焼肉付き合ってやるよ



 促されるまま離婚届にサインして妻に手渡すと、彼女は酷く失望したような表情をした。
 アパートの玄関先で立ちつくし、目を伏せる。

「これでもう他人ね」
「ああ」

 本当は、引きとめてほしかったのかもしれない。目もとを赤く染め、わずかに瞳を潤ませながら気丈に笑う妻にそう思った。
 引きとめる……。引きとめてなんになる。余計に苦しませるだけだ。
 以前から妻には心配と迷惑をかけ続けてきた。離婚を申し出られたら引きとめず受け入れようと決めていた。それが妻の為なのだから。

「役所には……」
「今から行くわ。一人で結構よ。いままでありがとう、それじゃあ」
「……あぁ」

 突き放す態度でそう言い、背中を向ける妻になにも言えなかった。
 アパートの通路を歩く背中を見つめる俺は、はたから見れば酷く情けないことだろう。
 通路を曲がって階段を下りるところで、妻はぎょっとして立ち止まった。次いで、目をかたくつむって振りきるように階段を降りる。階段はアパートを囲むように設置されているから

、すぐに壁にかくれて妻の姿は見えなくなった。

 冷たい風が吹きすさぶ。
 長い結婚生活の終わりなど、こんなものだ。
 借り住まいのつもりだったアパートに根を張ることになっただけで、ひとりもふたりも変わらない。そのはずだ。
 ため息を吐くと白い息となって霧散した。

 俺はしばらくそうして、妻の居なくなった通路を見つめる。

「いるんだろ」
「……!」

 うっ、と噛み殺した吐息が階段のほうから聞こえてきた。
 壁に阻まれて見えない死角に誰かが居るって言うのは、妻――もう他人だが――の反応とさっき聞こえた足跡でわかってんだよ。

 ややあって、観念したと言うふうに階段から姿を現したのは隣人だった。

「お前か」
「すみません、盗み聞きする気はなかったんですが」

 隣人はすまなそうに会釈して俺を見上げた。上司に失敗をとがめられる部下のように、所在なさげだ。
 重たげな足が動く度に、隣人のヒールがコツコツと高い音を立てた。いつもやぼったい男物の私服ばかり着ている隣人に珍しく正装だ。

 大かた、階段を上っている途中に話し声に気付き、動けなくなってしまったというところか。素知らぬふりをして自分の部屋に入れるような肝っ玉はなく、かと言ってハイヒールを打

ち鳴らしてどこか別の場所へ行くこともはばかられたのだろう。

「玄関でこんな話してるほうが悪いだろ。いやな話聞かせちまって悪かったな」
「いえ、私は、特には」

 誰もいない階段を振り返りながら隣人が言う。
 謝られたところで、どう返せばいいのかわからないのが隣人の本音だろう。

 隣人の目には重たい話に遭遇してしまった気まずさと申し訳なさだけがあった。好奇心はなかった。
 見られたのがこいつだったのは幸運だったかもしれない。噂にして広めそうもない人間だ。

 隣人が首を傾げ、そこでやっと不躾に眺めていたと気付く。
 どうかしましたか、と隣人が俺の言葉をうながす。とはいえなにか喋ろうと思って見ていたわけではないので、俺は場を取り繕う言葉を探す。

「お前は就活か」 
「いえ、ちょっと用事が……。あの、三沢さん。何と言えばわかりませんが、えぇと」

 隣人は困ったように目をつむり、それから苦笑する。

「やっぱりいいです」
「なんだ」
「言う権利がない言葉だったので自粛します」
「言ってみろ」

 こちらを見つめるくりくりとした視線が、ぱちぱちと瞬きをする。ふっと顔を逸らし、隣人は街路樹を見下ろした。そして、視線だけを俺に向ける。

「……『一人は一人で気楽ですよ』『元気出してくださいよ』」

 俺の様子をうかがいながら、おそるおそると言った具合に言う。
 まだ言葉が続くものかと思ったが、それ以上の言葉が隣人の口から吐き出されることはなかった。続くはずだった言葉は『自粛』されたのだろう。
 納得づくの離婚だ。わかりきった未来だったから、傷ついているわけはない。
 隣人が心配するようなことはないのだ。

