俺に言うことねえのかよ



 隣人の考えることは、よくわからない。

「三沢さん、チャーハンのレシピ教えてください」

 開口一番のその言葉に俺は面食らった。
 自宅の鍵を閉めようとしていた手が止まる。早朝、俺は出勤で、隣人は夜勤からの帰宅だ。アルバイトだそうだが詳しくは知らんし、興味もない。
 黙り込んだままの俺をどう解釈したのか、隣人はあっ、と声を上げて会釈する。

「こんばんは……じゃなくて、おはようございます」
「お前チャーハンもつくれねェのか」

 以前、隣人からのお裾分けの礼にチャーハンを作ったことがある。
 人に食べさせることを多少意識したし、実際それなりにうまく作れたとは思うが。そんなにうまかったのだろうか。あれが?
 隣人はええ、とうなずいた。嬉しそうな表情は、世辞のようには思えなかった。

「繊細でいて大胆。コショウ多めの味付けがとても美味でございました」
「……」
「美味でございました、って、間違えてますか」
「いや……まあいいけどさ」
「よかった」

 隣人はふっと微笑む。
 コショウが多かったのは、単にうっかり出しすぎただけだ。

「別に大した味付けじゃねえよ。隠し味もねぇし」
「そうですか?」
「ああ」
「じゃあ、三沢さんと私の味覚が近いんですかね」
「さあな」

 隣人の味の好みなど知らない。俺はなんとも言えず適当な相槌を打った。

「そうだ、この前の……」
「あっ、三沢さん、お時間大丈夫ですか? お仕事!」
「ん……」

 腕時計を見る。立ち話をしていたとはいえ早めに家を出ることにしているから、まだ余裕はある。
 隣人はそうではないらしい。慌てて鞄の中をまさぐり、鍵を取り出して部屋に入る。どうやら見たいテレビがあるらしい。
 ばたん、と扉が閉まる。慌ただしい。
 お裾分けの礼の言葉が口の中でとどまっている。座りの悪い気分になりつつ、出勤の為に階段へ向かう。
 背後からガチャリと扉が開く音がした。

「今日もお勤め、頑張ってくださいね」
「……あぁ」

 扉から顔だけだした隣人が俺に呼び掛ける。面食らって言葉が止まり、ややあって相槌だけが口から出てくる。
 隣人はへらりと笑うと、それで満足したらしく扉を閉めた。鍵の施錠音が聞こえ、それで終わる。
 さっきまではわたわたと家にはいろうとしていたくせに。律義なやつだ。
 吐いた息が白い。俺は再び歩きだした。

 つくづく隣人と俺の生活サイクルは噛み合わないと思う。
 仕事帰り、アパートに帰りついて玄関のロックを開けようと鍵を鍵穴に突っ込んだところで、隣の部屋から隣人が出てくる。

「おや、三沢さん。こんにちは」
「『こんばんは』だろ」
「失礼しました。こんばんは」

 夜勤のアルバイトであるらしい隣人にとって真っ暗な今が昼らしい。完全に昼夜が逆転している。
 隣人はスニーカーの爪先で床を叩き、靴の感触を確かめながら俺を見る。

「お勤め帰りですか」
「おう」
「今日も一日ご苦労……お疲れさまです」

 以前指摘した言葉をきっちり覚えている。隣人は深々と頭を下げた。こいつは警官や消防隊員にも同じように馬鹿丁寧なんだろうか。
 俺はうなずいて、扉の鍵を開けた。

「お前も仕事頑張れよ」
「ねぎらいをどうもっ。行ってきます」

 隣人はにこっと笑うと、階段に向かってすたすたと歩いていく。ジーパンに包まれた小振りの尻がふりふりと動いて軽快に駆けていく。
 とん、とん、とん、とん、とん。階段を一歩一歩踏みしめるような速度で聞こえる足音は、時間帯を意識してかすこし小さい。
 ややあって、真下の駐輪場から自転車が静かに駆けていく音がする。
 ぼーっとその音を聞いていたことに気づき、はっとして部屋に入る。扉を施錠して一息つく。


