そばに立つ幸せ

 それはこみ合う電車内でのことだった。カーブに差し掛かった車体が横に揺れ、隣に立った女が軽くふらつく。転びかけた身体に、三沢は半ば反射的に手を伸ばす。

「あぶないぞ」
「きゃっ」

 腰を手を回して引き寄せると、女は小さな悲鳴を上げた。慌てた瞳が上を向き、驚いたように三沢を見つめる。
 今までの三沢なら、密着していると気づいた瞬間に身を離していただろう。しかしふたりの関係は今までとは違っていた。緩やかに、しかし確実に。
 三沢は女の腰を片手で押さえ込んだまま目を細めた。それは呆れだったが、笑みには違いない。親しい人間にしかわからない変化だったとしても。

「いい加減慣れろよ」
「ぅ……だって、びっくりして」
「うん」
「……」
「また揺れると危ないだろ」

 手を離してほしい、といいたげな視線を、そんな口実で黙殺する。
 休日のふたりは私服姿だ。あどけなさが残る年若い女性と、かたや顔つきの悪い大柄の男。取り合わせの珍しさは注目を呼んだ。
 乗客にさりげなく意識されていることに気づいた三沢は座りが悪い。気まずくなって、腰をつかんでいた手をすこしだけ緩める。
 肩ではなく腰を抱いたのはそれが許される間柄だったからだが、他人にはわかるよしもない。なにより模範となるべき自衛官が公衆でいちゃついていては仕方がない。

 アパートの隣人と交際に至ったのはここ数ヵ月の話だ。彼女との関係は通常の恋愛とはすこし特殊で、15も年下の女性に手を出すことに抵抗は未だある。ずいぶんとプラトニックな付き合いをしているもんだと、三沢は苦笑すらしたくなる思いだ。

 不意に電車が大きく揺れた。腰をきゅっとつかんで、ふらつく隣人を支える。

「大丈夫か」
「三沢さんって……バランス感覚いいんですね」

 日頃の訓練の賜物か、三沢は電車程度の揺れなどびくともしない。むしろこの程度のことで倒れそうになる隣人の方が不思議だ。
 駅が停車し、ホームから人がどっと入り込んでくる。
 乗客に押されるようにしながら、隣人を閉じたドアと手すりの三角地帯に押し込む。ドアと手すりに両手をついて、そのまま隣人を腕のなかに閉じ込めた。

「三沢さん、つらくない?」
「いや」

 三沢は短く首を振る。背中に人の腕が当たっているものの、強く圧迫されているわけではない。

「あ、ありがとうございます」
「いいよ」

 頬を染める隣人を間近で見れるのは役得だった。惜しむらくは、見下ろす三沢は隣人がうつむくとつむじしか見えなくなることか。
 甘い匂いが鼻腔をくすぐる。身を寄せてやっとほのかなに香るその匂いに、隣人との距離を自覚する。ため息をついて車窓の外に視線を移した。
 不可抗力の距離を恥じらう気持ちがあることに三沢自身驚いた。

 移り行く街並みの先で、太陽が沈もうとしている。赤と青が混じりあう空の間に雲が黄金に浮かび上がる。
 三沢の背筋が寒くなった。足元から肩まで立ち上った震えは、果たして電車の揺れで誤魔化せるものだったのか。

「三沢さん……?」

 訝しげな呼び掛けを無視して、三沢は空をねめつける。
 暖かな光はしかし三沢の脳を刺すように刺激する。ふつふつと腕に鳥肌が立ち、心臓がぎゅっとこわばる。
 赤く染まる夕焼けを見ると、不安になる。
 雲の切れ間から、鏡写しの地上が覗きやしないかと。
 乗客が目から赤い血を垂れ流し、こちらに飛びかかっては来ないかと。
 すぐそばのぬくもりが消えやしないかと――いつも三沢は不安になるのだ。

「三沢さん」
「っ………どうした」

 服の袖を引っ張られ、三沢は反射的にびくついた。肩がこわばり、平静を装った返事もぎこちない。
 穏やかな笑みが夕焼けに照らされ、三沢に向けられている。

「夕飯、なにがいいですか」
「……じゃあ、里芋の煮物」
「んじゃ、食材買って帰りましょうか」
「オウ」

 たわいのない会話は波打つ三沢の心を静かに落ち着かせた。
 内容は恋人同士と言うよりは所帯染みている。やはり三沢と隣人の関係は特殊だ。通常の恋愛ではない。


 仕事以外の空いた時間に互いの家に入り浸る男女。それを外から見たとき、もっとも違和感のないラベルが『恋人同士』だっただけだ。近所の目を気にして自重するのではなく、ラベルを貼って二人で居る正当性を求めるぐらいには、互いになくてはならない存在だった。
 互いに『間違ってない』と言ってくれる相手を――欲していた。
 同じ一夜を体験した相手がそばにいなければ、取り戻した日常のなかで頭が壊れてしまいそうだったから。

 降車してホームに降りたときに夕焼けが差し込み、隣人の髪を赤茶に染めて輝かせた。
 駅を出て帰り道を歩きながら、どちらともなく指先を伸ばして触れ合わせる。
 幻でも悪夢でもない、確かなものを求めて身を寄せあった。

「お前さ」
「はい」
「腰抱くのは照れんのに、これはいいのか」
「……だって、これは、三沢さんがつないできたんじゃないですか」

 拗ねるような恥じらうような声を出す間も、繋いだ手はしっかりと三沢の手を掴んでいた。
 茶化しながら、三沢はこれが現実なのだと実感する。
 取り戻した日常。繰り返していく平凡。それが確かなものだと思える日はまだ遠いが、三沢の心は落ち着いている。
 ひとつに繋がって伸びるふたりの影を見つめながら、三沢は細く小さな手を握りしめた。





2015/05/31:久遠晶