勘違いさせないで
ゆだるような暑さで目を覚ました。
まとわりつく夏の熱気にうんざりする。タオルケットを蹴っ飛ばして首を横に傾けると、目覚まし時計は朝の八時を指していた。そういえば今日は燃えるゴミの日だ。
エアコンの壊れた室内は二度寝なんてできない暑さだ。ゴミ袋が溜まりに溜まった玄関もゴミ出しのおサボりを許してくれない状態だ。
大きくため息を吐いて起きあがる。三角巾で吊っている右腕を刺激しないように立ち上って、よろよろと玄関まで歩いた。
パンパンに詰まったゴミ袋たちを片手でむりやり持つ。普段ならなんてことはない重さだけど、右腕が使えないとなると結構大変だ。かと言って何周もゴミ置き場を行き来することは避けたい。
多少むりしてでも、一度に済ませたほうがいい。
玄関のカギを開けて外に出る。
夏真っ盛りとは言え、朝はまだ気温が低い。締め切った部屋よりは心地よく、私は深く深呼吸をした。街路樹の緑の匂いが胸に広がる。
四季のなかでは、夏が一番好きだ。
どんな体験を経ても、芽吹きたての植物の匂いと色は心地よいと思う。八月がどれだけ嫌いになっても、この匂いを嫌いになることはないと思う。
くああ、とあくびが出て、思考が途切れた。
ゴミ出しから帰ったら二度寝しよ、二度寝。
玄関の前でぼーっとしていた私は、テーピングの巻かれた左足を引きずって階段の前で立ちつくした。
おんぼろアパートの階段は傾斜が急で、ぼろっちい。ただでさえ結構危ないのに、怪我した右腕とねん挫した左足で、大きなゴミ袋を持って降りるのは恐怖以外のなにものでもない。
……ここ、すべったら痛いだろうなぁ。
もし滑ったら、怪我してない左手で地面につかないといけないんだろうか。左手まで捻挫や骨折なんてことになったら、どうしよう。
やっぱり帰ろうかな。どうしようかな。
悩んでみたものの、いい加減にゴミを出さなければ異臭が発生してしまうだろう。コバエとお友達になるのは避けたい。
ため息をついて、深呼吸して、私は一歩踏み出そうとし、
「おい」
「わぁっ!?」
「あっぶねぇな」
背後からの声に身体が跳ねて足がすべりそうになってしまう。落ちかけた私の首根っこを掴んで支えてくれたのは三沢さんだった。
「あ、ありがとうございます」
元はと言えば三沢さんのせいで落ちそうになったんだけども。
私がバランスを持ちなおしたことを確認してから、三沢さんは私の服から手を離す。
「三沢さん、びっくりさせないでくださいよ」
「悪かったな」
三沢さんは眉根を寄せて私を見つめた。手に持つゴミ袋を見て、渋い顔をする。
「持ってくのか、それ」
「ええ、まあ。そろそろゴミ出しさぼれないんで」
「持ってく。これだけか」
「わっ」
手の中のゴミ袋をかすめ取られる。
私は「いいですよ、そんな」と言おうとして、三沢さんがこれでもかと言わんばかりに睨んでいることに気付いて口を閉じる。
私のゴミを持って行くことは三沢さんのなかで決定事項なのだろう。この人の決定事項を覆すことは大変だ。やため息をついて頭を下げた。
「すみませんが、お願いします」
「おう」
三沢さんは小さく頷くと、私の荷物を持ってすたすたと階段を下りて行く。
とんとんとんとんとん。いつもと同じ、素早くて軽快なリズムだ。
三沢さんの背中は広い。三沢さんの背後に付き従うと、大きな背中しか見えなくなることを私は知っている。安定感があって、大きくて、私を背負って何キロも歩き続けられるほど強健なのだと――知っている。
ゴミ捨て場にゴミを置いて、三沢さんはすぐに戻ってくる。早い。
冷静な瞳が私を見つめながら、階段を上がってくる。怪異を前にしても動じない瞳が、幻を目にした時だけは大きく動揺して震えたことを――そんなことばかり知っている。
「まだ居たのか」
「そりゃ、まあ」
「怪我の調子はどうだ」
「おかげさまで。……っていうと嫌味になりますか?」
「……さあな」
三沢さんは呆れたように目をつむって、ぼりぼりと坊主頭を掻いた。
三角巾に吊られた私の腕に視線を落とし、眉をしかめる。
「その腕でメシ作れんのか? つうか、メシ食ってんのかお前」
「お湯を沸かすぐらいはできますから。レトルトだけど食べてます」
だろうな、という呟きが吐息と共に吐きだされた。私は気まずくなって目を逸らした。
