寄り添うぬくもり

 仕事の帰り、アパートに戻ると自分の部屋に明かりがついているのが遠目からもわかった。
 独り暮らしであるはずの三沢岳明は、自宅から立ち上る他人の気配にため息をついた。
 白い息がけぶる拍子にくちびるがもちあがり、ごまかせない笑みになった。
 空き巣ではないことを理解しているからこその余裕だ。

 三沢はアパートの階段を上がりながら制服の乱れを整える。自宅の前で咳払いをひとつしてから、ドアノブを捻って扉をあけた。
 瞬間、暖気と共に煮物の匂いがむわっと押し寄せる。

「また来てたのか、お前は」
「あっおじさん。おかえりなさい!」

 台所で食事の支度をしていたセーラー服姿の女子高生が、包丁を使いながら明るく声をかけてきた。
 我が物顔で家宅侵入していたななしは堂々としたものだ。
 アポなしで突撃されたり留守中に家に上がられるのは慣れっこであるので、三沢もいまさら咎めはしない。
 靴を脱いで家にあがりながら、三沢は買ってきたケーキを冷蔵庫に隠した。

「ごはんまだよそってないから」
「わかった」

 制服から着替える前に指示が飛んできた。素直に従い、三沢は茶碗にご飯をよそう。二人分だ。

「メシの前に着替えていいか」
「いいけど先食べるよ」
「それぐらい待てよ」

 三沢の部屋は狭い1LDKだ。ぼやきながら自室兼寝室に引っ込み、手早く部屋着に着替える。

「うわ、おじさんパンツ見えてる」
「あぁわるい」
「なんでおっさんってわざわざ見せてくんの。性的アピール?」
「わざとじゃないって」

 リビングに戻ると、支度を終えたななしが席に座って待っていた。
 顔をしかめての指摘に弁解しつつ、三沢も席に座る。
 顔を向かい合わせて両手を合わせて「いただきます」と声を揃える。

「お前、結構料理うまくなったな」
「おじさんが食べたら何でもうまいよねぇ~普段出来合いばっかでしょ」

 たいして喜んでいないふうでいて、ななしのくちびるはにっこり上がっている。
 せっかく誉めても素直に受け取らない。こいつめ、と三沢は思いつつ味噌汁をすすった。

「わたしがこないと、いっつもカップラーメンだもんね」
「俺だって自炊するときあるよ」
「週何回?」
「……週、4ぐらい」
「少なすぎ」

 やっぱりダメじゃん、とななしは笑う。
 あまり自炊できていないのは確かなので反論できない。
 こうして夕飯を作って待っていてくれるのは、三沢にとってもありがたいことなのであった。



 ななしとは、繁華街の路地裏でで不良に絡まれていたところを助けたのが縁だ。
 何日も野宿していたらしいななしの姿はみすぼらしく、あげく着衣を乱されていたものだから悲壮感すら漂っていた。
 大丈夫か、と三沢がさしのべた手をななしは払った。
 近寄らないで、変態。涙をこらえ体を隠しながら睨む瞳は、大人への猜疑心と敵意でいっぱいだったことを覚えいる。
 ろくな大人と接していなかったのだろう。
 腰が抜けて立てないのにも関わらず、三沢がに被せてやったジャケットすら拒否する様子は手負いの獣のようだった。

「ねーねーこの漬け物もうまくできたんだよ。食べて食べて」
「おぉ」

 今では飼い主になつききった犬か猫のようだが。
 屈託なく笑いかけるななしの表情は、築き上げた信頼の賜物だった。

 三沢は饒舌に話す男ではない。寡黙で、事務連絡以外の会話は苦手とするタイプだ。背中で語る三沢の気質は、ななしに対しては功を奏した。
 家族から与えられない父性を求めるように、ななしは三沢になついた。

 三沢は、それを煩わしく思うときもある。
 血縁もなければ接点もない二人だ。共に歩いていれば援助交際かなにかと間違えられ、女子高生とは話題も価値観もあわない。
 だけれど心地いいと思うときのほうがよっぽど多く、家の合鍵を渡してやったの今年のななしの誕生日のことだった。


 食器を洗うななしの背中を、ぼんやりと三沢は見つめる。
 それは半ば当たり前にある光景になっていた。娘を持つ心境に近しいものを、三沢は感じる。

「こうしてると新婚みたいだよねー」
「はぁ」

 感覚の差は年齢の差だ。娘のようだと言ったらすねるのは知っていたので、三沢は自分の感想をそっと胸にしまった。

「そういえば冷蔵庫にケーキあるぞ」
「ほんと!?」

 食器を洗いながらななしが振り返る。輝く表情はすぐに陰った。眉がひそめられる。

「なんで洗いものしたあとに言うかなぁ」
「すまん」

 文句を言いつつ、食べる気ではいるらしい。

「だいたいね、わたしダイエット中なのよ」
「うん」
「紅茶だってインスタントでしょう」
「うん」
「なーんかケーキってシチュエーションじゃないよねぇ」
「じゃ要らないか」
「いる!」

 席に座ってケーキを待ち構える姿はまさに子供だ。
 三沢は人知れずほっとして、皿に乗せたケーキとティーカップの紅茶をちゃぶ台に置いた。

 今日の帰り道、駅前のケーキ屋に目が止まった。らしくないと思いつつ二人分のケーキを買ったのは、ななしが喜ぶことを期待したからだった。
 ななしに与えて喜ぶものを三沢は知らない。甘いものはたぶん好きだろう、とそんなあてずっぽな予想だった。

