そういや誕生日



「みかん?」

 玄関の扉を開けた私の言葉に、三沢さんは手にもったスーパー袋を持ち上げて頷いた。

「部下からもらったんだが、量が多くてな……よかったらどうだ」
「みかん大好きです! ありがとうございます」

 差し出されたスーパー袋を受けとって頭を下げる。これでもかと言うほどみかんがつめこまれてぱつんぱつんだ。ずっしりとした重みが嬉しい。

「こんなにもらっちゃっていいんですか?」
「それでも半分もないよ。もっともらってほしいぐらいだ」
「そうですか。腐らせそうになったら、いつでも言ってくださいね。嬉しいなぁこんなにたくさん」
「甘くってうまいぞ」
「ふふ、食べるの楽しみです」
「あぁ……」

 要件はこれだけだろうか。扉を開けたまま押さえていた手を緩めようとして、三沢さんがまだなにか言いたそうにしていることに気づいた。
 見上げながら、言葉を待つ。
 びゅっと風が吹きすさんで、部屋着の私は思わず肩をすくめた。三沢さんは私よりも薄着だけど、たいしてこたえている様子がない。

「三沢さんはそんな薄着で寒くないんですか?」
「別に」
「鍛えてる方は違いますね~」
「ん……」

 三沢さんは困ったように呻いた。視線をあちこちに巡らせてなにかを言いあぐねる様子は、会話の糸口を探すようでもある。

 みかんとは別の、言いづらい要件があるのだろうか。
 そわそわと身体を揺らし、鼻を鳴らして三沢さんは口ごもる。

「……じゃあ、これで」
「あの、クッキー焼いてるんですけど」
「いいのか」

 わずかに色めき立つ声音には、どこかほっとしたような感覚もあるように思える。
 いつもなら『焼き上がったら持っていきます』というところだけど、今回は家に上がってもらった方がよさそうだ。言いづらい要件も気になるし。

「あと10分ぐらいで焼けるので。よかったら部屋でお待ちください」
「……じゃあ。お邪魔します」
「狭いですけど」
「知ってる」
「でしょうねえ」

 同じアパートのお隣だ。さほど間取りは違わないはずだろう。
 部屋のまんなかにあるミニテーブルの上座に三沢さんを招く。
 三沢さんは玄関で、差し出したスリッパを見て難しい顔をしていた。

「そちらに座ってください」
「……お前、結構少女趣味だな」
「使い心地のいいものを選んだら、自然とそれになっただけですよ。あったかいんですそれ」
「……こっちにかかってるほう、使っていい?」

 クマの耳がついたスリッパを履くのに抵抗があるらしい。気まずそうにしながら予備の質素な色合いのスリッパを指差す三沢さんに、我慢できず吹き出してしまう。

「くっふふっ……! ど、どうぞ、お好きなの使ってください。くくっ……クマさんスリッパの三沢さんも見てみたかったけどっ!」
「そんなに笑うなよ」

 むっとして三沢さんが言う。居心地悪そうに坊主頭を撫でる仕草も笑いを誘うことに気づいていないのだ。

「こ、このキャラクターもののクッションもまずいですか、そうですか」
「いや別にいいけどさ。……そんなに笑うな、だから」

 どっかとクッションの上に座り込む三沢さん。しまった、不機嫌にさせちゃったかな。でも、笑えてしまうのは仕方ない。

「三沢さんかわいいとこあるんですね」
「バカにしてんのかお前は」
「誉めてるんですよー、ふふっ。いま、お茶いれますね。紅茶でいいですか? 紅茶でいいですね、紅茶にします。」
「まあ紅茶でいいけどさ。……悪いな、邪魔しちまって」
「構いませんよ。その代わり私の自己満足に付き合っていただきたいんですが」
「自己満足?」
「んっふふふふ……。そう。そうなんです。見てくださいこれ」
「うん」

 紅茶用のティーポットを差し出して見せる。

 受け取った三沢さんはくるくると角度を変えてティーポットに描かれた装飾を見つめる。控えめながらもしっかりと存在を主張する装飾の美しさと、白磁の滑らかな感触に三沢さんは 酔いしれているに違いない。

「ずいぶんと高級そうだな」
「ウェッジウッドですから。今日ね、はじめて使うの」
「! ウェッジウッド」
「ええ。お金ためてやっとセットで買えたんですよ~これのために何ヵ月節制したことか」
「返す」

