覚めない夢


 三沢岳明が見る夢は、いつだって悪夢ばかりだ。少なくとも二年前、ある村の災害救助に繰り出したその日から、悪夢ばかり見る。
 内容は様々だが、基本的には2パターン。無数の手や化け物が襲いかかってくる、恐ろしい夢。それともうひとつは――。
 別居を言い渡したときの、瞳を涙で濡らす妻の泣き顔だ。

「私は至らぬ妻でしたでしょうか」

 動揺を隠して膝の上で握り拳を震わせる妻に、三沢はなんと言えばいいのかわからなかった。
 毎夜襲い来る悪夢は日に日に苛烈さを増し、三沢を苦しませる。共に寝る妻にそんな自分を見せたくなく、別居を申し出た。
 身勝手な振る舞いだとは理解しているが、理由を明かすことは憚られた。

「お前のせいじゃない。俺の……」

 俺の弱さ、とは言えず、三沢は妻の冷えた拳を握ることしかできない。
 結婚生活のなかで妻がはじめて見せた涙。こんな形で泣かせたくはなかったと思いながら、これが最善なのだと言い聞かせる。
 それは二年前の現実であり、何度も繰り返し見る罪悪感と言う悪夢だった。


   ***


「今帰った」

 仕事を終え、アパートに帰宅した三沢は、明るい部屋に向かってそう声をかけた。返事はない。
 以前は自分が帰ると妻は必ず玄関先まで出迎えに来て、三沢の持つ鞄とコートを受け取ったものだ。
 おかえりなさい、あなた。なにがそんなに嬉しいのか、満面の笑みで迎える妻に三沢の仕事疲れは吹っ飛んだものだ。
 いまは違う。

 無言の空間にため息をつき、三沢はネクタイを緩めた。
 狭い廊下を歩き、リビングへの扉を開ける。味噌汁の香りが鼻先をくすぐった。
 台所に向かう妻が三沢のほうをちらりと振り返り、すぐ視線を手元に戻す。

「あ……お邪魔してます。岳明さん」
「あぁ」

 他人行儀で、冷ややかな会話だ。
 それなりに良好な関係を築いていた二人だが、別居以後その仲は急速に冷え、そして離れた。
 元々二人の関係は、妻の言葉に三沢が耳を傾けるという形で構築されていた。話し役の妻が黙れば、もうそこに会話はない。
 生来寡黙で口下手な三沢はなにを喋ればいいのかわからず、黙りこむしかないのだ。

(今日演習で……部下……永井……見込みのあるやつで……)

 閉じた口のなかでもにょもにょと言葉を探してみても、適切と思われる話題は出てこない。
 
(こんなことをしゃべってなんになるんだ)

 思考はいつものように行き止まって完結してしまい、三沢は妻の背中から目をそらした。
 毎日、三沢の仕事中にアパートに入って家事をこなし、夕食を共にしてから自宅に帰る妻はどういう心境なのだろう。

 ――私はあなたが好きです。もう一度私にはチャンスをください。

 別居を申し出たとき、妻はそう懇願した。離婚はしたくないと。それは三沢にとっても救いのような言葉だったが、果たして妻はまた同じ言葉を言うだろうか。
 戸籍に傷がつくことを憂慮して仮面夫婦を続けているのではないかと危惧しながら、三沢はかといってなにかするわけではった。
 心が離れて当然だ、と思う気持ちがあったからだ。

 会話のない食事はどこか味気ない。
 妻が食器を洗う音も煩わしいと思った。
 妻の背中はいつだってしゃんとしている。贔屓目に見ても、美人の部類だ。結婚が決まったとき三沢は同僚から羨ましがられ、同時に首をかしげられたものだ。
『お前にはもったいない』その通りだと、いまでも――いまだからこそ思っている。

 艶やかな髪は美しく妻の肩を流れ、食器を洗う手が動く度にさらさらと動いた。
 細い肩の感触が気になる。
 三沢は無意識のうちに椅子から立ち上がった。気づかれないように背後に近づく。
 いたずらをたくらむ指先がそろりとのびた。
 なだらかな肩甲骨から、引き締まった腰のくびれ。その部分を撫でたいとおもう。
 妻の表情が気になる。
 昔のように嬉しそうにしているのか、つまらなそうな表情なのか。唇はいつも通りぷるりとしているか――。
 不意に赤い映像がちらついた。
 目と口から血を流し、そして、そしてこちらに――。

「いやっ!!」
「っ!」

 耳元で妻の悲鳴が聞こえた。ついで皿の割れる高い音が床で響く。
 目の前で、妻が怯えた目でこちらを見上げている。
 気がつけば先程の赤い映像はすでになく、妻も血を垂れ流しては居なかった。
 
「あ、あの、い、痛い……です」
「……すまん」

 肩と手首を強く掴んでいたと、言われてやっと気がつく。
 硬直したがる体に無理言って、妻から手を引き剥がす。紫色に鬱血していた手からさっと血が引き、元の肌色に戻る。
 細い手首には赤く三沢の指の痕がついていた。
 アザになりかねないほどの濃さだ。服に隠れて見えない肩にも、同じように痕が残っていることだろう。

 妻が怯え困惑するのは当然だ。

「わっ私は、なにか……悪いことをしてしまいましたか……?」
「いや……」

 おどおどしながら三沢を伺う表情に胸が痛くなった。
 かといってなにか言えるわけでもなく、ごまかすように三沢は床に散乱してしまった皿の破片に視線を落とした。

「あのぅ……ごめんなさい、お皿」
「いい、俺がやる」
「でも怪我をなさったら」
「いいから」

 三沢にとっては自分の指よりも妻の指の方が大切だ。仕事に支障が出ます、そんな言葉を黙殺して、しゃがみこんで割れた皿の処理をしはじめる。
 言葉で止めつつ妻が見守っているのは、ひとえに三沢を刺激したくないが故だろう。
 先程のこともあるし、そうでなくとも――妻は三沢に怯えている節がある。