怪我の状態やそれによる支障を知られたくない。この人には。この人にだけは。
「なんか……メシ。目玉焼きぐれーなら作るけど、食うか?」
「やー、そんなわけには」
「一人分も二人分も同じだ。待ってろ」
「でも、悪いですよ」
「当然の話だ」
「永井くんになら喜んで世話されるんですけどねぇ」
私は苦笑した。
三沢さんからすれば、この状況の私を放っておけるわけがない。それはよくわかる。よくわかるけど……だからこそイヤだ。
「その怪我は俺の責任だ」
「三沢さんに撃たれたわけじゃありません」
「俺をかばった怪我だろうが」
「自分の意思でやりました。あなたが責任感じる必要ないんですよ」
「強情な野郎だ」
三沢さんがかすかに苛立つのがわかった。
八月二日に起きた、夜見島での恐怖の夜。
最近流行りの『自分探しの旅』ってやつの途中に私はそれに巻き込まれ、夜見島に不時着していた三沢さんとその部下・永井くんに出会った。
動きだす屍、襲ってくる島人――右往左往していた私に三沢さんの存在はまさに天使のような救いだった。この人に会えたからもう大丈夫、とは到底思えない状況だったけど、非常時の見知った人間と言うのはなんと心強かったことか。
三沢さんに付き従って夜見島を探索していく中、三沢さんはある女の子を見つけ、そして尋問した。
『あの女よりも生臭い』
当時はなんて理不尽な理由だと思ったけれど、いま振り返れば正しい判断だった。彼女は――人間ではなかったのだから。
でもそんなこと私や永井くんにはわからなくて、永井くんは女の子を守るために三沢さんを撃った。
それをかばった私の右肩には風穴があいて、まあ……ごらんのあり様だ。
包帯でぐるぐる巻きの腕は、しばらくはまともに動いてはくれないだろう。
でもこれは三沢さんのせいではなくって、きっと永井くんのせいでもない。
だから私は、三沢さんのありがたい申し出を断る。
「私が生きてここにいるのは、三沢さんや永井くんのおかげです。だからそれでいいです――あたっ」
「人がせっかくメシ作ってやるって言ってんだ。お前のその状態、無関係でも口出してたよ」
眉間に鋭いデコピンを思いきり打ち込まれる。痛さに悶絶している間に、三沢さんは自分の部屋に引っ込んでしまう。言い返し、止める暇もない。
なにも言われなかったけれど、家で待ってろってことなんだろうな。
三沢さんの決定事項は覆せない。夜見島で痛感したことだ。
見えもしない誰かの視界を頼りに、アパートで泣いている女の子を助けると言ってずんずんと進んで行った三沢さん。
女子学生を生臭いと言って、問答無用で尋問を開始した三沢さん。
永井くんの銃に撃たれた私を民家に置いて、そばにいてほしかったのに包帯を探してどこかに行ってしまった三沢さん。あの時は永井くんと二人きりになってしまってとても気まずかった。
……こうして振り返ると三沢さんの言動はなんだかとっても『アレ』だ。いきなり虚空に向かって永井くんに遊びましょうコールをした時には、狂ってしまったのかと不安になったものだ。
でも私が疲れて歩けなくなった時には体力が回復するまで待ってくれたし、私の安全を最優先に動いてくれた。
だからまあ、今回も『そういうこと』だ。
これは三沢さんの優しさだ。
ため息をついて部屋に引っ込むと、しばらくして扉がドンドンと叩かれた。
「俺だ」
「お待ちを」
こんな身体では立ちあがって扉を開けるのも一苦労だ。
私が顔を出すなり、三沢さんは嫌そうに一歩飛びのいた。
「あっつっ」
「エアコン壊れてるんですよ。あぁん、外の方が涼しい……」
「……俺んちでメシ、食うか? 」
手の中の皿に視線を落とした三沢さんが、同情ぎみにそう言う。
一も二もなく頷く。抵抗がないわけではなかったけども、暑さは根をあげさせる。
「散らかってるけど、悪いな」
「いやー私の方が全然」
床に落ちている雑誌類をかたずけながら三沢さんが言う。
促され、サンダルを脱いでお邪魔する。
使い古された座布団を指差し、座れ、と命じられる。ぺたんこになった座布団のかたさは嫌いではなかった。
三沢さんの部屋は全体的に質素で家具が少ない。でも流しにはカップラーメンの容器が積みあがっていて、どういう生活をしているかは一目瞭然だった。
「三沢さんは私の食生活をとやかく言える人かなぁ……」
「……怪我人はきっちり栄養とんなきゃいけねぇんだよ」
