天使様の呪詛と祈り


「夢と現実の境って、なんだと思う?」

 彼女がそんな質問をしてきたのは、事が終わったベッドのなかでだった。
 ピロートークや事後の甘い雰囲気はなにもない。ただ肉体の気だるさのなかで、彼女の頭だけが覚醒しているようだった。
 彼女にとっては数ある行為のひとつでも、俺にとっては童貞卒業のその直後だ。余韻が抜けきらない。彼女を腕にかかえてまどろんでいたかった俺、は色気のない話題に眉をひそめ、情事とはこんなものなのかと思い直した。
 彼女を背中から抱き締め、髪の毛をすきながら会話に付き合う。

「質問の意図がわかりません。先輩」
「夢と現実をへだてるもの、ってことさ。三沢くん」
「……夢は寝ているときに見るものです。起きたら目覚めます。現実は意識が覚醒していないと見れません」
「うん、起きたら目覚める。その通りだね。でも起きた先が夢じゃないって誰が証明できるかな」
「起きたことも夢だと?」

 問いかけると、彼女は腕のなかで体を反転させる。向き合う形になると素肌の胸と胸が当たる。先程射精したばかりの身体に、また熱がこもる気がした。

「これは意識の話だからさ、誰にも証明ができないでしょう。心の証明を誰にもできないのと同じように、この世界が脳みそが見てる幻ではないと証明することはできないってこと」
「先輩、寝れてないんですか」
「きみの、端的に結論だけ聞きたがって言いたがるところ、嫌いじゃないよ」

 話の腰を折って気になることを質問すると、彼女は不満げに目を細めた。笑いながら俺の頬をつつき、おかしな形に歪める。

 彼女はいつもそうだ。
『そんな仏頂面していては、きみに助けられる市民が怯えてしまうよ』
 そう言って笑いながら、指先で俺の頬を持ち上げて遊ぶことが好きだった。
 俺が『出動のときには笑います』と返せば、『普段から笑う努力をしておかないと、大事なときに笑えないよ』笑ったままそう言う。それはいつものやりとりだった。

 頬をつまんだり持ち上げたりして遊ぶ手をそのまま許し、俺は彼女の頬にかかる髪の毛を耳元に寄せた。俺のざらついた頬と対照的に、その頬はすべらかだった。本人に伝えれば『お世辞を言うでないよ。結構荒れてる』と恥ずかしそうに笑った。

「睡眠不足なんですか」
「……うん。まぁね。いつものことさ。こうしていれば、すこしは落ち着くけど」

 それは愛しい相手と抱き合っていれば、という意味ではない。体力を消費すればという意味だということに、当時の俺は気づかない。
 彼女が眠れないからと大量の薬を服用していたことを知っている俺は、このままで居れば薬が不要になるのではと思ってただ嬉しかった。

「先輩はこれが夢か現実かわからないんですか? それとも、夢を見るのが怖いんですか」
「それは難しい質問だ。どちらが夢かの定義付けをしないとな」
「はぐらかさないでください」
「ばれたか」
「わかりやすすぎます」
「うーん」

 彼女は目をつむり考え込むそぶりをする。反射的にキスしたくなるが、自分から質問した手前欲望をこらえる。それは男としてのプライドだった。

「一応私はここが現実だと思ってるんだけどさ。夢にしては持続性があるしね」
「当たり前です」
「何度も嫌な夢を見ていると、どっちがどっちだかわからなくなるんだ――夢が現実に侵食してくるようで」

 不安の吐露と言うより、淡々と現状を述べる声色。そういうときでも、彼女の笑みは変わらなかった。
 笑顔で隠しているように思えて、俺はそれが不安だった。同時に、その表情をどうにかしたくて惚れたのだと思う。

「この世のすべてが全部夢なら、目覚めたときには幸せだろうな」
「俺は嫌です」
「ほう」
「いままでの努力が無駄になる」

 俺が言うと、彼女は驚いたように目を開いた。ややあって笑い出す。背を丸めずにはいられないというようにうつむいて俺の胸板に頭を擦り付けた。

「ふっ……ふふふふふ。きみは面白いな、本当に。現実的で、本当に」
「なにがおかしいんですか。ちょっと、大丈夫?」
「ごほっがほっ」

 笑いすぎてむせ始め、俺はあきれながらむき出しの背中をさすった。
 笑いが収まると、彼女もそもそと体を起こした。体温が離れ、わずかに寒くなる。

「どうしました」
「薬飲まないと」
「そんなに、薬飲まないといけないんですか」
「飲まないといけないんだ」

 引き留める前に彼女はするりとベッドから降りてしまう。裸のままで机の引き出しを漁る後ろ姿に、男と寝ることに慣れているのだと実感する。
 プチプチと音がして、薬のフィルムが開けられていく。様々な薬は果たして何種類あるのか。数だけ見れば、10錠は下らない。

 台所に行ってコップに水を汲み、大量の薬を一口で飲み込む。手つきが震えているのは、たぶん薬の副作用だったのだろう。俺はそれをじっと眺めている。

「おまたせ」
「薬なんかやめた方がいいですよ」

 よせばいいのに言葉が口をついた。

「そんなものに頼っても、なんの意味もないでしょう」
「頼らないよりは頼ったほうがましだよ、多少は楽になる」
「思い込みでしょ、そんなの」
「そうかもしれないなぁ」