「ありがとな」
「別になにもしてませんよ。時に三沢さんって、焼肉好きですか?」
「いや……まぁ、好きだな」 

 突然の話題の転換に戸惑っていると、女はバックの中から白い封筒を取り出し、ぴらぴらと俺に見せつけた。

「ここに焼肉半額の優待券二枚あるんですよ。実は今日イヤなことあって、付き合ってくださると助かるんですけども」

 話の終着点がわからず面食らっていると、隣人はにっと歯を見せて笑った。

「別れたと分かった瞬間にアプローチかけるみたいで、なんだか悪女っぽいですかね?」

 先ほどの気まずげな表情はどこに行ったのか、いたずらをたくらむ子供のような楽しげな表情をして首をかしげる。
 俺はというと『なにを言ってるんだこいつは』と思い、一瞬返答に困った。
 言葉を詰まらせる俺に隣人はぷっと吹き出す。肩を揺らして目もとをこする。

「冗談ですよ、じょうだん。でも優待券は本当です。よかったらお友達と行ってください。それじゃあ」

 俺にチケットを押しつけながら、隣人は早口に言った。一瞬距離が縮まり、不意になにかの匂いが鼻先をかすめる。
 線香の匂いだ。独特の香りが、隣人からほんのわずかにただよっている。
 はっとしてあらためて隣人の格好を見れば、スーツは喪服だった。睡眠不足で目が赤いのはいつものことだが、線香の匂いと合わされば別の理由に思えてくる。

「じゃーへんなこときいちゃってすみませんでした。それでは~」
「待て」

 気がつけば、部屋に引っ込もうとする隣人の手首を掴んでいた。
 驚いて振り返る瞳と視線がかち合う。
 掴んだ手首は細い。頬は以前よりすこしやつれた気がする――そんなじっくり見たことないから、知らないが。
 目的を持って掴んだわけではないから、俺は隣人の手首を掴む手の処遇に悩んだ。
 気まずい沈黙が流れ、隣人は首をかしげることもできずに俺を見つめる。

 こちらに向けられた背中がひどく儚げなものに思えて、とっさに掴んでしまっただけだ。理由なんて、あるわけがない。
 引きとめたからにはなにか言わねばならない。……なにを言えばいいんだ。
 ため息をついて、渡されたチケットを隣人に突き返す。

「いいぞ」
「え?」
「焼肉」

 自分の言葉に自分で驚いた。チケットをつき返して、それで終わろうと思っていたのだ。
 言ったからには取り消せない。
 ぱちぱちとまばたきをする隣人がきゅっと眉根を寄せて泣きそうな顔をするのを、俺は黙って見ていた。瞳を潤ませ、唇だけで無理やり笑う様子を、黙って。

「三沢さんは優しい人ですねぇ」

 優しい? 冗談じゃない。
 近所づきあい、とか、ここで断って次の日自殺でもされたら夢見が悪いとか――理由を隣人に押し付けてごまかして、結局は俺自身が独りで居たくないだけだ。


   ***


 夕食時の焼肉屋は家族連れやサラリーマンたちでごった返している。案内された席に座りながら、隣人は俺に笑いかけた。

「ギリギリ座れてよかったですね!」
「ああ」
「それにしても、三沢さんがほんとに来てくれるとは思いませんでしたよー」
「だろうな」

 俺自身、どうして自分が焼き肉屋に居るのかよくわかっていないのが本音だ。
 隣人は喪服から着替え、黒いタートルネックにジーパンというラフな服装に変わっている。メニューを俺に渡しながら、肘まで袖をめくる。臨戦態勢と言った具合だ。

