真夜中のたばこ



 夜中、アパートを抜け出して近くの自動販売機でタバコを買った。その場で封を開けて、備え付けのベンチにどっかと座り込む。
 フィルターをくわえて、胸一杯に広がる味と匂いにどうにか落ち着きを取り戻した。灰色の煙が宙に霧散し、澄んだ空気に膜を作る様子を見つめる。
 帰宅しないのは家を汚したくないからだが、それ以上に家にいても手持ちぶさたになるからだった。家に帰れば、一人が怖くなる。四隅の暗がりが気になり怯える。そうなれば寝てしまうしかなくなり、寝れば悪夢を見る――どこにも逃げ道がない。
 それならば外にいるほうが幾分かマシだった。
 空を扇いでも分厚い雲に覆われ、星ひとつない。陰気な夜にため息をつく。天候など影響せずいつでも夜は気分が滅入る。日中張り詰めた気がしぼむと、入れ代わりのように『それ』はやってくる。

「なんで俺が……」

 無意識のうちにぼやきが出たことに気づいて、慌ててタバコをくわえて蓋をする。以前の仕事の後から、不調が続いていた。
 眉間を手のひらで揉んでいると、道路から軽い足音が響いてきた。ザッザと跳ねるような音はランニング中、図ったように規則正しいから走り方も丁寧で正しいのだろう。合わせて聞こえる呼吸は女のものか。

 その足音は徐々に失速し、俺のそばで止まった。自動販売機に用があるのかもしれない。
 眉間に手を押し当て目をつむったまま、今鈍器で殴られればきっとそのままやられるなとぼんやりと考えた。いっそそうしてくれれば恐怖も感じなくなるだろう。

「あの、三沢さん?」
「え?」
「やっぱり三沢さんだぁ」

 顔をあげると、嬉しそうに笑う隣人と目が合う。こんばんはと会釈する隣人の姿といつも通りの覇気のないけど声に、普通の日常が返ってきたような気がした。
 喉のひりつきが失せていき、どうにか息ができるようになる。

 ジャージを着た隣人は肩で息をしていた。頬には汗が伝っている。

「ジョギング中? 真夜中に危ないぞ」
「ちょ、ちょっと熱中しちゃって……」
「おい、あぶねぇ」

 俺に歩み寄る足が途中でガクッと折れる。もつれるように倒れ込む身体を、とっさに支える。
 軽い。骨と皮だけではないのかと不安になる細さだった。
 隣人は慌てて足に力を入れ直し、俺の肩を支えにして体勢を立て直す。ふらつきながら俺の隣に腰を下ろした。

「すみません」
「大丈夫かよ」
「最近三沢さんみならってジョギング始めたんですけど、運動不足だからか手足が震えちゃって」
「……家にジュースとか、甘いものある?」
「特には」

 ため息をつく。立ち上がって自動販売機へと向かう。

「そりゃ低血糖症だ」
「へ」
「糖分摂取すればおさまる」

 がこん、と販売機のなかで缶が落ちる。ホットココアを販売機から取り出して、隣人に放り投げ――ようとし、取りこぼしそうだと思い直した。手の中に置いてやる。

「あとでお金払いますね」
「いいよ、百円だし」
「払います」

 ねじ込むようにそう言う。缶のプルタブを開けようとすると、力が入らないらしい。奪い取って代わりに開けてやる。すまなそうに隣人が会釈した。

「次ジョギングするときは飴かなんかポケットにいれたほうがいいぞ」
「あー……ココア美味しい。言われてみれば運動してるんだから無駄食いしちゃダメって思ってたなあ」
「逆だよ。動くために必要な糖分はとらないと」
「確かに朝晩三時間ジョギングしてるんだから、いつもより気をつかないとダメですよね」
「運動不足の人間がいきなり激しい運動しようとすんなよ……」
「あはー適切な加減がわからなくて」

 痛いとこを突かれたように隣人が笑う。作る食事の量が毎回多くなることといい、加減を知らないやつだ。
 ふと、隣人の視線が俺の持つタバコに向いた。

「あぁ、わるいな」
「構いませんよ。タバコ吸うんだな~って思っただけなので」

 ベンチ備え付けの錆びた灰皿に捨てようとした手を掴んで止められる。
 ひやりとした震える手は低血糖だからだが、思わず息がつまった。
 以前、ふらついたからだを支えたとき、隣人にはねのけられたことは記憶に新しい。

「タバコの臭い嫌いじゃないから、大丈夫」
「じゃあ……悪いな」

 断るのも逆に失礼な気がして、俺はタバコのフィルターをくわえなおした。
 会話の糸口が見つからないとき、タバコというのは便利だ。霧散していく煙を眺めるだけで、間を持たせられる。
 もっとも、そんなことを気にする相手でもないが。たまたま二人でベンチに座っているだけだ。

「タバコ吸うと、体力なくなるって聞きました」
「普通はな。でも、んなやわな訓練してないよ」
「なるほど。……タバコ、おいしいんでくか?」
「うまいけど……お前は吸うなよ。丈夫な赤ちゃんが産めなくなる」
「ふふ」

 不意に隣人が笑う。笑うポイントがあっただろうかと視線をやると、隣人は目を細めて夜空を眺めていた。自動販売機のきつい光に照らされた唇の赤みが、いやに目立つ。

「そりゃ確かに、タバコは吸わない方がいいですねぇ」
「うん」

 隣人はココア缶に口をつける。一口のんでくちびるを離したあと、飲み口を舌で舐めとる仕草が扇情的だ。
 見つめられたままそれをされたら誘っているのかと思うが、どうやら無意識のものらしい。

「ふらつきは大丈夫そう?」
「ん。おかげさまで、手の震えも止まったみたいです。糖分って即効性あるんですね」
「よかった。もう遅いからさっさと寝ろよ」
「はい。おひとりのとこ、邪魔しちゃってすみません」
「いや」

 さきほどのヘロヘロ具合が嘘のように元気よく隣人は立ち上がった。ココア缶を飲み干してゴミ箱に放り投げ、俺に一礼。
 腰まで折っての深いおじぎは、こいつのくせなんだろう。どんなときでも、直角に曲げて3秒経ってから顔をあげるのは。

「おやすみなさい三沢さん、いい夢を」

 花が咲くような笑みを残して、隣人はアパートの階段を駆けていく。
 ひっつめ髪のしっぽが揺れる背中を眺めながら煙ごと溜め息を吐いて、吸いかけのタバコを灰皿に押し潰した。
 いい夢を――。いい夢。
 単なる別れの文句のそれが、いやに胸に刺さる。それでも、気持ちは先ほどよりも楽になっただろうか。忘れていた淀みがまた押し寄せてきていた。





2015/05/31:久遠晶