レッテルの名前



 この関係に意味があるのかと言われたら、たぶん大した意味はないのだと思う。
 ――こんな関係、もうやめましょうよ。恋人でもないのに、やっぱりおかしいです。
 そう言ったのが私で、三沢さんは大して動じもせずに
 ――じゃあ付き合うか。
 色褪せた壁紙を眺めながら、なんでもないことのようにそうつぶやいた。
 私は意味がわからず『はぁ』と曖昧に相槌をうち、『じゃあそういうことで』と言う三沢さんになにがそういうことなんだろうかと思った。

 私と三沢さんは、同じアパートに住む単なる隣人だ。
 それ以上でも以下でもない。
 夜見島で遭難し、同じ悪夢を体験するまでは――そうだった。
 本土に無事帰還したあとも、あの夜の体験は精神を蝕む。自分の頭がおかしくなったのではないかと、本当に夢だったのではないかと発狂しそうになる夜を、私たちは互いに慰めあった。あれは現実だったと言い聞かせあって、なんとか崩れないで済んでいるのだ。
 一人の夜が恐くてそばにいてくれることを望んだ。でも、それは端から見れば異常だ。だから離れようとした――。

 そうしたら関係の名前が『恋人』になった。ラベルを貼っただけの、つまらない変化だ。

「いい加減、三沢さんから一人立ちしなさいよ」

 ご近所のおばさんが訳知り顔で言う。
 好奇心に駈られて夜見島に遊びに行き、勝手に遭難した自業自得の女と思っているのだ。
 夜見島に向かった私なりの理由なんて、知ろうともしない。当然だと思う。
 私は右手をぴくぴくさせながら曖昧に笑う。右手が動くと、腕の付け根にピリリとした軽い痛みが走った。

「遭難したのを助けていただいて、帰ったあとも頼るなんて……」
「あはは……そうですよね、やっぱり」

 たまたま輸送機ヘリのトラブルで不時着していた三沢さんに助けてもらった。帰ったあとも、おんぶにだっこ。
 と、こっちではそいうことになっている。
 端から見ればわたしはなんてひどい女だろう。三角巾でつり上げていた右腕の怪我の内訳を、御近所は知らない。公表しない約束だからそれは仕方ないけれど。

「おはようございます」
「あら、三沢さんおはよう」

 御近所は三沢さんを見て嬉しそうに笑った。以前はあんなに怖がっていたのに現金なものだ。
 三沢さんは角度のいいお辞儀をして御近所に挨拶を返す。

「三沢さん、おはようございます」
「おう」

 わたしが言うと三沢さんはうんと頷いた。眉間のシワがわずかに濃くなった――と気づいた瞬間、手に下げたごみ袋がかすめ取られる。

「あっ! み、三沢さん!」
「お前には重たいだろ。腕の包帯外れたと言ってもさ」

 私からごみ袋を取り上げた三沢さんは、すたすたとごみ置き場まで歩いていってしまう。
 ただでさえあんなことを言われたあとなのだ。パシらせていると思われるのは勘弁だ。

「自分で行けますって」
「別にたいした距離じゃない」
「なら持ってくれなくても」

 慌てて追いかけるものの、もう三沢さんはごみ置き場にごみ袋を置いたところだった。仕方なく礼を言い、二人でアパートまで戻る。
 御近所はアパートの階段下で、私たちのやり取りを眺めていた。

「あんまり三沢さんに甘えちゃダメよ」
「そうしたいんですけど」
「こいつの怪我、俺の責任なんで」
「まあ、三沢さんたら」

 御近所が感激したように三沢さんを見る。確かに、よほど感動的で職務に忠実な台詞だ。
 でも、実際は違う。守りきれなかったと悔いる三沢さんは正しいようで間違っている。
 御近所と別れ、階段を上ってそれぞれの部屋の前に立つ。アパートの廊下には誰もいないことを確認してから口を開いた。

「『俺の責任』なんてどのくちがいうんですか」
「……部下の責任は上司の責任だろ」
「そのセリフ永井くんが聞いたら泣きますよ、いろんな意味で」

 三沢さんを狙った弾丸が、私の腕を貫いた。
 誤射だったとはいえ、永井くんは三沢さんにも私にも並々ならぬ思いを抱いているはずだ。
 その相手に――殺していたかもしれない相手に――そんなことを言われてしまえば。永井くんは平静ではいられないはずだ。よくも悪くも。
 三沢さんは呆れたようにため息をついて、私を睨んだ。