「とりあえず適当に頼むか。サラダとカルビと……そんなもんか」
「そーですね。私は好き嫌いないので。スープどうします?」
「要る」
「決まり! じゃあ、店員さん呼びますね。すみません、カルビふたつに――三沢さん、お酒どうします?」
「俺はいい」
「じゃあ、生ひとつ」
「おいっ」

 店員に人差し指を立てながらビールを注文する隣人を、慌てて止める。
 きょとんとした表情の隣人を睨む。

「未成年がナニ頼んでんだよ」
「へ? 私成人してますよ」
「はあ?」

 思わず口が変なふうにねじ曲がる。あからさまに表情を変えた俺に、隣人は心外だ、と言わんばかりにムッと唇を尖らせた。
 隣人が鞄から取り出した身分証明書を見せると、困った顔をしていた店員は納得したように頷く。
 どうやら本当に成人済みらしい。

「では、生ひとつですね」
「あー、いや、俺もひとつ」
「生ふたつですね。かしこまりました」
「お願いします」

 下がっていく店員に隣人が頭を下げる。
 隣人は身分証を鞄にしまいこもうとし、俺に気付いて身分証を差し出してきた。
 受け取り、身分証に映る顔写真と目の前の隣人を見比べた。

「大型免許持ってんのか」
「ペーパーですけどね~。……これで信じてくれます?」
「生年月日昭和――」
「あっ女の子の年齢を確認すんのはヤボですよ! デリカシーに欠けるなぁ、んもう」

 読み上げる前にひったくられる。言葉こそ怒っているふうだが、隣人はけらけら笑っている。
 年齢を計算されて不快に思わない程度には若い。それを若いと思う俺は老けてるんだろう。

「お前、って名前なんだな」
「そーですよ。三沢さんに呼ばれると照れますね」
「なんだそれは」
「だって基本おいとかお前とか……名前、呼ばれないですもん。三沢さんから」
「知らなかったからな、名前」
「わかります、それ! ご近所さんの名前なんてなっかなか覚えませんよねぇ」

 隣人はケタケタと笑う。酒が入る前からテンションが高い。
 引越の挨拶に行った時に自己紹介はお互いにしたが、正直な話名字も覚えていないのが本音だ。
 近所づきあいは盛んな方じゃないし、名前なんて知らなくても支障がない。
 それなのに隣人と食事してるのはなぜなんだ。

「三沢さんはー。三沢……た、た……」
「三沢岳明」
「そうだ、たけあきさんだ。男らしくてカッコいい名前って思ったの覚えてます」

 注文した物が運ばれてきた。
 隣人の目がぱっと輝く。
 ひとまず、乾杯の中央の金網に肉を手当たり次第に置いていく。ジュウっという肉の焼ける音と匂いが食欲をそそる。
 金網が埋まったところで、お互いビールを持ちあげジョッキを触れ合わせる。
 隣人はそのままジョッキをごくごくとあおり、俺もビールに口をつける。

「ぷはーっ美味しい。でも気を遣わせてすみませんね」
「ん?」
「ビール付き合わせちゃって」
「いや、俺も飲みたかったからな」
「あっ、なるほど。成人してない子と飲むわけにもいきませんもんね。お気遣いありがとうございます」
「とりあえず今日は食うぞ」
「はいっ」

 二人して焼肉に向き直った。
 既に肉はいい具合に焼けている。油ののったカルビ肉にたれをつけて白飯に乗せ、そのまま口のなかにかっこんだ。
 口の中に熱々の肉汁が広がり、白米と混ざって脳髄に快感を呼び起こす。
 食べている最中に次の肉が欲しくなるような感覚。そう、焼肉というのはこれだ。

「んーっ! お肉美味しいっ」

 向かい側でも肉にとろけた声が隣人から上がった。俺を見てにんまりと笑い、それから俺に奪われる前にそそくさと金網から肉を拾い上げる。

「いいとこでしょ、ここ。安いのに結構いい肉使ってるんですよ」
「ああ」

 肉をかっこみながらビールをあおる。苦みのある炭酸がはじけ、舌を刺激し喉まで抜けて行く。
 そこでぷはっと息を吐きだし、また焼肉に向かう。
 焼き肉は焼き肉だけで。白米と食べるもんじゃない――と言うやつもいるが、俺は根っからのご飯党だ。焼き肉の味の濃さを白米で調節しながら食べるのがたまらない。

