと言ったかな!?
 気のせいじゃない、三上さんは絶対にいつもと違う。
 言動もそうだけど、雰囲気が違うのだ。
 以前よりあった他者を寄せ付けない隔絶した雰囲気は成りをひそめている。儚さと危うさをはらんだ孤高さ――それらがぽすんと、目の前にいる三上さんからは感じないのだ。

「夜見島に行って、本当に色々あったんですね……? なんか、変わりましたね」
「そうか? いや、そうだろうな。そうだろうとも」

 三上さんはふっと笑った。苦笑とも微笑ともつかない表情はなにを思ってのものだろう。
 よくよく三上さんを見れば、指や顔に擦り傷がたくさんある。
 なにがあったんだろう、本当に。

「『生まれ変わった』に等しいかもしれない。いままでの私は、いつも幻の少女を……お姉ちゃんを探していたような気がする。もう、お姉ちゃんを探すことはないんだ」
「三上さん……」

 意味深な言い方をする三上さんが、気になる。
 先ほど孤高な印象は感じなくなったと言ったけれど、どこか物悲しい雰囲気は相変わらずなのだ。

「だから、今は前よりも、もっと周りの景色を見ようと思ったんだよ」

 三上さんはどこかさみしさのなかにも吹っ切れたような笑みを浮かべた。私にのばした手は迷うことなく、私の髪の毛に触れた。

「綺麗だ」
「え……」
「きみの顔をちゃんと見れるようになったことも、収穫のひとつではあるかな」
「み、三上さん、目、見えるようになったの!?」
「いーや? 相変わらず視力は弱いままさ」
「でも、今」
「事情があってな。それについては今から話すが――信じられないとは思うがな」
「わけわかりませんよ……」

 三上さんは微笑んだまま、私の頬を人差し指でつついた。子供みたいな仕草に嫌がる気もなくしてしまう。
 ひとしきり頬に触れて満足したのか、三上さんの手が下に降りる。そうして、私に握手を求めた。

「改めてよろしく。さん」
「……よろしくお願いします、三上さん。新生三上脩、って言った方がいいですか?」

 手を取って握手を交わす。大きな手の平が私の手を包んだ。
 まっすぐに私を見る三上さんに気恥ずかしくなる私は、その時は想像だにしていなかった。
 夜見島に行って一皮も二皮もむけたという三上さんの、人間が入れ替わったのではないかと思えるほどの熱烈なアプローチが待ち受けていることなんて。
 まあ、いいんだ。
 とりあえず私は、三上さんの無事がなによりだったし。アプローチをやり過ごすと子供みたいに拗ねる三上さんは、結構可愛いし。
 でも、休日にいきなり押しかけてくるのはちょっとやめてほしいです。ハイ。





2014/9/27:久遠晶