 三沢さんは無言でティーポットをテーブルに置いた。壊してしまったら責任がとれないという、恐ろしげな表情だ。

「確かに自己満足だな」
「ええ。食器にこんなお金かけるなんてアホらしい……でも快感。まさに自己満足。で、まだまだ終わりませんよ」

 やかんが沸騰したのでティーポットを持って立ち上がる。

 先にティーポットとカップにお湯を注いで温め、お湯を流しに捨ててから茶葉を投入。沸騰したお湯を勢いよく注ぎ入れた。
 すぐに蓋をしめて、立ち上る湯気を鼻に吸い込む。いい香りだ。
 せっかくいいティーポットを買ったのだから、美味しい紅茶を入れなくては。
 カップに紅茶を注いで、綺麗な赤茶の色味にうっとりする。

「どうぞ。砂糖はお好きに」
「ウェッジウッドって聞くと使いづらいな……いただきます」

 三沢さんがカップに口をつける様子を、黙って見守る。喉がこくりと動いて、三沢さんははっとしたように目を開いた。すんすんと鼻を鳴らして、紅茶の匂いを嗅ぐ。

「うまい。なんの紅茶だ」
「アールグレイにレモンバームの葉っぱを混ぜました」
「ああ、なるほど。いい匂いだ」

 目をつむって深く鼻で息を吸う三沢さんに、私の気分もとてつもなくよくなる。

 匂いを楽しみながら、私も紅茶に口をつけた。
 うん、美味しい。オーブンからふんわりと漂ってくるクッキーの甘い匂いもあわさって、快楽中枢がこれでもかと刺激される。

「これですよ、これ! 窓から差し込むほのぼの陽気のなか、新しい食器で美味しい紅茶でクッキーは自家製。優雅すぎる休日の昼下がりに我ながらめくらがします」
「お、おう。なるほどな……」
「以上、私の自己満足です。お付き合いいただいてどうも」

 気圧され気味の三沢さんに自分の盛り上がりっぷりがちょっと恥ずかしくなって、私はそうまとめた。ごほん、と咳払いをして気を落ち着かせる。
 三沢さんはカップを揺らして、中の紅茶に視線を落とした。

「お前って、結構こだわりあるタイプなんだな」
「どうでしょう。自分の好みは追究するタイプかも」

 そうこうしているうちにクッキーが焼けた。オーブンからお皿に取り出して、三沢さんに差し出す。
 いい色に焼けたクッキーが三沢さんの口元に運ばれていく。やっぱり、固唾を飲んで見守ってしまう。

「うまい」
「よかった。たくさんあるので、どうぞ」
「焼きたてのクッキー食えるってのも贅沢だよな」
「手作りの特権ですよね。でも熱いから気を付け……あっつ!」
「言ったそばから」

 三沢さんが唇の端をつり上げて、呆れたように笑った。私も苦笑し、ごまかすように紅茶に口をつける。うん、やっぱり美味しい。温かさが喉を通って身体にしみわたる。
 ほっと息をつく私の前の前で、無言で三沢さんがクッキーを食べていく。この人、ほんとにお菓子が好きなんだなぁ。

「美味しいですか?」
「ああ。……全部くっちまいそうだ」
「どうぞ? まだまだありますから」
「じゃあ」

 さ迷った手がもう一度クッキーに伸びる。いい食いっぷりを披露してもらえると、差し出した側としても嬉しくなってしまう。
 頬杖をついて、三沢さんを見つめた。気づいた三沢さんが、恥ずかしそうに眉を寄せた。

「なにみてんだよ」
「美味しそうに食べてくれるなって」
「……そんな、にやけてたか」
「表情なんかみないでも、スピードみればわかります」
「……」
「嬉しいです」

 クッキーを食べる手が止まり、三沢さんは紅茶を飲む。
 三沢さんの羞恥心が発動するポイントが、いまいちわからない。じっと見つめたり微笑みかけることが、どうやら三沢さんは恥ずかしいのだろうか。普段は気にしないから、会話の内容か。
 クッキーを美味しく食べてくれて、私はそれがとても嬉しい。それだけなんだけども。がっついてる、って意味にとられてしまっただろうか。
 不安に思っていると、三沢さんの手はまたクッキーを掴んだ。ほっとする。

「ん……」
「どうかしましたか?」
「いや、こういうふうにぼんやりするの、久しぶりだなと思ってな……」
「三沢さんは毎日過酷な訓練をなさってるんですものね。お勤めお疲れさまです」
「いやっそういう意味じゃ」
「レモンバームには安眠効果とか、気を落ち着かせる効果もあるんですよ。よかったらおかわりどうぞ」
「ああ……どうも」

 三沢さんの差し出すカップに、ポットから紅茶を注ぐ。少し冷めていた紅茶がポットの紅茶とまざって、白い湯気をたてた。
 紅茶の匂いとクッキーの匂いがまざりあって、室内に満ちる。

