まさかストーカー?



 いつも通り出勤のためにアパートを出る。鍵をかけているとアパート外周の階段から誰かが登ってくる足音が聞こえた。
 踏みしめるような音が誰のものか、考えなくたってわかる。階段から顔を出したのは案の定隣人だった。
 俺を見つけると眠たそうな目が嬉しそうにほそまる。

「あ、三沢さんだぁ。こんばんはっ」
「もう朝だぞ」
「そうでした。おはようございます」

 隣人は俺の前まで来ると深々と頭を下げる。

「今日もお勤めお疲れさまです」
「お前もな」

 差し出すように下げられた頭に手のひらをぽんと置いてしまうのは、条件反射のようなものだ。
 照れたように見上げる視線が、嫌いじゃない。

「いってらっしゃいませ」
「ああ。お前はおやすみ」

 短く返して歩き出す。
 なかば恒例になったやり取りだった。
 生活サイクルが真逆な俺と隣人は、お互いの帰宅と出勤が噛み合ったときだけすれ違う。
 そんなに用があることもないなら、それだけの関係だ。
 結構、心地がよかった。


 いつも通りに訓練をこなし、自主鍛練を終えてからアパートに戻ると、もう辺りはとっぷりと暗い。
 アパートの階段を上っていると、どこかの部屋から男女のいさかう声が聞こえる。安いアパートだから治安はよくない。
 うんざりしながら階段をのぼりきって、そこで足が止まった。

「なぁ……いいだろ? 金貸してくれって」
「そんなお金ないって……」
「んなつれないこと言うなよ~。マジで。な?」

 革ジャンを着た背の高い男が、アパートの廊下からどこかの部屋を覗き込むようにして頼み込んでいた。
 隣人の部屋だった。
 扉に手をかけて閉められないようにした男がしつこく言い寄り、対処に困り果てた声が控えめに拒否している。
 俺の部屋は隣人の奥の角部屋だ。男の後ろを通りすぎねばならないのだが、どうにも邪魔しづらい。
 立ち止まっていると、俺の視線に気づいた男がぎろりと俺を睨んだ。

「ナニ見てンだよ」

 髪をリーゼント風に刈り上げた、ガラの悪い不良だった。
 分かりやすい敵意ある表情に眉をしかめる。
 相手次第では正当防衛もやむ無しか――と対応を考えながらゆっくり歩み寄ると、男はチッと舌打ちをした。

「なんか文句あんのかよ」
「ちょ、ちょっと。お隣さんになに……! わかった、お金貸すから、やめてよもう」

 男が俺に低い声を出すと、慌てた隣人が男の腕を掴む。男の声がとたんに明るくなった。

「やりぃっ。ありがとなぁ~」
「もう、お願いだからこういうことで来ないでよ……」
「固いこと言うなよ、俺との仲だろぉ――」

 男は隣人の部屋に押し掛けるようにはいり、ガチャリと扉が閉まる。間抜けな声が途中でとぎれる。
 隣人の部屋を通りすぎて、自分の部屋に入る。ため息をついて湯を沸かした。

 訳のわからない焦躁が胸を焦がしている。そうめんをゆでながら舌打ちをする。
 隣人の交遊関係なんて、俺にはまったく関係がない。やっかいごとを持ち込まないでくれれば、それでいいはずだ。しかし事態が気になって部屋をぐるぐると歩いてしまう。冷蔵庫の駆動音がいやに耳について不愉快だ
 ややあって隣人の家の扉が開く音がする。思わず俺も玄関に向かい、息をひそめてしまう。安いアパートは壁が薄く、廊下での男の大声が不明瞭ながらも聞こえてきた。言葉もなんとか聞き取れる。

 いいのかこんなに借りて――返さなくっていいって――礼はちゃんとするって――なんかあったら言えよ――

 男の声は浮き足たって間抜けだ。
 やる気なさげな足音が遠ざかっていくのを聞いているだけで、無関係な俺の口のなかに苦いものが広がった。
 居ても立ってもいられず、なかば反射的に扉を開けた。
 隣人の部屋をノックするのにはためらいがあった。俺が話しかけて何になると自問し、答えの出ないまま扉をノックする。

「なに! まだなにか――三沢さん」
「よぉ」
「さっきはすみません」

 乱暴に開いた扉からでてきた怒りにつり上がった目が、俺を見て驚きにかわる。隣人は申し訳なさそうにうなだれた。

「うるさかったですよね。ご迷惑をおかけしてしまって……」
「いや……いいんだけどよ。――お前その口、」

 顔をあげた隣人の、唇の端が切れている。頬はぶたれたように赤く腫れ上がっていた。
 反射的に指で触れる。びくついたように肩を跳ねあげて距離をとる隣人に、俺も手を引っ込める。