「ていうか、何度この会話させる気だよ」
「納得できないことではあるので――お世話させるの、忍びないです」
「そういうのをなくすために『付き合ってる』んだろ」

 唐突に出てきた単語に息がつまる。
 付き合ってる。やはり、三沢さんが私との関係に貼ったラベルは、そういう単語なのか。
 むっつりと顔をしかめる三沢さんから目線をそらした。
 三沢さんの、気遣いと言う名の使命感はありがたいものだ。罪悪感につけ込んで利用できれば、いっそ楽だ。
 でもそういう上下関係にはなりたくなかった。
 だからそのラベルは、周囲への説明と言うより自分達にたいする自己暗示だ。
 私はため息をついて三沢さんを見上げる。

「そうですね。そうでした。付き合ってましたね」
「投げやりな言い方だな……。お前、このあとメシどうする。適当に炒めものでいいか」
「や、はい、……わかりました」
「顔やつれてるから、ちゃん野菜とった方がいい」

 反射的に断り文句が出そうになり、飲み込んで礼を言う。
 付き合っているというラベルは適切に効果を発揮し、私はしぶしぶ三沢さんに身の回りのことを頼む。
 私は元々、他人が自分の領域に入ってくることを嫌う。干渉したくないしされたくない。
 夕飯の残り物を相互におすそわけし合えるような関係が最高にして最大の友愛だと思っている。
 私の部屋の台所で野菜を炒め、肉を投入し、冷蔵庫のなかみを確認する三沢さんは、確実に私だけの領域に踏み込んでいた。
 でも……どうしてかこれがあまり不愉快ではない。
 過剰なお世話だと居心地悪くなって、「三沢さんがやることじゃありません」と交代したくなるけれど、それだけだ。
 三沢さんがこの家にいること自体は……別に……まったく……。

 大きな背中が丸まってフライパンを操る。肉と野菜の焼ける小気味いい音と匂いを感じながら、シャツのしたの筋肉の動きを眺めていた。
 三沢さんは憮然とした顔で『失敗した』と言う。味付けが濃くなりすぎたと語る野菜炒めは、確かに味のバランスが崩れている。だけど、私はこれを美味しいと感じる。
 三沢さんがつくったものだから。
 誰かがわたしのために、つくってくれたものだから。
 胸を滑り落ちてお腹にたまるのは、真心のぬくもりだ。
 美味しいと――そう思う。
 胸が暖かくなると同時に、血流が増した為か右腕がピリピリした。

「怪我の調子は、どうだよ」

 食事を終えてひと心地ついていると、三沢さんが緊張気味に話しかけてきた。私は飲んでいたお茶を飲み込み、つとめて明るく返す。

「もう傷は塞がりましたよ。三角巾はつけてますけど、たぶん次の病院で外すんじゃないかと思います」
「そう」

 幾分か安心した声色。三沢さんの感情の変化に気づくと、なんでか嬉しくなる。

「痕は……」
「まぁ、残るでしょうね。もともと怪我のあと残る体質なんで」
「消したいなら……手術代は気にしなくて……」
「いいですって。見せる相手もいないですし、そんな怖い傷痕にもならないと思いますし」
「でも」
「いいの。なんなら傷痕見てみます? 結構ショボいですよ」

 三沢さんが目をぱちぱちさせる。悩みながらも、いいのかと言外に問う視線にうなずいて見せた。

「際どい位置にあるから、恥ずかしいけど」

 Tシャツの首もとを引っ張り肩を露出させて、傷痕をさらした。
 永井くんの弾丸は私の肩の付け根……脇の上を撃ち抜いた。心臓に程近く、太い血管が行き合うその箇所の銃弾は、本来なら出血多量で死ぬような怪我だったらしい。
 即座に緊急手術が必要な大怪我をして、でも私は丸一日以上応急手当のみで生き延び――今も生きている。
 それは、三沢さんと永井くんの適切な応急措置のおかげというのが一般的な見解だ。でも本当は……。
 あの赤い水のおかげだ、と私は思っている。

「痛くない?」

 三沢さんは丸く盛り上がる銃創になんとも言えない顔をした。いつも以上のしかめっ面は苦々しく、重苦しい。
 表面はふさがったとはいえ、中身は癒えていないのだろう銃創は肉の色が透けて赤い。
 触れられたときにチリッとえもいえぬ感覚が走った。やはり敏感になってる。でも痛い訳じゃない。
 腕の付け根ということは、同時に乳房の付け根でもある。胸元は隠しているとはいえ、露出した肩や脇、ブラジャーの紐をまじまじと見られるのは気恥ずかしい。三沢さんにその気はなくとも。