「安眠か……」

 手の中のカップを見つめながら三沢さんがひとりごちる。よくみれば三沢さんの目元にはうっすらクマができている。
 なにか言おうとして、開いた口を閉じた。もし寝れていないのでしたら寝る前にココア飲むといいですよ、等と言ったところで、その程度の努力三沢さんも試していることだろう。

「ま、お休みの日ぐらいゆったり身体を休めてくださいね」
「……ん」

 三沢さんは紅茶を飲み干し、それからくあぁ、と大きなあくびをした。目元をこする。

「眠そうですね」
「ああ、そうだな。茶を飲んで落ち着いたからかな、急に眠気が……」
「お疲れですものね。ゆっくり休んでくださいね」
「これ飲んだら帰るよ。ありがとな」
「こちらこそみかんありがとうございます」
 三沢さんのカップをみると、まだ紅茶が残っている。飲み終わるまでの隙に、お手洗いへと席を立つ。用を足してリビングに戻ってくると、三沢さんがミニテーブルに突っ伏していた。

「三沢さん? 帰って寝るんじゃないんですか?」
「ん……」

 肩を軽く叩いてみるものの、応答がない。外部からの刺激に反応してうめきはするけど起きる兆しはなかった。

 よほど疲れていたんだろうか。訓練でお疲れだということは知っているし、無理矢理に起こすことははばかられる。先程、寝不足だと聞いたばかりだ。

 私はため息をついて、三沢さんの肩に毛布をかける。
 なるべくおとをたてないように、食器を洗った。
 少ししたら起こそう。それまでゆっくり寝てほしい。


   ***


 ……あたたかい。光に包まれて眠る。
 羽毛のなかに包まれるような、安らかな気分だ。
 腕のなかのぬくもりが心地よくて、俺は抱き締める力を強くした。あわせて、ぬくもりは猫のようにくたりと形を変える。
 密着するぬくもり。
 海に抱かれているような安堵感は、不意に取り上げられた。

 赤い水、血に染まる少女、無数の手――。
 安堵感はいつもの悪夢に塗り替えられる。

「ウワァッ」
「うぎゃっ」

 思わず飛び起きると、下でゴチンと堅い音がした。下を向くと――。
 女の丸まった背中が目にはいる。
 着崩れた部屋着の裾から見える脇腹にどきりとする。

 ――誰だこいつ。

 見知らぬ場所での目覚めにうろたえる。間取りは似ているものの内装が違う。自分の部屋ではない。だとすると女か。この女は誰か。
 俺に背中を向けているから、顔がわからない。
 女の服はかなり着崩れていた。ティーシャツはあばらのあたりまで持ち上がり、その脇腹の白いくびれにどきりとする。部屋着とおぼしきズボンも骨盤の下まで斜めに下がり、下着がちらりと見えている。
 その媚態を認識した瞬間、どっと心臓が脈打った。背中に嫌な汗が流れる。

 あまり考えたくないことではあるが……。思わず自分の身体をペタペタさわって確かめてしまう。俺の服には乱れた箇所はないが、それだけでは一夜の過ちがなかったと言いきれない。
 離婚して日は経ちつつあるが、だからといって女あさりに繰り出そうとは思わなかった。その俺が――女と寝ている。いや、遊びの女ならばまだいいんだが……。
 動揺する俺の前で、女は呻きながら起き上がった。

「いたたた……あぁ、三沢さん」
「お、お前か……?」
「私ですけど」

 おかしな会話だ。横で寝ていたのは隣人だった。
 そこでようやっと、意識が時系列を確認し始める。
 そうだ、たしか俺は隣人の部屋に上がって、クッキー食べてたら眠くなって……。
 気づいたら床で寝ていた。
 それだけならば寝かせてくれたと思うのだが、何故隣人も隣で寝ていて、服が乱れているんだ。
 ねぼけなまこをこする隣人になにも聞くことができない。

「気持ちよかったですか?」
「は?」
「私の抱き心地」

 だ、抱き心地……? やっぱり過ちを犯してしまったんだろうか。身に覚えもないし記憶もない。
 何をどう返せばいいのかわからず戦慄していると、あぁ、と隣人が声を出す。

「性行為には至ってないのでご安心を」
「あ、あぁ……」

 性行為には、の『には』という言い方が気になる。が、一番の問題は解決する。しかしどうにも安心はできなかった。今だ動揺したままの俺をみやり、隣人はため息をついた。

「その様子じゃほんとに寝相だったんですね」
「……悪い、もしかして、寝てる間、なにかしたか」
「起こそうとしたら毛布の中引きずり込まれて」
「……」
「抱き枕にされました」
「それで抱き心地の話になったのか」
「逃げようにも足と手でがっちり押さえられて、参りましたよー」

 ため息をついて頭を押さえる。本当に何をやってるんだ、俺は!