「そういや今更だが、俺は酒が入っても喋るタイプじゃあ――」
「ああ、三沢さんに楽しいトークは期待してないので大丈夫です」

 期待されていないらしい。
 不躾な言葉だったが、事実だ。部下に言われたら態度がなってないと怒鳴りつけるところだが、この女は別に部下じゃない。それに、まったく不快になっていないことも事実だ。

「私は酔うと結構うるさくなるかも」
「聞き流してやる」
「そうしてくださいっ。三沢さん、ほら、肉肉」
「かーってに乗せんなお前は」

 そのあとは言葉すくなに肉を食べ続けた。食事の時は喋らないタイプなのか、あるいは焼肉の魔力か。
 金網にスペースが空けば肉を置き、タレが必要になれば互いに取ってもらう。
 喋りたくなれば喋る。場所が焼肉屋ということもあり、女や部下を相手にしている時と違って気楽だ。気楽さとアルコールが背中を押し、俺はいつもよりも饒舌になる。

「そういやお前、どういうバイトしてんだ」
「んーっ色々ですよ。コンビニでバイトが主ですけど、たまに喫茶店とか。あとは日雇いとか」
「結構やってんだな」
「食い扶持稼がないといけませんからねぇ」
「大変だな、それじゃ」
「三沢さんほどじゃないですよ。自衛官さんって、訓練とか大変でしょう」
「お前らが思ってるほどじゃない」

 見栄を張りながらビールを飲み干す。
 二人して肉とビールの追加を頼んで、また焼肉に向かう。

「ホントはねぇ、コンビニのバイトやめよーかなって思ってるんですよ。仕事は楽でいいんですけど」
「人間関係か」
「そーっ。いい人たちなんですけど、店長変わって……なんかきつくなってきちゃって」
「転職するなら次決めてからのほうがいいぞ」
「そこなんです。結構時給よかったから、同じだけのお給料……ってなると幅が狭まちゃって」
「……確か、うちの基地でバイト募集してたような気がするが」
「え、ほんとですか」
「時給はよかった気がすっけど……まあ、興味があるなら調べてみろ」
「そうします。でも自衛隊でのバイトってキツそうですね」
「自衛官やれってわけじぇねえし、あんま変わらないと思うぞ」

 瑞々しいレタスをほおばりながら、隣人はうーんと唸った。口に入れた焼肉を押し流すようにビールを飲む。
 よほど腹をすかせていたのか、男と食べているようなペースで肉が消えて行く。肉の席では遠慮なく喰らうのがマナーだ。豪快な食べっぷりは見ていて気分がいい。
 そんなことを思っていると、隣人が感心したように俺の皿を見る。

「三沢さん、よくお食べになりますね。毎日お勤めで身体動かしますもんねぇ」
「お前も見かけによらずよく食うな」
「美味い肉は別腹ですよ! 焼肉って焼ける音と匂いが食欲刺激するから、いつもの倍ぐらい食べちゃいます」
「わかる」

 二人して頷く。
 いつしか腹も膨れ、互いに自分の腹をさすりながらふうと長い息を吐く。
 食った。ズボンがきつくなっているのがわかる。

「あーっ食べた。お腹いっぱいっ。でも飲み足りないなあ……」
「結構、酒飲むほうなんだな」
「ええ。普段は飲まないけど飲む時は飲みます」
「……じゃ、二次会でも行くか?」

 飲み足りないのは俺も同じだったが、自分から切りだすには緊張を要した。
 隣人は俺の心中を知ってか知らずか、アルコールで赤く染まった頬を持ちあげて嬉しそうに笑う。

「是非っ」
 レジ待ちの間に隣人がトイレに行っている間に会計を済ませる。
 戻ってきた隣人に背中を向けて、店の扉を開ける。久々の外気に身体が急速に冷えていく。アルコールの入った身体にはちょうどいい。

