誰も知らない場所

 三沢さんを見ていると、むしょうに不安になるのは何故だろう。

 いつだって背筋が伸びていてしゃんとしている大きな背中が、ある瞬間だけわずかに丸まっているときがある。そう言うときに声をかけると、決まって三沢さんの肩はこわばった。
 びくりと身体を震わせ、驚いたように「お前か」と私を見る表情に――わたしはいつも不安になって、「お疲れ様です」という言葉しかかけることができないのだ。

 三沢さんの足は丸太のように太い。だというのに足音はなく、後ろから声をかけられるまで気づかない。だというのにソンザイカンハ人一倍あるのだから、不思議なものだとおもう。
 行進の際に歩く足の歩幅すらも規定されていることを、わたしは三沢さんと出会ってから知った。
 じっと立っていると、気配のない大木が地面に根差しているようなおごそかな空気さえ、三沢さんには漂う。
 声をかければ鳥を観察していたと言われ、わたしは桜が芽吹き始める季節になっていたことに気づく。

 安定感の塊のようなひとなのにどこか儚さが匂うのは、自衛官と言う命がけの職種だからだろうか。
 ふとした瞬間に存在感がおぼろに霞み、そのまま煙のように霧散して消えてしまうのではないか。ある日ふと……行方不明になって居なくなるのではないか。
 誰もいない道の隅を睨み付ける三沢さんをみつけるたびに、そんな恐怖は膨らんでいった。
 だから、三沢さんが心を病まれていることを知ったとき、わたしはなんとなく腑におちた。
 心を病み、世界に嫌気が差した人間独特の空気。周囲に伝染させるような黒いもや。三沢さんに感じていたのはその類いだったのだと、わたしは納得したのだ。

「違う、ちがうんだ」
「うん、そうですね」

 言葉にならない否定を繰り返す三沢さんの背中を撫でて抱きしめる。
 繰り返し悪夢を見るのだと、三沢さんは言った。それはたぶん、誰にも知られたくなかった秘密だろう。
 大きな体で何かに怯える三沢さんは子供のようで、抱き締めて落ち着かせることに抵抗はなかった。慈しみすら感じた。
 すこしでも負担が軽くなればいいとおもったし、そのための手助けをしたいと強く思った。もっとも、私を頼ってくれることはついぞなかったけれど。

「逃げ回っても意味はないぞ」

 逃げ回り続けた三沢さんがそう言う。
 要らない殻を脱げ、と、殻にこもり続けた三沢さんが言う。
 変質化し、頭巾をかぶってヒカリカラ逃げ、人間ではないなにかになった三沢さんはひどく楽しそうだ。
 にやついた声をあげて舌舐めずりをし、私を探して語りかける。
 どうして……こんなに楽しそうなんだろう。生きているときよりも生気にみなぎっている。
 私の知る三沢さんではない。
 落差に戸惑い、見知った化け物を殺せずに物影に息をひそめるわたしは
きっと生き残れないんだろう。不思議と怖くはないのは、三沢さんが先に行っているからだろうか。

「みいつけた」

 三沢さんが嬉しそうに唇をもちあげ、目を細めた。眼を閉じた先――わたしは布団のなかにいるのか、はたまた化け物の仲間入りをしているのか。どちらにせよ誰も知らない場所であることはちがいなかった。
 





2015/05/31:久遠晶