院長先生の『お気に入り』
一般病棟から少し離れた場所にある閉鎖病棟の、さらに地下。時刻は夜の九時。消灯時間はとうに過ぎた時間帯の院内は酷く静かだ。
それも当たり前だ。
騒ぐような人間はここには居ない。
ここに『隔離』される患者は村の外に暗部に気づいた不穏分子だけだ。頃合いを見計らって処理するゴミの一時置き場のようなものであり、患者で埋まることなど滅多にないのだ。
現在閉鎖病棟に収用されているのはひとりの少女だけだ。
少女を閉鎖病棟に送って、もう四年ほどが経つ。通常、不穏分子は半年も入院させずに『処理』するから、まったく少女は恵まれたものだ。
もっともそれもすべて俺の一存で決まっているわけだが。
音のない廊下を歩き、一番奥の病室をノックもせずに開ける。
真っ暗な室内に廊下の照明が入りこみ、奥に設置されたベッドをぼんやりと浮かび上がらせる。
扉を閉めずに開け放したままで、ベッドまで歩み寄る。病室の照明をつけると夜目になれた瞳が眩しいだろうという、ささやかな配慮だ。
ベッドに仰向けで寝ている少女は首を傾けて、傍らに立った俺を見上げた。
体にかけられていたはずのタオルケットは足に蹴られて下のほうによっていた。
「朝御飯にはいささか早すぎない?」
「風邪を引くぞ」
「暑いのよ」
「足も拘束してほしいのか」
タオルケットを体にかけようとして、一度思いとどまる。上下にわかれた入院着の裾を持ち上げて腹部を露出させた。
廊下の照明がベッドの柵の影を、真っ白な腹に作る。
腹は白い。暴行を受けた形跡は見た目にないが、果たして――。
指先を腹に置くと、少女の腹筋がうごめいて嫌悪を露にした。
黙り込んで耐えていた唇から非難の呻き声がもれる。
「痛いところは?」
「こんな夜中に、ナニ医者ぶって、ん、のよ、犀賀先生」
「ないようだな……」
触診を終えても、なだらかな腹部を触るのはやめない。蒸し暑さに汗ばんだ皮膚はひっとりと俺の指に吸い付いてくる。
くすぐったさに身じろぎしつつも、女が暴れたり叫ぶことはなかった。
その代わり柵に両手を固定するベルトがきしみ、ギシギシと乾いた音を立て続ける。
叫ぶことをしないのは、そうしても助けがないと知っているからだ。
――あまりうるさいと声帯を切り落とすぞ。
いつかの脅しがいまだに聞いているのかもしれない。
両手は拘束されているとはいえ、体をよじることはできる。
俺の手を嫌がる腹はへこんだり戻ったりを繰返し、腰を震わして逃げようとする。とはいえベッドからは出られないわけだから、まったく無意味だ。
くすぐったさに浅く息をもらす微かな音は、俺の耳をすこしだけ楽しませた。
「昼に、他の医者が来ただろう」
「うぁ……? そ、れがどうかしたの」
「なにかされたか」
「くだらない『検査』でしょう。あ、あんたの、その、へんなさわりかたなんかより、よっぽどましだったわ!」
本当になにもされていないらしい。
病院において患者への無体な真似はご法度だが、閉鎖病棟区域の女にはそれが黙認されている。
俺自身は行ったことがないが、外道を行うにはそれぐらいの『役得』があってしかるべきだ。どうせすぐ処理する患者たちへの行いであるし、多少のことには目をつむっている。
だがこの少女のこととなると話は別だ。
俺が多忙な隙に、育ててきたものを摘み取られるのは我慢がならない。
爪を立てて皮膚を抉ると、「ぎっ……」っとくぐもった声がもれた。
「痛いか」
「殺してやりたい」
怒りに満ち満ちた瞳が俺を射抜く。
地下に封印されてから四年が経つというのに、少女の瞳はむしろ輝きを増した気さえする。
少女の瞳は友を憂い、愛し、そしてなにより俺を恨んでいる。
決して狂わず、義憤に憤るこの目に見つめられると胸がすく思いだった。じめじめと鬱屈した羽生蛇村において、この目に見つめられている間は胸を清涼な風が満たした。
それは気をよくして、少女の腹を撫でた。入院着を整え、タオルケットをかける。
枕元に散らばる、四年前よりも長くなった黒髪を手ですいて撫で付ける。
「憎い相手に好きにされて手も足もでないとは、まったく哀れだな」
「そうさせたのは誰だ……ッ!」
「お前だ。美耶古様をたぶらかそうなどと思わなければ、こうして病院に繋がれることもなかった」
「っまだあんたは、そんなことを!」
「美耶古様を助けようなどと思わなければ、お前は今頃陸上の名手だったろうにな」
少女は怒りのあまり吐息が震えている。
挑発がそのまま怒りとなるのだから、まったく反応がわかりやすくていい。
美容の許可はしている。頬に手を滑らせると、それなりに手入れのされた肌がすべらかな感触を伝えてきた。
日の光を浴びなくなって久しい皮膚は白く透き通るようだ。
目元だけがクマが出来て顔色が悪いが、それ以外は美人といって差し支えがないだろう。