「三沢さん、お待たせしましたー。って、え? 会計は」
「もう済ませた」
「えっ。お金払います」
「いい」
「そ、そんな」

 店を出て先を歩くと、戸惑ったような声が後ろから追いかけてきた。
 赤になった横断歩道のところで俺に追いつき、逃がさないと言わんばかりに俺の腕をひっつかんで俺を見上げる。

「奢っていただくわけにいきませんよ」
「いいっつってんだろ。年下に出させるわけにいかねぇよ」
「三沢さんに出させるわけにもいきません。大体正当性から言うなら私が全額出すべきでしょ」
「正当性ってなんだよ」
「私が誘ったのに」

 女は眉を寄せて睨んだ。もともとあまり覇気のない顔をしているのと、ほろ酔いで頬が赤い為威圧感はまったくない。
 俺の腕に抱きついている形になっていることに気付いていないんだろう。俺が隣人をガキだと思っていたのはこういう『隙』が多いからだ。
 頭を掻くふりをして腕から手を外させ、戻す時に隣人の後頭部に軽くチョップする。

「とにかく、私自分の分は――あだっ」
「アルバイト暮らしが舐めたクチ聞いてんじゃねぇ。良いから黙って奢られとけばいいんだよ」
「……三沢さんって絶対亭主関白でしょう」

 その言葉にはぐうの音も出ない。思えば自衛隊の激務ばかりで、ろくに妻と触れ合うこともなかった気がする。別居すら俺の一存だ。以前から仲は冷え切っていたし、離婚されてしか

るべきだ。
 そして独り身の初日――ゼロ日目か――に成人済みの女と夜の街を歩いている。なんてただれているんだ。そんな甘い関係では断じてないが、状況だけを拾うと自己嫌悪しそうだ。

「三沢さん、ごめんなさい、私」
「別にいい。焼肉おごったぐらいで懐痛くねーよ」

 隣人の謝罪を、俺はわざと取り違えた。
 信号が青になり、横断歩道を渡る。なんとなくぶらぶらと繁華街を歩いているが、どの飲み屋に入るか。

「落ち着いたとこがいいです。ちょっと歩くけどいいトコ知ってます」
「じゃあ、そこにするか」

 小走りの隣人に気が付いて歩幅を緩めた。
 夜の繁華街は人通りが多い。腕でも男女で腕を組むやつもいれば、サラリーマンの連中もいる。
 俺と隣人はどういう風に見えているんだろうか。恋人に見えるような年齢差でも距離でもないが、二人で歩いているとわかる程度には隣り合っている。
 もし部下に見られたら――まぁ、本当のことを言えばいい。単なる隣人だ。


   ***


 隣人が案内したのは小洒落た和風居酒屋だった。狭い個室に案内され、他の世界と隔絶される。
 淡い照明がほろ酔いの目に優しい。確かにここならば落ち着いて飲めそうだ。

「私個室じゃない居酒屋って苦手で。個室でよかったですか?」
「あぁ」
「よかった」

 隣人はにっこり笑う。
 お互い、騒がしいのはそこまで好きではないらしい。
 日本酒とつまみを適当に頼んで、一息つく。ややあって注文が運ばれてきた。
 梅酒のお湯割りを両手で持って、女は幸せそうに笑う。

「あったかい……冬はあったかいお酒が美味しくなりますねぇ」
「そうだな」

 相槌を打ちながらからあげにパクつく。
 お勧めの店というだけあって、口のなかで肉汁が弾ける感触がたまらないうまさだ。

 話す時間すら惜しいといわんばかりに黙々と肉を食らっていた焼肉屋とは違い、まったりとした時間が流れる。沈黙も、酒の余韻とつまみの味を楽しむものだ。

「ねえ、三沢さん。すこしお聞きしてもいいですか?」
「どうした」
「自衛隊のお仕事についてなんですけど」
「あぁ……答えられる範囲でなら」
「普段どういうことしてるのかなって。やっぱり訓練ですか」
「訓練だな」
「なるほど」