「そーですよね。すみません、わざわざご飯まで作ってもらっちゃって」
「お前には世話になってるからな……」
三沢さんはそう言い、照れたように鼻を鳴らした。作りすぎたおかずを度々食べてもらっていたけれど、この分では喜んでくれていたんだろうな。
ちゃぶ台の前に座って、三沢さんの作ったご飯に向かう。両手をあわせることはできないから、片手だけで『いただきます』をした。
目玉焼きと味噌汁に納豆という、模範的な日本人の朝食だ。
三沢さんは私にフォークを寄越した。利き腕じゃない手で箸が使えないから、気を使ってくれたらしい。ありがたくフォークを使って、目玉焼きを強引に切り分ける。
しかしうまくいかない。
「……。ちょっと待て、さきに切ってやるから……」
「すみません。本当、助かります」
三沢さんが腰を浮かして、箸で目玉焼きをぶっすりと切り割いた。食べやすいサイズまで細かく分けてくる。あっ、黄身まで両断されてしまった。黄身は一口に食べたかったのに。仕方ない。
「これでいいか?」
「ありがとうございます」
「それとも俺が口元まで持って行ったほうがいいか」
三沢さんが、目玉焼きを掴んだ箸を私の口元に突きつけた。
ちょ、ちょ、これは。
三沢さんにはなんの意図もないんだろうけど、これは流石に恥ずかしい。
「恥ずかしいんで」
「誰も見てないだろ」
そういう問題じゃありません! ……と叫べたらどんなにいいか。
こちらを睨みつけるようなしかめっ面のまま、三沢さんは「ん」と顎をしゃくって私を催促する。
フォークとはいえ左手で扱うのは大変だから、心遣いはとてもありがたいのだけど。
これも三沢さんの決定事項なんだろうなぁ。
ため息を飲みこんで、私はきゅっと目をつむった。口を開いて目の前の箸にぱくつく。
固い白身とコショウの味が口に広がる。咀嚼していると、
「ほれ」
今度はご飯が差しだされた。
根負けしてまた口を開く。ありがたいのにはかわりがないんだから、素直に受け取ろう。ものすごく恥ずかしいけど。
最初向かいあって座ったはずの三沢さんは、いつのまにか私の隣に座っている。
自分の食事を中断して私におかずを差し出しているのだ。
まだ口に物が残っているので首を振ると、「いいから食え。すこしは食って太れ」などと言ってくる。お腹一杯って意味じゃないんだ。
急いで噛んで飲み込んで、麦茶をもらう。
「三沢さんっおねがいですから噛み終えるまで待ってください。全部食べますから~」
「そういうことか」
「そうです。三沢さんも食べてください、冷めちゃいますよ」
「ム……」
三沢さんは気まずげに自分の食器を見つめた。
それから食器を引きずって自分の目の前まで移動させる。
あくまで私を優先して、片手間に自分のご飯を食べる気らしい。
三沢さんはぶっきらぼうだけど、冷たい人じゃない。
本当はすごく面倒見のいい人……だと思う。
ただそれが、傍目からは致命的に分かりにくいだけで。
偶然を装って助けたり相手からは見えない位置で見守ったりするばかりで、心配を言葉で表現できないだけなんだろう。
そう言えば、永井くんは「必ず助ける」とか「もう安心だよ」と私を励ましてくれたけれど、三沢さんはそれらしき暖かい言葉は一切言わなかった。ただ目の前の怪異を睨みつけ、銃を抱えていただけだ。
そういうところでも永井くんは三沢さんに不満があったのかもしれない。
……まあ、あの場では私も三沢さんに不信感を抱いたし。永井くんが三沢さんのもとを離れたのも仕方がないと思う。
「……どうした?」
「いえ。三沢さんはとても優しい人だなって」
「お前はいつもそれだな……」
「永井くんとは、その後どうですか」
「まあ、ボチボチだな」
そうですか、という言葉は麦茶に溶けて消えた。二人の仲を心配していい立場ではないのだ、私は。
三沢さんにご飯を食べさせてもらっていると、なんだか自分が鳥のヒナになったような気がする。だとすると三沢さんはイカつい親鳥か。
三沢さんが鳥ならハゲタカですかね――というのはすさまじく失礼なので飲み込んだ。いや、でも三沢さんは剃って坊主にしているだけであるからして、ハゲネタも受け入れてくれるんだろうか? 案外笑ってくれたりして。
「こうしてるとお前カマキリみたいだな」
「ぬぐっ!?」
突然の言葉に驚く。か、カマキリ?