 いちごのショートケーキを噛み締めるように食べるななしは喜色の笑みをたたえている。

「罪の味がする」
「糖分だろ」
「なんで、確実に太るものってこんな美味しいのかな」
「脳が欲してるんだろ。ブドウ糖は動くのに必要だし」
「毎日アメちゃん食べてるんだけどなぁ~過剰摂取してるのにな」
「じゃあもうクセになってんだろ。動いて脂肪燃やせよ」
「簡単に言うなぁ」

 ななしは呆れたように言う。動かないで痩せたい、という言葉に三沢も呆れた。

 そこで、ななしの視線が三沢の手元に固定されていることに気づいた。つまりは三沢が食べているショートケーキだ。
 まだ食べたりないのだろうか。見ればななしはまだ自分の分を食べ終わってすらいない。

「……いちご食うか?」
「! いいの?」

 とたんにななしの目が色めき立つ。表情は平静を保っているものの、肩をそわそわと揺らしていては台無しだ。
 三沢はケーキの皿をななしのほうに押した。それを受けてななしは微笑み、差し出されたいちごをフォークを刺そうとして――そこで止まった。
 ななしの表情がくもる。うつむいた拍子に顔に影ができ、深刻な表情になった。くちびるをきゅっとつぐんで、フォークはななしの皿に戻される。

「いらない」
「遠慮すんなよ、別に」
「いらない」

 強い口調での拒絶。
 身を固くして、ちゃぶ台の下に両手を隠すななしは身を守ろうとして縮こまるかのようだ。
 頑なな様子は出会った当初を思い起こさせた。ここに強い敵意がまじれば、まるきり昔へと逆戻りだろう。


 三沢はため息をついて坊主頭を撫で付けた。
 ななしはもともと、素直な性格ではない。嬉しくてもなんでも、まずは文句を言わなければ気がすまない人間だ。
 後ろで尻尾がぱたぱた振っているのをごまかそうとするような態度はほほえましく、決して嫌いではなかった。

 だが目の前で目を伏せるななしだけははっきりと嫌いだった。
 与えられたものに嬉しそうな顔をして手を伸ばす、次の瞬間手に取ることが罪だと言わんばかりの表情が、三沢はひどく嫌いだった。
 ななしにそういう表情を刻み付けた人間を、三沢はひどく憎んでいた。


 三沢はちゃぶ台に身をのりだし、ぐっと距離を詰めた。

「俺は」
「やっ」

 反射的に頭を守ろうとしたななしの手をつかむ。普通に掴んでは細い手を痛めてしまうかもしれないから、親指と人差し指でつくった輪に閉じ込めるような、負荷を与えないつかみかたをする。

「お前の親じゃない」

 うつむき続けるななしのくちびるがきゅっと噛み締められるのがわかった。
 暖房の効いた部屋なのに、ななしをの手首はひどく冷たかった。三沢が冷たく思う分だけ、ななしは三沢の手の熱を感じているはすだ。

「ここに居たいなら、いればいい。いちご食いたいならケーキごと食べていいから」
「……うん……」

 一言一句ねじ込むように言い聞かせると、短い応答が返ってくる。
 やや鼻声が、かえって三沢には安心できた。



 おどおどしたような表情で、ななしが三沢を見つめる。対する三沢はしかめっ面でななしの挙動を監視していた。

「あのさ、そんなに睨まなくても、ちゃんと食べるよ」
「おう」

 うなずきながらも三沢の目はななしのの口のなかに吸い込まれるいちごをしっかりととらえている。

「おいしい」
「そりゃなによりだ」
「すっごくおいしい」

 噛み締めるようにななしは呟く。こういった団らんをあまりしたことがないのだとすぐに察せられる反応だった。

 デザートのあとは互いにシャワーを浴びて、テレビを見たのちに寝る。客用布団は完全にななしの所有物のようになっている。

「電気消すぞ」
「うん」

 暗闇のなかで目をつむっていると、ななしの寝ている居間でごそごそと物音がする。居間と自室を隔てる扉が控えめに開いて、気配を殺したななしが三沢に歩み寄る。
 三沢は気づかない振りをしてそれを待ち構えた。しゃがみこんだななしが、掛け布団ごしに三沢をわずかに揺り動かす。

「おじさん」
「ん……来いよ」

 掛け布団を持ち上げてスペースを作る。ほっとしたような息を吐息が聞こえ、ななしが布団のなかにもぐりこんでくる。
 それをしっかりと抱き止めて、三沢も息をつく。ななしの体は冷たい。温もりを分け与えるように背中をさすってやる。

「おじさんあったかい。かたいけど」
「一言余計だ。締めてやろうか」
「ギャッ! 痛い痛い~ギブギブ」

 鶏を絞めたような悲鳴に腕の力をほどいてやる。
 向かい合って抱き合っているから、必然的にななしのからだの匂いも柔らかさもわかってしまう。立ち上るミルクのような匂いも細い肩も、ななしがまだ誰かに守られ、暖かい部屋で庇護されるべき存在だと示していた。

「おじさん、腕だいじょうぶ? しびれてない?」
「平気だよ」

 不安げな声に三沢の目線も甘くなる。我が物顔で居座るそぶりをしていても、ななし内心は不安な子供なのだ。
 ななしの枕になっている二の腕の先で肘を曲げて、頭をわしわしと撫でた。
 寄り添いあって目をつむる。
 こうしていると悪夢を見ないで済むような気がするから、三沢もこの関係に甘えていた。





2014/12/9:久遠晶