 隣人は身を乗り出して神妙に頷く。自衛官の仕事なんて、まわりにやってる人間がいなければわからない。興味津々に聞かれることはよくあることだ。
 隣人の目はキラキラと輝いている。子供がロボットに憧れるような純真な表情だ。
 ……やっぱガキって感じだ、こいつ。

「部隊にもよるけど、一ヶ月ぐらい山籠りすることもある」
「えっ! 山籠り!? クマでも退治するんですか」
「訓練だよ訓練。……まぁ、一回クマと遭遇したことはあるけどな」
「えぇっ!! 大丈夫だったんですかそれで」
「その時銃もナイフも持ってなかったから、死んだと思ったよ」
「えぇええ、こわ……! よ、よく生きてましたね」

 あからさまな嘘も疑う様子がない。クマと遭遇したことは本当だが、素手で仕留めたことはない。どこまで言えばバレるかな、と思いながら俺はテーブルに身を乗り出した。
 個室だから他には誰もいないが、周囲を見回す。察した隣人も身を乗り出し、顔を近づけて内緒話をする状態になる。

「クマの弱点はな」
「は、はい……!」
「鼻なんだ」
「は、鼻」

 思わず自分の鼻をさする隣人。俺は笑いだしそうになるのをこらえテーブルから身を引き、拳でシャッシャと宙を切ってみせる。

「一瞬の攻防だった」
「一瞬! クマの鼻なんて、よく手が届きましたね。三沢さんの身長でも大変そう」
「……クマは猫背だからな。実物は意外にちいさい」
「クマのくせに猫背とはこれいかに」
「中国だと熊猫って書くだろ、猫背が由来だ」
「はー……三沢さんは物知りですね」

 息を吐くように嘘八百を並べ立てると、隣人は心底感心したように頷いた。ちなみに熊猫はパンダの意味だ。
 ここまで熱心に聞き入られると、いたいけな少女を騙しているような感覚になる。それとも騙されているとわかったうえで乗っかっているのか。
 まぁ、どちらにせよ面白いことにはかわりがない。

「そういえば自衛官って寮暮らしって聞きましたけど」
「まあ、基本はそうだな。ただ結婚したりある程度昇進すると自宅通勤の許可が出る――ああ、そういやそろそろアパートの更新か」
「あ。私今月だ! わー更新料忘れてたぁ」

 不動産屋から手紙が届いたことを思い出した。 
 アパートに入居したのは去年だ。長い間居るわけではないだろうと思って一年単位の更新にしていたのだ。
 結局離婚し、家に戻る必要もなくなったが――。

「どうすっかな」
「また、引越しちゃうんですか?」
「別にここに居る必要もねぇしな。官舎に戻ってもいいが……」

 そこまで呟いてから、無理だと首を振る。
 悪夢が続いているのだ。官舎に戻れば同室の人間にすぐに気取られるだろう。バレるわけにはいかなかった。
 引っ越すとするなら官舎ではなく、どこか別のアパートかマンションになるだろうか。引越して気分を変えてみるのもいいかもしれない。

「寂しくなるな。居てくださいよ」

 知らず暗く沈んでいた思考を、隣人の言葉が現実に引き戻した。顔をあげると、隣人は梅酒を飲みながら笑っている。

「三沢さんの存在はこの街の治安維持に大いに役立ってくれていますから」
「なんだよそれ」
「だって三沢さん、通勤が制服でいらっしゃるでしょ。アレ見たら犯罪起こそうなんて輩居なくなりますよ」

 クスクスと笑い、ちびちびと梅酒に口をつける。温かさを舌のうえで転がして、ゆっくり味わってから飲み干している。
 俺も日本酒に口をつけた。度数強めの焼酎は苦味と共に蒸せるような匂いを鼻の奥に残す。