「後ろにも?」
「ええ、貫通してるので」

 身をよじって背中を見せると、三沢さんは表と裏の銃創にふれ、重たいため息を吐いてうめいた。

「痛かったろ」

 労るような、謝罪するようなニュアンスの言葉。三沢さんはねぎらうように私の身体に腕を回し、控えめにわたしをつつんだ。
 残暑の蒸し暑さに汗ばんだ三沢さんの体臭が、ふっと鼻先に迫ってきた。石鹸とまざって仄かにかおる匂いは不思議と不愉快じゃない。
 抱き締められて頭を撫でられ、ひどく安心してしまう。頭は距離の近さに驚いていると言うのに、なぜか身体から力が抜ける。

「別に……今は、そんな痛まないし」
「撃たれたときは痛かったでしょ」
「まぁ、そりゃあ」
「だよなぁ……」

 覆うような大きな手が背中を撫でる。
 ポンポンと優しく触れられると、いよいよ胸がどくどくと脈打ってしまう。
 三沢さんは「ごめん」とも「ありがとう」とも言わない。その言葉を言うべきは永井くんであって、三沢さんではないとわかっているのだと思う。
 でもやはり――私の怪我は三沢さんにとって他人事ではないのだ。

「三沢さん、腕……」
「……悪い、嫌だったよな」
「そうじゃなくて」

 腕を外そうとする三沢さんの手を掴んで引き留める。胸板に頬を擦り寄せると、酷く心がやすまる。
 迷子のなかで母親を見つけたような安心感。

「こうされるのはいいの。でも、もう肩しまっていいかなって」
「あ、うん……ごめんな」

 露出した肩を服のなかに戻す。三沢さんはまた私を抱き締めてくれた。
 悪夢をみてうろたえているときに抱き締めてもらったことは何度もある。逆に抱き締めたことも何度もあるけれど、シラフのときにこうされるのははじめてだ。
 こんな恥ずかしい行為を夜中にしていたのか……改めて突きつけられて、にわかにこの行為に抵抗が増す。離れなきゃと思うのに、安らいだ心は三沢さんを惜しんで身を委ねていた。
 この関係が『恋人』だとするなら、抱き締めるぐらいいいじゃないかと甘えている。

「安心する……」
「……俺は心配になるよ」
「うん?」
「こういうこと、男に気軽にさせんなよ」

 規則正しく肩を叩きながら、三沢さんは言う。この体勢が嫌なのかと考えたものの、背中に回された手は相変わらずだ。
 純粋に、私の貞操を心配しているらしい。

「誰彼構わず抱き締めるような女ではないつもりです」
「それならいいけど」

 三沢さんが喋るたびに、その振動で胸板伝いに耳まで震える。
 とくんとくんと聞こえるのは心臓の鼓動だ。
 誰かに抱き締められるのって、何年ぶりという気がする。
 急に恥ずかしくなって、身を離した。


   ***


 なにが起きたんだろう。
 腕を伸ばすと痛くて、棚の上のものが取れなくて苦戦していた。
 そうしたら、三沢さんが後ろからぐっと身を寄せてきた。
 そのことに驚いてびくついた瞬間、身体を支えていたつま先がすべった。
 きゃあっ。すっとんきょうな悲鳴をあげて、私は床に尻餅をついた。
 腰にきた衝撃に喘ぐ暇はなく、手足が動く。のけぞる背中に冷蔵庫が当たり、それ以上の後退ができない。
 縮こまって怯える私は、三沢さんにはどのように見えるのか。

「……悪かった。驚かせたな」
「や、大丈夫、大丈夫です、こちらこそびっくりしてすみません!」

 かわりに物を取ろうとしてくれていただけだったのに。
 はー。心臓がどきどきする。驚いた。

「腰、打ち付けてないか」
「へ、平気。平気ですっ」
「でも確認しないと」

 私のそばにしゃがみこみ、三沢さんは私の服を軽くめくろうとする。反射的に服の裾を掴んで真下に引いた。
 拒絶されても相手の怪我を気にするのは自衛官としての本能だろうか。普段は尊敬の対象である職務魂は、今は厄介でしかない。

「結構いい音してたし、痛いだろ。見せてみろって」
「いやいやいや結構きわどいとこだったし大丈夫ですほんとほんと」
「お前のパンツなんか見てもなんも感じないって」
「感じないからイヤなんです!!」

 予期せずでかい声が出た。叫んだことばを、三秒あとに認識する。やばい。私は、なんてことを。
 私があわてふためくにしたがって、三沢さんの頬の赤みが増していく。たぶん私はそれ以上に顔を赤くしているのだろう。目頭まで熱くなってきた。