「悪い、痛かったよな」
「いえ……まぁ」
「あいつにやられたのか」
「ちっちがいます! なんでもないんです、ほんとに」

 階段の方角をみやると、俺が飛びだしていくとでも思ったのだろうか。慌てた隣人が俺の腕に飛び付いた。
 指が震えているのは冬の寒さなのか、それ以外が要因なのか。隣人の家は暖房がついていなかった。

「これは……転んだって言うか、柱にぶつかったって言うか」
「殴られた傷だろ、それ」

 隣人は気まずそうに口ごもった。視線を泳がせ、モゴモゴと唇を動かす。
 返事より前に、密着していることに気づいた隣人が身を離した。

「すみません」
「いいけど……手当て、自分で出来るか?」
「絆創膏切らしてて。冷やすだけはします」
「そうか。ちょっと待ってろ」
「ちょ、三沢さん」

 扉を開けて自分の家に戻り、救急箱を引っ付かむ。俺の部屋の前で、居心地悪そうに隣人が立っていた。

「大丈夫ですって」
「バイ菌入ったらまずいだろ。化膿したら大変だ」
「でも」
「いいからこっち来て座れ」
「お邪魔するわけには」
「いいから来い」

 強めの口調で言うと隣人はうんざりしたようにため息をはいた。きびすを返して部屋に戻ろうとするのを、手を掴んで止める。

「なにもしねぇって。手当てするだけだ」
「…………三沢さんって、お節介やきって言われるでしょ」
「お前ほどじゃない」

 根負けして玄関に座り込む隣人に、俺も座る。床に救急箱を置いて絆創膏と消毒薬を取り出した。
 消毒薬をガーゼに浸して、ピンセットで口元の傷口に触れる。隣人はピクピクと眉根を寄せた。

「私……三沢さんに、そこまでなにかしましたか?」
「……いや、そうでもねぇな」

 よく晩飯のお裾分けをもらうが、それぐらいだ。たいした関係じゃない。
 ガーゼに血の赤が移っていくのを見ながら、自分がひどくおかしなことをしている気分になる。
 なんでこんなことをしているんだろう。
 こういう感覚は一度や二度じゃない。なんでか二人で焼き肉を食いにいったりなにしたり……隣人と居ると、奇妙な感覚に襲われてばかりだ。決して居心地の悪いものじゃなかったが、今回はどうにも落ち着いていられない。

 言葉は大量に浮かんだ。だがどれも下世話な詮索に思え、声にはならなかった。

「やっぱり優しい人だなぁ、三沢さんは」
「絆創膏貼るから黙ってろって」

 俺の手元に視線を落とし、隣人はぽつりと呟いた。
 隣人に、いつもの朗らかで間の抜けた雰囲気がない。普段覇気のない笑みを浮かべる唇は引き結ばれて、ひどく疲れた表情をしていた。

 絆創膏を傷口に当て、テープを剥がしながら口元に貼っていく。指先が唇に当たると、恥ずかしいのか隣人の頬が赤くなった。つられておれも息がつまる。
 隣人の顔をこんなに間近で見たことははじめてだった。

「ありがとうございます」
「いや」
「ご迷惑を」
「いいよ」

 隣人が苦笑した。絆創膏がよれる。
 二人で立ち上がる。深々と頭を下げる隣人に、むしょうにいたたまれなくなった。

「お前さ」
「はい」

 扉を開けようとした隣人が振り返る。ぱちぱちとまばたきをしながら俺の言葉を待つ。

「……なんでもない。顔、冷やしとけよ」

 隣人はすこし驚いて、それから目尻を下げて笑う。ひきつる唇に眉をしかめながら、歯を見せて。

「ありがとうございます」

 乾いた声だ、とぼんやり思った。


   ***



 次の日の朝、出勤のために家を出る。今日は時間が違うのか、隣人とかち合うことはなかった。
 昨日のことがあったからかなんとなく座りが悪い。妙に、隣人のことが気になってしまう。
 頭を振って考えをほどき、ため息をついて基地へと向かった。