「居てくださいよここに。三沢さんは接しやすくて、三沢さんみたいな方がお隣だと楽でいいです」
「接しやすい、ねぇ」

 そんなことはじめて言われた。
 部下を怒鳴るのが仕事のようなものだ。隣人のような若い年代から慕われることなんて、今まであっただろうか。
 以前人間が嫌いだと隣人は言っていたが、かなり人懐っこい部類ではないかと思う。

「お前にとってはたいていのやつは接しやすいだろ」
「そんなことないですよ、苦手なヒトは多いです」
「例えば」
「ずかずか踏み込んでくる人とか」
「ふぅん」

 コイツ他人のこと言えんのか、と思ってから、決して無理強いはされたことがないと思い直す。
 おしるこ余ったんでよろしければどうですか、よかったら焼き肉付き合ってくださると助かります。問答無用で押し付けられることはなく、隣人も聞くだけ聞いてみようと言うスタン

スだったからその断りやすさは楽だった。
 別に……迷惑って訳じゃない。

「押しの強い人とか」
「なるほどな」
「そんな感じです」
「そうかい」

 自分の領域に無遠慮に立ち入られたくない気持ちはよくわかる。
 二人して酒が切れた。店員を呼んで、追加する。

「今日、三沢さんが来てくださってよかった。一人だと際限なく落ち込みそうだったから」
「すこしは気晴らしできたか?」
「はい。美味しいもの食べると幸せになれますしね」
「ならよかった」
「ありがとうございます」
「……コチラこそ」

 憮然として礼を言う。
 運ばれてきた焼酎に再び口をつけた。

「んー、やっぱり梅酒は美味しいなぁ」
「酒、結構好きか。お前」
「大好きですよ。日本酒は勉強中ですけど」
「日本酒はうまいメシと食うとよさが分かるぞ」
「あー、ご飯と一緒にお酒飲んだことはないなぁ。やっぱり和食ですか?」
「そうだな、最近は洋食にあう日本酒もあるらしいが……やっぱ日本酒は和食だろ」
「じゃあ今度和食と合わせて飲んでみます」

 先ほどよりも赤くなった頬をした隣人が言う。俺の顔もそれなりに赤くなっていることだろう。
 その後もぽつぽつと会話しながら酒をのみ、夜も深まって来たのでお開きになる。

「こ、ここは私が出しますから! 大丈夫ですから!」

 会計の際、背後にいる俺をやたらと警戒しながら隣人が言う。
 店員の伝える代金に、隣人が財布に視線を落とした隙に一万円札をレジのトレイに置いた。

「一万円からですね」
「えっ!」
「ああ、そのままどうぞ」
「や、あの、」

 うろたえる隣人を無視してつり銭を受け取り財布をしまう。
 店からでようとすると、隣人は俺の前に回り込んで先に扉を開けた。
 そのまま扉を開けて待っているので、礼を言って店を出た。

「みっ三沢さん! お金!」
「ああ? いいんだよそんなもん」
「いいわけないでしょう、そんなのっ」

 焼肉屋を出たときと同じ押し問答だ。
 居酒屋までおごられてはたまらない、と言いたいらしい。ポーズなどではなく本気で恐縮しているようだ。財布から取り出した一万円札を俺のズボンにねじ込もうとすらする。

「おいなにやってんだ」
「気づきましたか……」
「たりめーだろ。アルバイターが背伸びすんなってさっき言ったろ」
「でーもー。そこまでしていただく理由がありません」
「部下には毎回奢ってる」
「私は三沢さんの部下じゃありませんよ」
「でもガキだろ」
「食い扶持は自分で稼いでます」
「今月更新なんだろ」
「更新料出せないほど切羽詰まってるわけじゃないですよ」
「……ああ言えばこう言う」
「三沢さんこそ」

 隣人はとても不服そうに唇をとがらせた。
 こういう時には男が出すもんだ、と言えば引き下がるだろうか。男女差別だなどと言ってきそうだ。それに、今この状況に『男女』を持ち出したくはなかった。