「ちっちが……違いますから! へっ変な意味じゃないですから!!」
「い、いや、わかるけど……どうしたお前、なんかおかしいぞ」

 この期に及んでまだ私を心配する三沢さんの指が私の頬に触れた。
 太くて丸い指の側面が、私の体温を確かめるように上下に動く。
 思わず硬直する。息をつめると三沢さんの手は離れてくれ――たかに見えた。

「熱はないみたいだけど、顔赤いな」

 大きな手のひらがおでこに押しつけられる。眉をしかめながらの言葉の意味がしばらくわからない。
 本気で風邪を心配されていると気づくまでに時間がかかった。

「三沢さん、それ、素なの……?」
「え?」

 脱力して盛大な溜め息がもれる。好意に気づかないでくれたのは不幸か幸いか。
 どうだろう。言わないとわからないのかな。できれば勝手に察してほしかった。
 ぺたぺた頬を触る手に、もっとさわっていいと感じている。さわってほしいと、私もさわりたいと感じてしまっている。

「三沢さぁん」
「うん?」
「別れましょう。関係のラベルをはがしましょう。それがいいです」
「はぁ? ……なにか怒らせるようなことしたか。俺」

 三沢さんの眉がへしまがって口がぽかんと開く。分かりやすい困惑の表情だ。
 端的すぎて意図が伝わってない。
 一連の流れに怒ったからではなく、むしろその逆だと――腹をくくって伝えないといけないのだろうか。
 ため息をついて息を飲んだ。

「本気で好きになりそうなんで」

 言葉は意図せず、放り投げるようになった
 三沢さんはぽかんと口と目を大きく開けて間抜けな表情をすえう。
 まあ、いきなり言われればそういう表情にもなるだろう。不快そうな顔でないだけ、御の字だ。

「やっぱり、心身共に弱ってくれるときってだめですね。どうにも勘違いしちゃう」

 責任感からの優しさを好意と勘違いして勝手に惚れる。虫がいい話だ。吐き気がする。
 三沢さんにとってはいい迷惑だろう。ただでさえ、世話をかけていると言うのに。
 恋をして自分が崩れるのも嫌だ。感情は理性を乱す。
 ただでさえ、夜見島から帰って来てからずっと情緒不安定で、自分で自分に振りまわされているというのに、これ以上心をぐちゃぐちゃにはしていられない。
 なるべく心を乱さず、草や木のような気持ちで時間を過ごしていたい。
 目をあけて、三沢さんの目を見る。なるべくにっこり笑って、平静をよそおって。

「だから適切な距離感に戻りましょう。これ以上優しくされると、いよいよ好きになっちゃうか――」
「別にいいんじゃない」

 言葉を言いきる前に、三沢さんの手が持ちあがって私に伸びた。
 私の背後にある冷蔵庫に三沢さんの手がつくと、必然的に距離が近くなって逃げ場がなくなる。
 べつにいい? それは、いったい、どういう――
 思考は眼前の三沢さんが気になって中断される。顔をそむけると、顎を掴まれて前を向かされた。
 覆いかぶさるようにされると顔に影が出来て睨まれているように感じる。まっすぐ視線を合わせられて、顔をそむけることができない。
 背中にべったりくっついた冷蔵庫の扉は冷たい。

「あの、三沢さっ……」

 顔が迫ってきてぶつかりそうになって、反射的に身をすくめる。予想された衝撃は来なくて、かわりにくちびるにやわらかいものが当たった。
 キスされた、と分かった瞬間、津波が押し寄せるように背中から汗が流れた。
 心臓が痛い。息が出来ない。
 眼前で私を見据える三沢さんを、見ることが出来ない。

「み、みさわさ、」
「誰も困ることじゃないでしょ」

 吐き出そうとした言葉が、三沢さんのくちびるに遮られて飲み込まれる。かっぷり口を塞がれ、悲鳴をあげる間もなく舌が入り込んできた。
 頭のなかに炭酸が流し込まれたみたいにパニックになる。思考の糸を紡げない。
 どれほどそうされていたのか。しばらくして三沢さんが身を離した。冷えた空気がくちびるに当たってさむい。

「……お前顔赤すぎ」

 くっとくちびるをゆがめた笑みに心臓を掴まれて、やめてくれの一言が言えなかった。
 やめてほしい。
 本当に。
 これ以上好きにさせないでとため息をつくと、あやすように頭をなでられた。
 子供じゃないよと呻きつつも、本心では完全にどうぞお好きにしてくださいとなっている自分にあきれた。

 ……だからいやなんだ。この人といると、予期しない自分ばかりが出てくるから。




2015/05/31:久遠晶
2020/04/19:誤字修正