   ***


 最近、どうも注意力散漫でいけない。暗闇にひそんでいる気がして、呼吸を小さくしながら電気をつける。
 暗闇が怖いなんて、子供じゃあるめぇし。自分がいやになる。
 今日はちゃんと寝れるだろうか。演習で大量に汗をかいて、身体は疲れきっている。寝れるはずだ。今日こそは。
 願いのような期待は、簡単に打ち砕かれた。
 簡単に心の中へと入り込んでくる悪夢は、肉体の疲弊などおかまいだ。

「うわぁっ!!」

 叫び声で飛び起きた俺は慌てて周囲を見渡す。身構えて拳を握ってから、見慣れたアパートであることに気づく。簡単には安心できなかった。
 心臓は跳ね上がり、指先は震えた。季節は冬に近づいているというのに体が熱い。脂汗が全身を濡らし、蒸れている。

「はー……はー……」

 よろよろと布団から起き上がって、台所で脂汗にまみれた顔を洗う。ついでに頭にも流水をかぶって冷やす。坊主頭はこれができるから便利だ。

 多分、俺はひどい顔をしているだろう。台所前の窓はすりガラスでよかったと思う。今の顔を見たくもない。
 タオルで顔と頭を拭きながら、疲れきった目があるものを捉えた。
 コンロの上に出しっぱになっていた鍋だ。
 ちょっと前に隣人が「お裾分け」してきたしるこが、そこには入っている。地道に消化して、もう残り少なくなっていたはずだ。
 鍋の蓋を開けて中身を確認する。どうにか一人前、あるかないか――という量だ。
 身体は疲れているものの頭は強制的に覚醒しているような状態だ。小腹が空いてもいるしちょうどいいから食べるか。

 すこし温めてお椀に移す。
 何度かの加熱を経て当初よりも煮詰まり、味がこなれたしるこをすする。
 優しい甘味が口の中いっぱいに広がり、喉を通って胃に降りていく。それは冷えた身体を癒すように、芯から温めてくれた。
 身体は熱と糖分を求めていたらしい。あっという間にしるこを食べ終わる。おかわりがほしい、と鍋を見て、落胆する。
 今までたいした感動もなく――好きだったので喜んではいたが――食べたことを後悔した。
 ……もっと食いたい。
 悪夢にうなされた直後の俺は、温かさを求めていたのだと思う。

 食器をシンクに浸けて、腹の中のおしるこが冷めないうちに布団へ戻る。
 寝ることは恐怖になりつつあった。しかし寝ないと訓練に支障が出る。
 二度寝の夜も決して深い眠りとは言えなかった。悪夢を見ても見なくとも、身体はなかなか安らいでくれない。
 しかし、しるこの温度か糖分によるものか、普段よりはよほど安らいで眠れた。
 翌朝、いつもよりすこしだけ体が軽かったのだ。

 ――好きなんでしたら、好きなだけ食べてくださいよ。
 ――ボランティアだと思ってくださいな。

 口調だけは丁寧に、ぐいぐいと押し付けられた鍋。

 チャーハンだけでは礼にならないかもしれないと思いながら、寝巻きからスーツに着替えて出勤する。
 玄関を出て鍵を閉める。もしかしたら、と思ったが、バイト帰りの隣人とすれ違うことはなかった。
 そもそもの生活サイクルが違うのだ。どちらかの出勤と帰宅が、遅れたり早まったりした時、運のいい時だけすれ違う。その程度でしかない。
 ……運のいい時、なのか。隣人と会うことは幸運でもなんでもないと思い直して、『ほんの偶然』と脳内で訂正する。

 季節は冬に向かい、急に冷え込んできていた。
 吐き出す白い息の量も心なしか増えた気がする。俺はアパートの階段を降りて、職場に向かった。


   ***


 結局隣人と次に会ったのは、その一ヶ月後だ。
 休日の買い物から帰る途中で、自転車を引く背中を見つけた。
 隣人は左右にふらふらよたよたとしている。今にも道路端の排水溝に自転車が落ちそうだ。注意するか迷った瞬間、前輪が排水溝のドブに滑り落ちる。
 溜め息ののちに苛立ったような表情。