「あの、ほんとう、すみません、その、」
「構わん」
「弁償します」
「いいから」

 重ねた言葉は強くなり、背後で妻が息をつまらせる気配がした。
 三沢が怒っていると勘違いしているのかもしれない。

 以前より妻は三歩引いて三沢に付き従うタイプだった。夫を立て、自己主張はあまりしない。
 現在はそこに怯えと恐怖がまじぁている。おどおどしながら、常に三沢の機嫌をおっかなびっくりうかがっているのだ。何かあればすぐ謝り、肩をすくめて三沢を見上げる。
 三沢も三沢で取り繕う言葉を知らないものだから、対応に困り果て持て余している。

「……今度」
「は、はい!」
「旅行……でも行くか?」
「え?」

 三沢の言葉はボソボソとして聞き取りづらい。言いづらいことを喋るときはそれが尚更顕著になる。三沢は唇を濡らした。
 旅行。言葉を認識した妻の声が色めき立つ。

「りょこう? 二人で?」
「それは好きにしていい、主婦仲間とでも、一人旅でも」
「あぁ……」

 途端に妻の相槌が低くなる。三沢は言葉を間違えたのかと慌てた。
 先程の無体の罪滅ぼしのつもりなのだから、喜んでもらわなければ困る。

「たまには羽を伸ばして、一週間ぐらい好きなところに行くといい」
「でも、私一人だけなんて……あなたは……」
「俺は仕事だ。金ならあるし、こっちのことは気にするな」
「……あなたがそれを望むなら……わかりました」

 有給は使えるが、自分がいない方が妻も楽しめるだろうと言う配慮だ。
 含みのある言い方が気になりつつも、三沢は言葉をつぐんだ。

「楽しみです」
「楽しんでこい」
「……はぁ」

 なぜそんな気の抜けた返事をするのか、と思うのは自衛官の悪癖だろうか。
 皿の破片を集め終わって振り返ると、妻は少し離れたところに立っていた。三沢の指示を待つように両手を前で揃える様は、妻と言うよりも給仕係のような雰囲気がある。
 ややうつむき加減の、疲れたような表情。ぼんやりと宙を見る瞳はなにを考えているのだろう。
 二年前に比べ、頬がやつれたかもしれない。しかしその白い肌もどこにも、血などついていない。

 先程見えたものは、白昼夢のようなものだったのだろうか――。
 薬を強いものに変えるべきかもしれない、と三沢は思った。
 二年前の災害救助を境に、三沢の精神は急速に病んでいる。違法に入手した精神高揚剤でごまかしても、異様な感覚は常に三沢にまとわりつき、惑わせる。

「お、お気遣いはありがたいのですけど……」

 不意に妻が口を開いた。
 無言で頷いて、途切れた言葉の先を促す。

「私には、私よりも貴方の方が休息が必要な気がします」
「なんだと?」
「その、最近休めてますか? なんだかひどくお疲れですよね。たまには有給をとって、ゆっくり――」
「別に、いつも通りだ」

 三沢は妻の言葉を遮って、憮然として言い返した。
 悪夢による疲れ、気苦労。それを悟らせたくなくて別居に踏み切ったというのに、気づかれていては意味がない。
 自然と言葉は荒くなった。妻は気圧されて、うっと呻いてうつむいてしまう。

「俺は大丈夫だ、問題ない」
「……差し出がましいことを言いました。すみません」
「別に……」

 怖がらせたい訳ではない。三沢は妻の様子に慌て、黙りこむ。三沢の気まずげな表情に妻が気づけば二人の関係も変わっただろうが、重たい空気に耐えきれなくなった三沢が背を向けたのでそれはかなわない。

「今日はもう帰れ」
「……わかりました」

 妻の家は、一時的に間借りしているこのアパートではなく、二人の自宅だ。
 手早く荷物をまとめて、妻は三沢の命令通りにアパートを出る。三沢は手持ちぶさたになりながら、玄関まで妻を見送る。

「悪かった」
「……いえ」
「旅行の日程は好きに組むといい」
「はい。……気を遣わせてごめんなさい。お邪魔しました」
「いいや……」

 謝ることはない、と言うより早く扉がしまる。ひらりと舞った髪の毛に触れたいと思う間もない。
 狭いアパートにひとの気配がなくなり、三沢は静かにため息をついた。
 自業自得ではあるが、むなしい生活だ。
 最善だとわかっているが気遣う妻をはねのけるのは辛い。その上今日は妻の手首を痛めてしまった。

 どうにかしたいとは思うがどうにもならない。悪夢や幻はおいそれと明かせる悩みではなかった。

 ふとカレンダーが目に入った。
 今はまだ七月後半だが、八月に入れば妻の誕生日が近づく。
 普段記念日や誕生日に頓着しない三沢だが、思い出してしまったからには何かしなければならない、と言う感覚がわいてくる。いいチャンスかもしれない。悪夢のことは話さずとも、今よりはいい関係に向かうことができれば……。

 次の輸送物資の任務が終わったら、妻へのプレゼントを物色してみるのもいいかもしれない。気弱で大人しい妻が、昔のように嬉しそうに笑う表情が見たい。
 三沢はそう思ったものの、それが叶うことはついぞなかった。

 夜見島の現実は悪夢以上に三沢を苛む。夜見島に取り込まれ、すべてのしがらみから解放された三沢はもう、夢から冷めることはないのだ。
 楽しい夢は明けることなく続く。もう、彼はもとの世界には戻れない。





2014/9/25:久遠晶