かつてのような活力に満ちた笑みがあれば、太陽に照らされるひまわりのように人々の笑顔を掴んだに違いない。
と、頬をたどる指が口許におりた瞬間、少女が大きく指に噛みついてきた。避けるのが間に合わず、人差し指ががぶりと噛まれる。
とっさに指を引くと少女の頭がぐいぐいと揺れるものの、食らいついた歯は離れない。
ざまあみやがれ、と言わんばかりに少女は俺を睨んだ。俺は鋭い痛みにため息をつく。
「そんなに俺の指が欲しいのか……? まぁいい、やるさ」
「っ!?」
指を無理矢理口のなかに押し込むと少女はひどく狼狽した。必死に歯を閉じて侵入を拒む。――が、すでに指は挟まっているし、体重をかけて押し込む力の方が強い。皮膚が破けでもしたか、こすれてひりついて痛む。
指先にコリコリした感触が当たった。食道の入り口だ。構わずさらに指を突っ込むと、指の根本までが挿入される。
熱く滑る感触が心地いい。
少女の喉は俺の指を全力でいやがって閉じる。舌と上顎で俺の指を挟み込んでそれ以上の侵入を拒み、舌をぐねぐねと動かして異物を外へ追い出そうとした。
「おいおい、お前がほしがったんだろう。なんだその目は」
「ぐっ……ぅえっ」
「変わらず反抗的な眼だな……」
構わず、指先で食道の入り口をくすぐる。腹がバウンドして跳ね、喉が粘液を分泌し、奥からすさまじいえづき声が発生する。
「ぅが、ご、おえっおええっ」
「女が出す声ではないな」
顔を振っての抵抗を腕ずくで押さえ込む。生理的に目に涙を浮かべながら、自らの分泌液が鼻に入ったのか少女が蒸せる。体を丸めて咳き込みたくても、咳き込もうと喉を開けた瞬間に俺の指が入ってくるのだからたまったものではないだろう。
足は整えてやったタオルケットを蹴りだし、シーツに大きなシワを作る。
痛みに足が最も反応している。大きくうねり、ふいに足先でタオルケットを真上に跳ねあげさせた。
タオルケットがひらめき、その隙間から肌色がひらめく。
反射的に横にのけぞると、先程まで喉があった位置に少女の爪先が到達していた。少女の足はそこで止まり、俺を止めるには至らない。
「残念だったな」
「ぐ、ごぁ……!!」
腹筋と背筋に支えられた、しなやかな蹴りだ。手を柵に固定された状態で、ベッドを蹴った反発と脚の力だけで放ったにしてはいい筋をしている。当たればそれなりに衝撃があったことだろう。
だが位置を変えてしまえば、もう俺には届かない。むしろ腹筋に力をいれたせいで、胃の逆流が進行してしまう。
指の付け根を食い縛る歯の強さが、増した。
「うご……うげぇっ!」
喉の奥をいたぶり続けていると、眉がじょじょに助けを求めるように垂れ下がる。じたばたとばたつく足がベッドに落ち、痙攣する。
生理的に涙を浮かべながら、気丈に睨み据えていた瞳が、ふっと力弱くなった。逃げ場を探すように視線がうごめき、そして――。
「が、げえぇっ!」
ひときわ大きいえづきののちに、喉仏の脈動。指先に燃えるような熱が触れて絡み付く。
ここまでなぶったものの、そういえば周囲には桶もタオルもない。
ベッドに吐瀉されては、明日のベッドメイキングが大変だ。いたずらに看護婦の仕事を増やすわけにはいかない。
コリコリした食道の入り口をまさぐっていた指をずるりと引き抜く。やっと指責めから解放された少女が息つく前に、その唇を手のひらで覆った。
「飲み込め。ベッドを汚すな」
「んむっ……!! ん、んぅ、ぐっ……!」
今まさにベッドに吐き出そうとしていた少女は目を見開いた。いくら美人でも、涙と鼻水とよだれで顔面をぐしゃぐしゃにしていては台無しだ。
仰向けの体勢もあいまって、吐瀉物で窒息するかもしれない。お構いなしに口を手で覆い続ける。
鼻の方に胃酸がはいれば激痛が走るので、この状況は先程にも増してかなり悲惨だろう。
少女は目を固くつむった。
かなりの逡巡ののちに、喉が上下する。
嘔吐しかけたものを飲み込んだと確認して、手を離す。やっと解放された少女はすぐに咳き込んだ。
体を丸めたくてしかたがないだろう。体をうつ伏せにしようとして、両手を柵に固定するベルトが軋みをあげる。
咳がおさまった頃合いに、ポケットから取り出したハンカチで、様々な体液でぐしゃぐしゃになっている顔をぬぐった。
動く気力もなくされるがままになる少女は、放心して俺を見上げる。
疲れきった瞳は弱々しい。だが光がなくなることはない。
「どうしてこんなことするの……」
「さあな」
少女の壊れる様が見たい。その欲求に大した理由はない。
少女がため息をついた。口の中が苦いのだろう、口をもごもごとさせ、嫌そうに飲み込む。
「先生って浮き草みたい」
「浮き草?」
思わず眉をひそめて聞き返す。その単語はあまりにも、俺の自己分析する像とはかけ離れていた。堅実的で冷静、無駄なことはしない――それが俺の自己認識であり、あろうとする姿だ。
それが、浮き草だと?