 どうやら自転車の前後に大きな袋をくくりつけているらしい。米袋よりも大きい。歩いていくと、畑用の土だとわかった。家庭菜園でもやっているのか?
 前後に重りが乗っかっている状態では、前輪を持ち上げるのも一苦労だろう。
 俺がたどり着く前に、隣人はどうにか前輪を持ち上げて道路に戻した。ハンドルを切って、道路の端から移動しようとする。
 後輪が揺れた。隣人は気づかない。
 おい、と声をあげる前に今度は後輪が排水溝へと沈んでいった。

「うへぇ、やんなるな……」

 溜め息と共に吐き出された呟き。
 見たところ後輪のほうが土袋の量が多いから、先程以上に大変なのだろう。
 隣人は軽く後輪を持ち上げようとして、表情を歪めた。そこで、俺に気づく。
 隣人は困ったように苦笑を浮かべた。

「おはようございます、三沢さん」
「こんにちはだろ」
「こんにちは」
「おう」

 別に挨拶の仕方にこだわりなどないが、訂正するとぺこりと頭を下げる隣人の仕草が面白い。
 隣人の視線は、そのまま俺の買い物袋へと吸い込まれた。インスタントラーメンやレトルト食品ばかりの中身が見えると、わずかに眉を潜める。

「なんだ」
「いえ、独り暮らしって感じだなぁと思って」
「これが一番楽なんだよ」
「とてもわかります」

 隣人はしみじみと言う。そう言えば、隣人も独り暮らしか。
 喋りながら後輪を持ち上げようと奮闘し、隣人はうぅん、と唸る。俺に助けを求めはしないし、内心でそれを求めているようなそぶりもない。傍観している俺を咎めるような表情もし

ない。
 言えば助けるんだが、と、横顔を見ながらぼんやりと考える。

「あれぇ……おかしいな……そんなに……うぅん。あっ」

 後輪の土袋を見つめていた隣人が、ぱっと顔をあげて俺を見上げた。
 気づいたのか。

「こないだはラーメンありがとうございました」
「は?」
「ほら、ドアノブに。あれ、三沢さんでしょう?」
「あぁ……そう言えば」

 忘れていたが、しるこの礼にカップラーメンをドアノブに下げて置いた気がする。
 へらっと隣人は笑った。

「ありがたくいただきましたよ」
「それ以外に、なんか俺に言うことねぇのか」
「……? なにか、ご迷惑お掛けしましたか?」
 隣人は目を瞬かせて首をかしげた。上司の言葉を待つように俺に向き直り、腹の前で手を組む。
 自衛隊の「待つ」仕草は後ろに手をやるか、足の横に両手を揃えるかだ。一般的には隣人の仕草が正しい。

「あ、もしかしてこの前夜中までラジオ聞いてたことですか? すみません、イヤホンが壊れてしまって」
「もういい」
「眠れませんでしたよね」
「いいよ」

 俺に頼む気は毛頭ないようだ。
 自分のことは自分でやる性格なのか、俺の手を借りたくないだけなのか。

「気を付けろよ」
「すみません」

 しゅんとした声に手を振って、隣を通る。アパートの階段を上がって、鍵を開けて帰宅した。台所前に買い物袋をおいて、座椅子に座って一息つく。
 暇潰しにテレビをつけた。ニュースが流れ始める。
 
 ニュースが三件変わっても、隣人が帰ってくる気配がなかった。
 ……なんとなく座りが悪い。
 玄関を開けて様子を伺うと、まだ排水溝にはまっている所が伺えた。
 まだやってんのか、あいつは。
 近所らしき婆さんが一緒に手伝っているが、まるで意味がないようだ。
 溜め息をついて、サンダルで家を出た。

 これ、重たいわねぇ。全然動かないわ。
 あははー、一人でやりますから大丈夫ですよ、ご心配どうも。
 近づくにしたがってそんな会話が聞こえてくる。

「まーだやってんのかお前は」
「あ、三沢さん」
「じゃ、じゃあ自転車ガンバッテネ」

 俺が声をかけると、婆さんは気まずそうにそそくさと立ち去って行く。絡んでいるように思えたのだろうか。
 婆さんの背中と俺を見比べて、隣人はきょとんとする。

「どうかしましたか」
「じゃねぇよ。ったく」

 後輪を引っ付かんで持ち上げる。道路に戻してやると、隣人は驚いたように口を開けた。

「い、いま!腕だけで持ち上げませんでした!?」
「まあそうだな」
「すごい! 私、両手使っても無理だったんですよ」
「みてぇだな」
「わー、さすが自衛隊さんだ。ご親切にどうもありがとうございます」