「誘いに乗った時点で金だす気で来てるよ。逆になんのために俺とメシ食ったんだって話になるだろ」
「三沢さんの存在価値はお金なんですか?」

 質問されて面食らう。なんでもないような顔で、隣人が俺を見ている。

「私が三沢さんを誘ったのは、私が傷心のときにたまたま三沢さんと会ったからですけど。今日すごく楽しかったです。三沢さんを誘ってよかったなって思いました。三沢さんをお誘い

したのはそういう時間のためで、奢ってもらうのを期待したわけじゃないです」

 小学生の作文のような口調で、指折り数えるよつに隣人は感情をや吐露する。

「ですのでそう言われるのは心外です。それに、その考え方ってとても寂し――」
「もういい」

 持ち上げた手を隣人の頭めがけて降り下ろす。
 手のひらで押し付けるようにして髪の毛をグシャグシャにして、そのまま隣人の先を行った。

「わわっ! 三沢さん、髪型崩れますって」
「崩れるの気にするような髪型じゃねぇだろ」
「そーゆー問題じゃないでしょう。んもー」

 髪を整えながら隣人が小走りで俺に追い付く。俺の二歩後ろの距離に落ち着く隣人を目で見やった。

「……今度、またなんか持ってこいよ。それでいい」
「なんかって、お菓子とか鍋とかってことですか」
「なんでもいいよ」
「ん……わかりました。人のために作るのは苦手なんですけど、頑張ります」
「余ったときでいい」

 歩きながら会話する。隣人は時おり駆け足になって俺を追いかけた。気づかれないように歩幅を調節する。

「あっ、月」

 後ろから上がった声に空を見上げる。雲ひとつない空のなかで、大きな満月がひときわ強く輝いていた。まるで太陽のようだ。

「綺麗ですね~」
「おぉい、転ぶなよ」
「大丈夫でーす」

 空を見上げたまま歩く隣人に不安になる。隣人が自転車をドブに落としたり、階段から落ちそうになったり――そういう場面ばかりを俺は目撃しているのだ。
 へらへらと笑う隣人は幸せそうだ。軽く歩いて、いい具合にアルコールが回っているのだ。 

 隣人にあわせてゆったり歩いてもいつかは目的にたどり着く。
 アパートの階段を先に登らせながら、その背中を見上げた。隣人はトン、トン、トンという足音にうっとりしたように目をつむっている。

「あぶねぇぞ、ちゃん見てのぼれ」
「はーい。三沢さん、今日来てくださってありがとうございます、ほんとに、なにからなにまで」
「……おー」

 扉の前で鍵を取り出しながら、隣人がぺこっと頭を下げた。ほろ酔いで、その動きは緩慢だ。
 イタズラ心がわいて、隣人の頭の上に手を縦にして設置した。気づかない隣人が頭をあげ、手刀にした手にゴチンと当たった。
 あだっ、と間抜けな声がもれ、なにがなんだかわかっていない隣人は頭を押さえて俺を見つめた。
 思わずプッと吹き出してしまう。

「明日、二日酔いすんなよ」
「はあい。おやすみなさい、三沢さん」
「ああ。じゃあな」

 挨拶して自分の部屋に入って電気をつける。普段家に帰るとひどく気分が重くなるものだが、酒の影響か心地よさが続いていた。
 ちゃぶ台に置いたままにしていた不動産屋からの手紙が目に入る。
 家賃の更新、どうすっかな。
 歯を磨きながらしばらく考えて、また荷物を梱包するのも引っ越し先を探すのも面倒だったのでやめにした。
 このままでいい。

 ――居てくださいよ、ここに。

 ほろ酔い笑顔で言われた言葉が残っていたわけじゃあないが。結局これが合理的だ。
 近所とも打ち解けて来たとこだしな――と思いつつ、俺は布団に入ったのだった。
 今夜はゆっくり眠れそうだ。根拠もなくそう思った。





2014/10/22:久遠晶
イタズラ心がわく三沢さんを書きたかった