 彼女は困ったように笑う。その笑みにはぐらかされたような気がして、真剣に忠告しているのにと当時の俺は苛立った。
 彼女はごまかすように、そっと俺に身を寄せてきた。唇をふれあわせて、舌を差し込む。俺は後頭部を引き寄せてそれに答える。
 起き上がっていた体はまたベッドに沈む。
 そのまま二度目の事に及ぼうとした俺を制するように、彼女は俺の胸板に手をついて唇を離した。

「どんな味がした?」
「苦いです。……薬の味が」
「苦い私は、嫌いかい?」

 俺を見下ろして、笑う。逆光になり顔に影ができ、ひどく物悲しそうに見えた。
 首を振ると、よかった、と呟くが、嬉しそうには見えなかった。

「三沢くん、忠告しておくけど」
「ん……なんですか」
「きみはこっち側に来ちゃいけないぞ」

 キスをして、無言の同意のまま指を進める。
 合間に囁かれた言葉は、もはや盛り上げるための手段だ。少なくとも当時の俺にはそうだった。


 それは青春時代の苦い思い出だった。
『こっち側に来ちゃいけないぞ』――こっち側ってなんなんですか、先輩。
 問えなかった疑問は喪失の痛みとして残り、しかしやがて忘れていく。後味の悪い恋愛は思い出したいものではなかった。

 それから十五年も経って――俺は先輩の言葉の意味を、身に染みて実感していた。


   ***


 地面にねっころがるのは、何年ぶりだろうか。自衛隊に入隊したての頃は訓練に耐えきれずゲロを吐き、地面に倒れたこともあった。懐かしい思い出だ。
 坊主頭をくすぐる草の感触と、青臭さが心地よかった。
 夕焼けの向こう、雲と雲の隙間に島が映り込んでいる。死ねばあそこに行くのだろうか。

「あっち側は遠いなぁ」

 夢とも現実ともつかない異常な世界のなかで、『そこ』はひどく魅力的に思えた。
 こんな夢からは目覚めたい。だけど目覚められる保障がないから、怯えながら過ごす。そんなのはもうまっぴらだった。
 なにもなくていいから、すべて終わってしまっていいからこの世界を終わらせてしまいたい。やけくそな願望が支配する。

 こっち側に来るなと先輩は言った。しかし、いまの俺は先輩と同じ世界に来ているはずだ。
 いまの俺には、先輩の言葉のすべてがよくわかるのだから。
 飛び降り自殺した『先輩』は、その後夢から目覚められたのだろうか。起きた先は幸せな現実だったのだろうか。


   


「あの女よりも生臭い……お前は何者だ」
「やめろー!!」

 俺を銃で撃ったことに気付いた永井は、我に返って絶望的な表情をした。
 そんな表情しなくていい。

「やるじゃない」

 そう言うと永井は目を見開いた。そういえば、永井を誉めるのはこれがはじめてだったかもしれない。
 寄せた期待を口にできず、誤解をされて嫌われる。俺の性格は死ぬまで変わらないと思っていたし、それで構わないと思っていたが。
 よたよたと歩み寄って、永井を抱き締める。震える肩を落ち着かせるようにぽんぽんと撫でた。

「俺だけ先に目覚めちゃうけど、ごめんな」
「三沢さん、俺……」

 そんな顔するな。この悪夢から解放してくれて、感謝してるんだから――。そう言う事は叶わず、崩れる足と一緒に意識が落ちる。


   ***


 …………。
 結論から言おう。悪夢から覚めた先に、現実はあった。
 暖かい布団が迎える代わりに、俺を迎えたのは清々しい昂揚感だった。
 現実とか悪夢とか幻とか、あっち側とかこっち側とか。そんな下らないことに囚われていたのがバカみたい思えた。
 細胞の一つ一つから別の自分になれるような清々しさ。

「あんなに悩んでいたのが嘘みたいだよ」
「……三沢ぁー!!」

 再会した永井は俺を視認すると同時に雄叫びをあげる。
『前の俺』が最後に見た泣きそうな顔は既になく、雄々しさと猛々しさだけがそこにあった。
 それでいい。
 これは永井への感謝の念であり、単なる遊びだ。

「俺を悪夢から解放してくれたお前は天使様だよ、なぁ永井」
「俺んちは仏教徒だっつうの!!」

 問答無用で機関銃を連射される。
 永井も血気盛んになったもんだな。
 天使様でも仏様でも、どちらでも構わない。いまの俺にとっては大した差はないのだから。
 永井の背中にあるのが羽でも腕でも、むしって捨てて『目覚めさせる』だけだ。

 他のやつは身体という殻を得たいがために人を殺す。俺はそうじゃない。くだらない理性という殻から永井を解き放つために、俺は機関銃を永井に向けた。
 それが、俺を解放してくれた永井に対する礼と言うものだろう。

「永井くん! あーそびましょお!」

 せいぜい俺を楽しませてくれ。





2014/10/6:久遠晶
昨日の深夜のSIRENお絵かき60分的な感じのツイッターの企画のお題『天使』
でこんなの(お前は天使様みたいなもんだよ永井)を想像したんですけど、なんかSIREN1のお題っぽかったのでやめました。結果夢に……。
昔他人に投げ掛けた「薬にたよるな」って言葉にギリギリと心を締め上げられる三沢さんに萌えます。