 感動したような表情で隣人は深々と頭を下げる。
 俺はしばしためらった。これで帰ってもよかったが、果たして。逡巡ののちに、自転車に手を伸ばす。
 隣人が顔をあげる前に、後輪に土袋をくくりつけるネットを外した。土袋を持ち上げる。
 そのまま歩き出すと慌てて隣人が自転車を引っ張って小走りでついてくる。

「行くぞ」
「えっ、へっ。わ、悪いですよ。持ってけますから置いてください」
「んなチンタラしてたら日が暮れちまうだろ。普段はこれよりもっと重たいもん担ぐ訓練してんだ、気にすんな」
「や、でも三沢さんの筋肉は人助けするためのでしょう」
「なんだそれは」

 焦って慌てる声音。思わず立ち止まる。
 土袋は二十キロが2つ。女には辛いだろうが、俺にとっては片手で軽々持てる程度だ。
 隣人は申し訳なさそうに俺を見上げていた。
 お休みの日ぐらいゆっくりしてください、と、どこかハラハラとした瞳で俺を気遣う。

「これだって人助けだろ」

 そう言うと隣人はきょとん、とした。
 人助け。隣人はその言葉を口の中で繰り返す。

「人助けですか」
「違うか」
「その通りです。いま、三沢さんにすごく助けられてます。あっ、ありがとうございます」

 俺を追いかけながら礼の言葉を口にする。
 駐輪場に留めた自転車に鍵をかけている間に、前輪の篭に突っ込まれている荷物――よく見れば肥料だった――も持ち上げる。
 慌てる隣人を黙らせ、階段を上る。

「玄関までで大丈夫です、本当すみません」
「入っていいなら奥まで持ってってやるが」
「んー……いや、散らかってるんで大丈夫です。お気遣いありがとうございます」

 隣人は急いで玄関の鍵を開けた。促され、靴箱のそばに土袋と肥料を置く。
 恐縮して頭を下げる隣人はとても大層なことを俺にさせてしまった気分らしい。大した労力じゃないんだが。

 それともここまで恐縮するのは、他の人間と同じように俺が怖いのだろうか。荷物を持ったのはありがた迷惑だったということか。
 周囲から怖がられていることはわかっているから、最小限の付き合いにとどめている。
 隣人は今まで怖がる様子がなかったものの、これからは会ってもあまり声をかけない方がいいのかもしれない。

「別に大したことじゃねぇよ。じゃあな」
「あっ、あの、三沢さん」

 言い捨てて、部屋に戻ろうとすると控えめに声をかけられる。隣人は扉から顔だけを出して、俺をうかがう。

「プリンつくったら、食いますか」

 思わず面食らうと、隣人はぱちぱちとまばたきをした。俺の返事を待つ。

「じゃあ、まぁ……余ったら」
「はい、余ります。夕飯のデザートにでもどうぞ。お礼です」

 嬉しそうに笑って、隣人は部屋に引っ込む。俺も部屋に入ると、薄い壁越しにガサゴソと隣人の気配がする。
 鼻唄まで聞こえてきた。何がそんなに嬉しいんだろうか。
 台所そばに起きっぱなしにしていた買い物袋が目に入る。夕飯はカップラーメンにしようと思っていたが、プリンがあるならまともに作ってみるかな。
 適当な野菜炒めなら作れるか……。
 冷蔵庫を物色しながら考える。
 ふと、今度チャーハンを作るときには真面目に分量をはかってみようかと思った。
 レシピを作るほど大層なもんじゃないが、この前の味が作れたら隣人に声をかけてみるか。
 それはさすがに隣人の距離感じゃない。柄にもないことを考えたと苦笑して、俺は食事の支度をはじめた。





2014/9/29:久遠晶