今のところは問題なし



 なんかこう、色々まずいなぁ、と思う。
 夕方バイトに出勤する為家を出ると、ちょうどアパートの階段を誰かがあがる音がする。規則正しくて軽い音。三沢さんの足音。
 通路の角から顔を出した三沢さんに、自然と顔がほころんだ。
 ──ああ、まずいなぁ。本当に。

「おはようございます、三沢さん」
「……おはよう」

 この時間ならこんばんはだろう、と思いながらであろうご挨拶。もう諦めたらしい。

「なんかいいことでもあった?」
「え?」
「ニヤニヤしてる」

 言い当てられ、思わず吹き出してしまった。ニヤニヤしてるなんてひどいです、と言うと、本当のことだ、とつれないコメント。

「三沢さんに会えたから」

 私が言うと、三沢さんは面食らう。それからニヤッと笑って、

「へえ、嬉しいこと言ってくれるじゃないの」

 と言った。私は苦笑して弁解する。

「あんまり人と喋ってないと、喋り方忘れそうになるので。深夜勤務だとお客さんこないですし」
「あぁ。少しわかるかも」

 合点が言ったような顔。

「お前友達いなさそうだもんな……と、大丈夫?」
「うん?」
「時間」
「ああ、早めに出てるんで大丈夫。でもそろそろ行きますね」
「引き止めて悪かったな」
「いえ、こちらこそ」

 会釈しながら通路を歩いて、階段の曲がり角で手を振った。三沢さんは自分の部屋に入りながら、ひらりと手を振り返してくれる。
 それだけで妙に浮き足立つのは何故だろう。
 わかりきっている。
 そう。
 ──色々まずいなぁ、ほんと。
 一回りぐらい歳上の人だ。しかも身持ちのかたい自衛官。バツイチ独身。世間体を考えれば、私など恋愛対象にはならないだろう。
 だから、お隣さんの立ち位置から出るつもりはないけれど、日々の交流にささやかな幸せを感じるぐらいは許されるだろう。
 色々まずいなぁと自覚できているうちは問題がない、はずだ。
 ……たぶん。



   ***


 色々まずい、と思う。
 悪夢にうなされて飛び起きる度、俺は俺が不安になる。
 滝のような汗がぐっしょりと布団と衣服に染みこんでいて、寝小便を垂れていないのが不思議なぐらいだ。
 訓練で限界以上に身体を追い込んだときよりもずっと強く心臓が鳴っている。内側から心臓に叩かれた胸がどくどく揺れているのが、しわの変化で視認できるほどに。
 耳鳴りがする。頭が痛い。喉が渇く。
 悪夢は見飽きたと言うのに、慣れる兆しがない。俺の身体は未知の現象に怯えきって、鳥肌を立てて震えている。
 窓の外は白んでいる。時計を確認してうんざりするが、二度寝が出来る気分じゃなかった。
 シャワーを浴びて、朝メシを食うとして……出勤までの時間つぶしがめんどうだ、と考えてから、隣人の顔が浮かんだ。
 この時間なら……あいつが帰ってくる時間に、ちょうどいい。

 熱いお湯でシャワーを浴びて一息ついて、すこしゆっくり朝食を摂る。
 いつもの出勤の時間には早いが、うん。ちょうどいい。
 ややあって、アパートの階段をのぼる足音が聞こえてくる。早朝だから、かなり気を遣って音を立てないようにしているのがわかる。
 タイミングを見計らって扉を開ける。


「あ、こんばんは。三沢さん」
「おはよう」

 案の定、ちょうどバイト帰りの隣人と出くわした。
 眠たげな目が俺を見て嬉しそうに笑う。その表情に、泣きたくなるほど安心する。
 今いる場所がいつもの日常で現実なのだという実感を、隣人ののほほんとした笑顔は連れてきてくれるのだ。

「こんな朝から、自衛官さんは大変ですね」
「夜中に仕事してるのも大変だろ」
「いやあ、あんまり人来ないんで、三沢さんに比べれば楽なものですよ」
「自衛隊もきついってわけじゃないぞ。訓練以外は」
「それ、八割きつくないですか?」
「休みは取りやすい」
「でも三沢さんは休み取りそうなタイプじゃなさそう」

 隣人はふっと笑った。言い当てられ、俺も苦笑する。
 この何気ないやりとりが、ひどく嬉しい。
 朝と夕方、互いの出勤時間が真逆だからこそ起きるほんのすこしの会話。それが俺の、ささやかな癒やしになっていることは違いなかった。
 ふと、隣人の顔をじっと覗き込む。うっすらクマが見えて不健康そうだった表情は、最近血色よくなっている。

「なにか、ついてます?」
「いや、別に……。最近雰囲気が変わったから」

 もっと言えば、きれいになった。しかしそれを言うと妙な意味が入り込んでしまいそうで、俺は表現をぼかした。

「そうかな。最近彼氏できたからそのせいですかね」
「は?」

 ドアノブに鍵を差し込みながらの言葉。解錠のがちゃんという音が、いやに重たく響いた。
 俺がなにも言えなくなっていると、隣人が苦笑する。

「冗談ですよ。彼氏いるように見えます?」
「いや……。まあ、いてもおかしくはないと思うが」

 そういえば前に男に言い寄られてるのを助けたことがあった。押しが弱そうなタイプだし、メシもうまい。

「恋人は引き続きいませんよ。まあほしいとも思わないんで……」
「じゃ、雰囲気変わったのは単にイメチェンか」
「スキンケアまじめにやるようになったかなー」
「顔色がいい」
「それは化粧ですね……」
「あー」
「あとはまあ、最近ちゃんとご飯食べてるので」

 隣人が扉を開ける。
 名残惜しいが、これで隣人とのひとときはおしまいだ。

「じゃ、私はここで」
「おう。お疲れさん」
「おやすみなさい」

 ヘニャリとした笑みを向けて、俺に手を振る。
 バタンと扉が閉まる様子を最後まで見届けた俺は、深い息をした。
 夢から目覚めたばかりで張り詰めていた心からすこし気が抜けていくのがわかる。
 しかし、これから出勤なのだ。気を抜けたままではいられない。俺は気を取り直して、基地への道を歩きはじめた。

 ――色々まずい、と思う。

 このままだと日常生活に支障が出るのも時間の問題だ。
 立ちゆかなくなる未来から目を背けて、隣人の笑顔で気が抜けている今のところはまだ問題がない、ということにした。
 ついでに彼氏がいなくてよかった、と思っている自分からも目を背けた。






2019/06/09:久遠晶
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