 その日の帰りのことだった。
 薄暗い路地を歩いていると、前方に隣人とおぼしき背中を見つけた。明るい色のジャケットとてこてこした足取りは、恐らく隣人だろう。
 声をかけようとして口ごもる。俺は隣人の名前を覚えていないのだ。焼き肉のときに下の名前を聞いたがうっすらとしか覚えていない。
 隣人の足はとにかく遅い。追い付くときに軽く声をかければいいかと思い直すのは毎度のことだ。
 しかし今回はなかなか距離が縮まない。いつもよりもせわしなく隣人の足音が響く。かといって俺の普段通りに歩く足よりも遅い。じょじょに距離は縮まっていく。
 隣人は小走りになりながらきょろきょろと後ろを振り返った。誰かに追いかけられているような焦った顔が見えて、あげかけた手が固まる。
 誰かに追いかけられている? そんな馬鹿な。
 振り返るものの、明かりの少ない路地に闇が溶けているだけだ。人影は見えない。
 隣人の荒い息づかいとお互いの足音が響き、いやに不安感を煽った。
 昨日の今日だ。もしかするとストーカーでもいるのかもしれない。
 隣人の足音はどんどんと早くなっていく。合わせて、俺の歩調も早くなる。早く追い付いて、安心させてやろう。
 すぐに隣人との距離は縮まっていく。あと10メートルほどになったとき、隣人が急に駆け出した。

「ぉ、おいっ…」

 とっさに俺も走る。
 走りながらちらちらとこちらをうかがう隣人の目は半泣きになっていた。
 まさか後ろに居るのか? 仕事帰りで自衛隊の制服を着る俺を見ても安心できず、不安に駆け出すほどの恐怖。そんなに、あの男に怯えているのか。
 俺が居るから大丈夫だと言ってやらなければ。
 使命感に突き動かされ、速度を早めて一気に隣人との距離を詰める。

「おいっ、もうだいじょう……」
「うわーやめろ変態ぃ!」
「ぬおっ」

 肩を掴んだ瞬間、ハンドバックを横腹に叩きつけられる。痛みはないが予期せぬ衝撃に軽くよろめく。
 隣人は投げたハンドバックが地面に落ちるより先に地面を蹴りあげた。
 曲がり角を曲がって逃げていく――アパートへの道ではない。そっちの道は、確か。

「たったったすけてください!! なんか、へんな、く、くまみたいな!!」
「んあ? どうしたんだいお嬢さん」
「ちっちかんっ、くまみたいなっでっかい人ッ」
「……そのでっかいくまみたいな人ってのは、この人かい?」

 交番の受付けに飛び付いて息を切らせて説明する隣人は、俺を振り返るときょとんと目を丸くした。


   ***


「すみません」
「……」
「ほんとすみません」
「…………」
「ほんっと! すみません!!」
「もういいよ」
「嘘だ、絶対といいと思ってない」

 隣人と並んで帰り道を歩く。ため息をつくとまた謝罪から横から聞こえた。
 困ったようにほほをひきつらせて笑う隣人の顔はまだ青ざめている。昨日の頬の腫れはすこし引いているが、絆創膏には血がにじんでいた。
 俺の制服の袖をつまみながら、隣人は眉を下げる。

「どんだけ俺が怖かったんだよ」
「や、だってこの辺『出る』って噂だし……遠くから見ますとね、迷彩服が暗闇に溶け込んで頭だけ人魂みたいに見えたんですよ。いくら早歩きしても撒けないし……」
「俺の頭はよく光を反射するってか」
「いや別にそういう訳じゃ……」

 困り果てた声に幾分俺の機嫌がよくなる。
 そろそろいじめるのはやめてやるか。

「怒ってはねぇよ。ストーカーでもされてんのかと思って心配したから、そうじゃないならよかったよ」
「……ご心配、どうも」

 袖をつまむ手がきゅっと握りしめられる。

「ストーカー……されてんのか」
「されてたら速攻引っ越してますって」
「そうか?」
「そうですよ! や、女の独り暮らしは危険でしょう? お隣が三沢さんだと安心できていいなぁって」
「あぁ」
「ちょっと職場で変なお客さんに告白されて……断ったあとだったんで」
「うわ」
「もしストーカーとかされたらおんなじとこに住んでるの怖くなりますしねぇ」

 しみじみ言う。俺には馴染みがないが、好きでもない男に家を特定されたり待ち伏せされたり、というのは女にとってよほどの恐怖だろう。
 それこそ涙目で交番に駆け込むぐらいには。

 服をつままれているから、自然と互いに歩幅をあわせる形になっている。隣人の足が早足なことに気づき、歩幅をすこし緩める。
 すると隣人が気を使って足をさらに早めた。

「ゆっくり歩けよ」
「やぁー……はは、すみません。ちょっと全力疾走のあとで疲れてて。助かります」
「お前体力つけた方がいいぞ。遅すぎだ、あんなん」
「ジム通いを視野にいれようと思いましたよ」
「ジョギングしろ」
「はい」