「なんて詫びをすればいいか……」
「まぁ、寝てたのだから仕方がないです。お腹をさわられたときには起きてんじゃないかと疑いましたけど、三沢さんが無実だとわかってよかった」
「は、腹を?」

 隣人はこくりと頷く。

 確かに思い返せば、夢のなかで急に暖かいものが近くによってきて、逃がさないように捕まえた覚えがある。あれは現実の隣人だったということか。
 過ちは犯していないというのは最低限の救いだが、頭が痛くてめくらがする。

「………本当に悪かった…………」
「か、顔あげてくださいよ、なにもされてないんだから。胸もまれたわけでもないし」

 床に手をついて頭を下げると隣人が慌てたように言う。俺の肩に手をおいて、顔をあげろとうながす。
「それに私も結構ぐっすり寝れたし、三沢さん暖かくて抱かれ心地も悪くなかったような……そ、そう! だから、きっ筋肉ごちそうさまでした!!」

 隣人はグッと親指をたてながら必死に叫んだ。俺へのフォローをしようとするあまり隣人も何をいっているのか自分でよくわかってないんだろう。
 ただ隣人は大丈夫だ、と言うように力強く頷く。
 ……ため息しかつけない。その気遣いはまるっきり逆効果だ。

「三沢さん、ところでお腹すいてません? もう七時ですよ」
「っそんなに寝てたのか、俺は……。悪いな、もう出てくから」

 立ち上がりかけたところで腹の虫が盛大に鳴る。
 隣人はフッと笑って、俺の肩をつかんで床へと戻した。そのまま立ち上がり、台所に向かう。

「三沢さんが寝ている間に煮物作ったんで、よかったらどうぞ。その分じゃ夕飯の準備もしてないでしょう?」
「いや、けど……」
「ん?」

 台所で準備をし始める隣人が、肩越しに俺をみやる。邪気のない目だ。
 好きでもない男に抱きつかれて寝られて、その後とは思えない。いつも通りの瞳には警戒心というものがなく、隣人のなかで先程のことは完全に『寝ぼけていたのだから無実』ということになっているらしい。
 無警戒さに頭を抱え、むっとするのは男としての本能だが、理性と感情はその態度にほっとしていた。

「それともサバの味噌煮はお嫌いですか?」
「まぁ、好きだけど……」
「よかった。どーせ何日も掛けて消化するものだし、気にしないで三沢さん」
「いや……」

 二人分の食器を出し始める隣人に、なにも言えなくなってしまう。
 俺はぼーっとして、鍋から煮物をよそう隣人の背中を見つめてしまう。

「あ、じゃあ、運ぶぞ」
「いーですよ。三沢さんお疲れなんですから座ってて」
「けど」
「いいから。私、台所他人にさわらせたくないタイプなので」

 強い口調で言われ、しぶしぶ座り直す。手持ちぶさたになりながら、目の前で作業をする背中を見つめた。

 ほどなくしてサバの味噌煮が運ばれてきた。
 味噌汁に白米、サバの味噌煮、漬け物にサラダがミニテーブルに並ぶ。
 挨拶をして食べはじめる。

「うまい」
「よかった」

 サバにもしっかり味噌の味が染み込み、温かさが喉から胃へと滑り落ちていく。白米の固さもちょうどいい。
 早食いが染み付いている俺も、ついゆっくりと噛み締めてしまう。
 続けて、ワカメと豆腐の味噌汁をずるると流し込む。素朴な味は、いつ食してもうまいものだ。

「うまいよ」
「そう、よかった」
「お前の旦那になるやつは幸せだ」
「そこまでですか? ふっ、嬉しいなぁ」

 隣人はぷっと吹き出した。わりと本気の言葉なんだが、世辞だと受け取られたらしい。
 結婚なんて、料理がうまければそれだけで及第点だ――というのを、離婚したばかりの俺が言うのも説得力がないか。

「三沢さん、食べるの早いですね」
「あぁ……まぁな。クセでつい」
「私はゆっくりとしか食べれないので、すごいなぁ」
「そっちのが健康にはいいよ」

「そうですね」

 隣人と食事をするのはこれで二度目だが、この状況はなんとも言えず奇妙だ。
 家に上がって紅茶とクッキーを振る舞われるぐらいならともかく、眠りこけたあげくに添い寝を――無意識とは言え――強要し、なぜかそのまま夕飯までごちそうになっている。
 これでいいのかと座りが悪い自分と、居心地のよさを感じている自分がいる。
 隣人と居るのは苦ではない――苦であったなら、招かれても部屋になんて上がらない。それは間違いなかった。