「虫に餌やってるみたいだ」
「せめて小動物にしてください」
果たしてカマキリ扱いとハゲタカ扱い、どっちが失礼なんだろうか。
カマキリと言われると食べづらい。三沢さんは素知らぬそぶりで「気にするな」と言い、変わらずご飯を運んでくれる。
「でもカマキリってかわいいですよね、くりくりおめめが見つめてきて」
「そうだな、そう言えばガキのころ……」
三沢さんは子供時代も、坊主頭だったんだろうか。下らないことを聞きながら、話に相槌を打つ。
三沢さんが語るところによると、親に怒られた三沢少年は家を飛び出して河川敷で泣いたことがあったらしい。三角座りをして涙をぬぐっていると、足元にカマキリがやってきた。
おおきな目でこちらをくりくりと見上げるカマキリになんだか励まされたような気分になる三沢さん。
二人の間には穏やかな時が流れ、カマキリを手にのせた少年はいつしかにっこり笑っていた――。
三沢さんが多弁になることは珍しく、過去なんてはじめて聞く。私はふんふんと話に耳を傾け、聞き入ってしまう。
「素敵な話ですね」
「まぁ、後々カマキリがこっちを見てくるのは光の加減でそうなるって知ったんだが……」
「あら、勘違いだったんですね」
「知ったときにはちょっとがっくり……おっと、しょうもねぇ話しちまったな」
「いえ、三沢さんのことをもっと好きになりました」
にっこり笑うと、三沢さんの動きが止まる。来ると思ったところにご飯が運ばれなくて、私の歯は空気をかんだ。
驚く三沢さんに首をかしげてから、恥ずかしいことを言ったと気づく。
「え、えぇと……り、隣人として……年上のみっ三沢さんの幼少時代があったかと思いますとなんだか親近感が……そのっ」
「はずかしがんなら喋んな、お前」
しどろもどろになって言い訳をしていると、黙れと言わんばかりにおかずを唇に押し付けられる。そのままぐいぐいと押されるものだから、口回りに卵焼きの黄身がすりつけられるような状態になる。
一旦のけぞって逃げて、口を開けるとなかにねじ込まれた。
喉奥まで押し込まれそうな勢いにすこしだけ怖くなる。もちろん、箸の動きは口のなかにおかずを詰め込んだと思うと、それだけで抜けていく。
「さっさと食え」
「す、みません」
「お前はいったいなんなんだ……」
口をモゴモゴさせながら謝るとあきれたような呟き。
三沢さんは不機嫌そうに麦茶を飲むけれど、こちらに向けられた耳が微かにうっすら赤くなっている。
言った本人が照れたんだから、そりゃあ言われた方はさぞかし恥ずかしいことだろう。いたたまれなくなって、私も麦茶をいただく。
ややあってご飯を完食し、「ごちそうさまです」と三沢さんに頭を下げる。三沢さんは「おう」と言い、空になった食器をもって立ち上がる。
「あっ、皿洗いぐらいなら――……お願いします、すみません」
「そうしとけ。片手で割られちゃかなわん」
動かない右腕が申し訳ない。もっとも、三沢さんにとってはこの状況こそが申し訳ないのだろうけど。
皿洗いをし始める三沢さんの、おおきな背中をぼんやり見つめる。同じアパートなんだから台所の間取りも同じはずなのに、三沢さんが使うとどうしてこうも窮屈そうに見えるのか。狭い台所が余計に狭く見える。
薄いシャツに浮き出る鍛え上げられた筋肉に感心してしまう。
今まで、何人もの人を救い上げてきた人の身体だ。夜見島の時、私を守ってくださった方の身体でもある。
つくづく私とは住む世界が違う。敬って頭を下げるべき人であって、こんな風に私の世話をさせていい人じゃないのだ。
「なにじろじろ見てる」
「はいっ!?」