 隣人にあわせて歩く。俺の足が早いことを考えても隣人は亀のように足が遅い。久しく忘れていた景色の変化を感じさせる。
 葉の落ちた街路樹、民家の茶に染まる生け垣。それをぼんやりと眺める。

「今日も寒いですね。さっき暖まりましたけど」
「そうだな」
「三沢さんはそんな頭で、寒くないんですか?」
「寒い」
「毛は伸ばさないの?」
「伸ばした方が寒くないけど……伸ばすとうざったい。一センチも伸びるともうイラつく」
「はぁ、なんか、丸坊主になれた人じゃないとわからない境地ですね」
「だろうなぁ。お前の髪は長いから、手入れ大変そうだと見ていて思うよ」
「でも長いと寝癖にならないから。坊主だと夏は涼しそうですね」
「そうでもない」
「あっ…直射日光」
「オウ。楽だけどな」
「一長一短ですね」
「そうだな」

 ぽんぽんと下らない会話をしながら路地を歩く。隣人が黙りこんだので俺も黙る。
 白い息が暗闇にとけていく。月は雲に遮られて隠れていた。
 寒いですね、と隣人がまた呟いた。寒がりなのかこいつは。

「だからじゃないですけど」

 きゅっと服をつかむ手が強くなる。布地を手繰り寄せるようにうごめいて。

「腕、引っ付いてもいいですか」

 まだちょっと怖いんで。呟きながらすがるようにこちらを見つめる視線に、返事が遅れた。
 おぉ、と言ううめきをいいように解釈した隣人が失礼しますと呟く。控えめに寄り添ってきた柔らかさに困惑する。
 これ、近所に見られたら問題にならねぇかな……。
 離婚していまは独り身だから、で許される話ではないような気がする。そんな関係でもないのが、余計に。

「ほんっとにすみません、一発殺人鬼来るかも、とか、刺されるかも、とか、そういうこと考え出すと止まんなくって!」
「はいはい、素人なら刃物持ってても往なせるから安心しとけよ」
「三沢さんほんと心強いです……あっ! それなら腕つかんでない方がいいですか!?」
「好きにしろ」
「面目ないです……」

 しゅんとしながら俺の腕を抱き締める力が強くなる。厚手のジャケット越しに胸のふくらみが押し付けられてるんだが、果たして役得と思っていいものか。

「お前さ」
「はい」
「胸当たってんだけど」
「へ。あ、あー。すみません」

 腕の力が緩む。それでも腕に抱きつかれていることにはかわりない。

「別にお前がいいならいいけど」
「やぁ、それはさすがに」

 気まずそうにへらへら笑う。しっかりと俺の腕を掴む手は小さい。
 年のはなれた妹がいたらこういう気分なんだろうかと、隣人を見ているとよく感じる。

 ぼんやり歩いているといつの間にか見知ったアパートが見えてくる。隣人はそっと俺の腕から手を外した。
 アパートの階段を登り、それぞれ部屋の扉の前で鍵を出す。

「お前さ」
「はい」
「色々あると思うんだけどさ……」
「はぁ」
「なんかあったら、言えよ」

 隣人は鍵を差した状態で動きを止め、俺を見つめた。次の言葉を待たれ、俺は視線をそらした。
 この街は治安がいいとは言えないが、緑も多くて嫌いじゃなかった。

「お前がこのアパート居ろって言ったんだから、簡単に引っ越すなって言ってんだ」
「はぁ」
「防犯対策とか、相談には乗ってやれるから」
「はぁ……あぁ! ストーカーのことですか」

 隣人が手を打ち合わせて納得する。こっちは結構緊張していると言うのに、クスクス笑って歯を見せる。口元の絆創膏は大きくよれて歪んだ。

「ご心配と気遣いありがとう、三沢さん。いい夢を」
「おやすみ」

 言い合ってそれぞれ自分の部屋へと戻る。
 制服の胸元をくつろげ、ため息をつく。
 いい夢見れたら、独り暮らしもそこまで悪いもんじゃないと思うんだがな。
 悪夢を見てしまうことは半ば諦めている。病院に行った方がいいんだろうかと悩むものの、病院には行きたくなかった。こんな状態であることを誰にも知られたくはない。
 もう一度ため息をついて、カップラーメンを取り出してやかんを火にかけた。





2015/1/18:久遠晶