「そう言えば三沢さん」
「ん?」
「結局、用件ってなんだったんですか」
「え? みかんのこと?」
「それ以外にもあるんでしょう。三沢さんなにか言いたそうにしてました。言いづらいことでもあるんですか?」
「……」

 目ざとい女だ、と眉をしかめた。
 隣人がドアを閉めようとした時、急に物足りない気分になった。声をかけて引き留めようとしてこらえる様子が、隣人には『言いづらいことを言おうとしている』風に見えたのだろう。

 別に、他に用件があった訳じゃない。
 ただ……せっかく会ったのだからもう少し話したいと思っただけだ。単に一日暇だったから暇つぶしがほしかっただけだが。
 隣人は飯を租借しながら、俺の目をじっと見つめて言葉を待つ。

「……忘れちまったよ、用件なんて」
「あらら」
「そこまで重要な話じゃない」
「ならいいんですけど」

 それきり会話が終わり、二人無言で料理を口に運ぶ。
 誰かが作る料理はうまい。自分がなにもしないで勝手に出てくる料理は格別だ。そう言うと隣人は深く深くうなずく。神妙にうなずくのは、心から同意したときの隣人のくせのようなものだった。

「とてもわかります。結婚はしなくていいから、家帰ってきたときにご飯作っといてくれる人がほしいですもの」
「それもう結婚相手だろ」
「そうですねぇ。家事やってくれるなら結婚してもいいんだけどな。そしたら私仕事頑張りますよー」
「バイト暮らしの人間が相手養うこと考えんなって」

 食事を終え、台所で食器を洗う隣人の背中を見つめる。食事を終えたら早々においとましようと思っていたのだが、腰をあげようとしたところに食後の茶を出されタイミングを逸してしまった。
 なんでこんな……まったりしてんだろうか。俺は。
 食器を洗う水音が心地いい。
 一応俺は客人に当たるわけだから、背を向けて皿を洗うのはどうかと思うが。それがかえって居心地よく、ちょうどいい室温もあいまってこの場所から離脱を困難にさせていた。

「……このようかんも、お前が作ったのか?」
「え? いやぁ、それは市販品です。ようかんは作ったことないなぁ……きんつばならあるけど」
「それもすごいな」
「和菓子は守備範囲外なんですよー」
「そうか」

 振る舞われた緑茶をすすりながら返事をした。
 それにしても、とことん隣人は菓子作りが好きらしいな。おかげでしょっちゅうおすそわけだの差し入れだのという形でおこぼれに預かれるのだから、まったくいいものだと思う。
 きんつば……きんつばも食べてみたいもんだ。

「また余ったら持っていきますね」
「ん……どうも」

 顔に出てただろうか。
 いつしか隣人も皿洗いを終え、目の前でお茶をすすっている。
 何杯めかのお茶を飲み干し、テーブルに置く。
 無言で茶を継ぎ足そうとする隣人を止めて立ち上がった。

「いや、そろそろ帰る」
「わかりました。なんだか一日中いましたね」
「ほんと、悪かったよ」
「構いませんよ。私もぐうぐう寝ましたから」

 俺の心の問題だ。ため息を吐く。

「なんか男手が必要な時は言え。力になる」
「頼もしいですね。模様替えするときにはお願いしようかな」

 玄関まで見送りに来る隣人に、あらためて礼と謝罪をする。
 別れて、隣の部屋の自宅に帰った。
 ため息をつく。
 次の日の準備をして、早々に布団に潜り込む。変な時間に寝てしまったからか、なかなか寝付けない。元々、ここ最近の寝付きの悪さは尋常ではないが――。
 薄暗い部屋のなか、ふとカレンダーが目にはいる。
 11月9日――今日は、そういえば。

「誕生日か」

 呟いてから、一日気づかなかったことに苦笑する。そうして、結果として一人きりの誕生日ということにならなかったことに人知れず感謝した。
 あいつの身体、ほんとに抱き心地よかったな……。自然と隣人を思いだし、そこまで考えてからはっとする。
 一人寝の布団は冷たい。久しく忘れていた二人で眠る暖かさは、得難い充足だ。
 ……ため息をついて起き上がる。
 寂しい男だな、俺も。
 舌打ちをして、眠気を呼び起こすために夜のランニングへと出掛けたのだった。





2014/11/12:久遠晶
遅くなりましたが誕生日おめっとみさわさん