凝視していたことを言い当てられてぎょっとする。後ろに目がついているのか、自衛官は気配に敏感なのか――と思ってから、台所の小窓にわたしの顔が映り込んでいるだけだった。
「すみません、筋肉すごいなって。失礼でしたね」
「まあ、鍛えてるからな」
「ほれぼれします」
「あとで触るか」
「えっ、いいんですか」
「別に減るもんじゃない」
なんてことないように三沢さんは言い、食器をわしゃわしゃと泡まみれにしている。
さわらせてもらってもいいのかな……。なんか、悪い気がする。でも三沢さんから言い出してくれたのだから、構わないということか。
お腹が一杯になると、なんだか眠くなってくる。クーラーの効いた室内が睡眠欲を高める。
クーラーが壊れた私の部屋の寝付きは最悪で、最近ろくに寝れていないのだ。
「すみません、私眠くなってきたんで、」
「ああ、寝ていいぞ。向こうじゃ暑いだろ」
「いやっでも」
それはさすがにちょっと……などと言いながら、私の身体は完全に三沢さんの部屋のクーラーに屈服していた。
「でも夕飯の買い出しもしなきゃ……」
「必要なもん書いてくれれば代わりにいく。つうか、今日の飯は気にすんな。寝てろ」
「いやっそこまでお世話になるわけには……」
口では抵抗しながら、私の身体はずるずると床に倒れ込んだ。三沢さんの気遣いが毒のように身体を侵蝕していく。
三沢さんが責任を感じているのだから、気が済むまでお世話された方が三沢さんのためなんじゃないか。私はそんな言い訳で三沢さんに寄りかかろうとしている。
あの、広い背中に。
「……五分だけ寝かせてください。そしたらすぐ出てくので」
「気にすんな、って言ってんだろーが」
「でも」
「っとに強情だなお前は」
「三沢さん、なんでそんな……」
床の冷たさが気持ちいい。重たくなるまぶたに力を入れて、台所に立つ三沢さんを見つめる。
「私によくしてくれるの」
「……」
三沢さんは唇を引き結んで黙り込んだ。静けさが満ちて、いよいよ眠くなる。
寝てしまう前に答えを聞きたかった。
「お前はどうなんだ」
「え?」
「どうしてそんなに恐縮して嫌がるんだよ」
「それは……」
目をそらして言いよどんだ。
口のなかに苦々しいものが広がっていく。
「お隣さんにここまでしていただくわけにはいきません。でもお言葉に甘えてちょっとだけ寝ますね」
「おい……」
「おやすみなさい」
下らない言葉でごまかして、頭の下に腕を敷く。三沢さんは不満げな声をもらしたけれど、本格的に寝に入るとわかったのだろう、追及されることはなかった。
ため息が聞こえて、申し訳なくなる。
三沢さんはきっと呆れて、苛立ってもいることだろう。
でも、気遣いを簡単に受けとるわけにはいかなかった。
三沢さんにとって私は単なる隣人で――夜見島で救護した一般市民に過ぎない。
私にとっては命の恩人でも、三沢さんにとっては数ある救護者のひとりだ。
助けた人間に好意を寄せられることなんて、きっと多々あったことだろう。
助けてもらったときの安堵を恋心と取り違えている自覚はある。
だからそれ以上の錯覚はさせないでほしい。
三沢さんの責任感と優しさを好意だと錯覚する前に、適切な距離を保ちたかった。
誰かに観測されない限りは実在しないでいられる恋心が口からはみ出す前に、存在してしまう前に――すべて諦めて消し潰したかった。
よどんだ感情が、睡眠を要求する肉体に無理矢理途切れていく。それでいい。
肩にかかったタオルケットに礼を言うこともかなわず、私は眠りの底に落ちていった。
2014/10/16:久遠晶
『深夜の夢書き60分勝負』で、お題は『好きと伝える五秒前』。
五秒前は永遠に来ないレクイエム。