思わず眉と唇が変な風にねじまがる。
なにか言うのかと思ったが、少女はそのまま黙り込む。静かに俺を見つめる目は疲れきって弱々しい。だが光が失せることはない。
イライラする。この少女の光は、酷く俺の怒りを掻き立てる。
口の中が唾液で洗われていったのか、苦い表情もいくぶんか安らいだ表情へと戻っていく。
薄暗い室内でみつめあう。そう書けばロマンスのひとつもありそうなものだが、実際はそんな甘い関係とはかけ離れている。
俺とこの少女に間に流れるものは、冷たく苦々しい泥川だ。そうでなくては困る。
「美耶古様の嫁入りが決まった。祭司は俺が勤める」
ふいにそう言うと、少女は目を見開いて瞬きをした。
反応が薄い。
もっと、驚くか怒るかするかと思っていたが。
感情を押さえ込んでいるのか、衝撃で情緒が追い付いてこないのか。
「介添人は……私?」
「……残念ながら違う。介添人になれば勝機が掴めると思ったか?」
「介添人はだれ?」
「お前には関係のないことだ」
「言いたくない人なんだ」
少女は静かに目を細め、唇を吊り上げた。
違う。何故笑う? この少女が今するべき表情は、笑みではないはずだ。
俺は唇を湿らせる。
「……河辺だ。河辺幸江。それが、介添人に選ばれた」
「河辺? ゆきえって、河辺……幸江さん? 看護婦目指してた?」
「ああ」
少女の人間関係は四年前に消滅している。
幸江が看護婦としてこの病院で働いていることを知らないのだ。
記憶のなかの人物と名前が一致したのか、女はふるふると唇をわななかせた。見たかった表情に、わずかに近づく。
「幸江さん……どうして私じゃないのっ? わざわざ四年も生かしておいて、どうして」
「お前には関係のないことだ」
村に若者は少ない。数えで24歳の女は幸江しか居ない。だから幸江が選ばれた。
それだけの話だ。
そうだけの、合理的でシンプルな――。
少女は俺を静かに睨んだ。
不可解なものを見る目が、俺を見上げる。四年間何度もこの目で見つめられた。理解のできないものを蔑み、恐怖し、嫌悪する目。
その目はふいに潤んだ。廊下から差し込む光に反射し、雫が目尻からこめかみに垂れ落ちる。
「そんな顔で、どうして、こんなひどいことできるのよ。幸江さんのっみんな美耶古のことを考えない、普通の子なのに、みんな、」
「手も足もでない人間は哀れだな」
「私がっ泣けば、あんたの溜飲が下がるって訳ねっくだらない、あんたも、村の人たちも、全員、ぜんいっんっ――」
少女は嗚咽をもらした。ひゃっくりで胸を上下させ、言葉をつっかえながら放つのは罵声だ。
理不尽さへの怒りを涙ながらに少女は露にする。
理不尽……。儀式はこの村の掟、裏の風習だ。数百年の間連面と伝わってきた流れは、鎖のように村中を囲っている。
理不尽であるはずがない。この村の一員である以上、逃れることはできない責務なのだから。
はっはという浅い呼吸が病室に満ちる。
少女の反応は俺が望んだ狼狽だったはずだ。それなのに胸の奥に苦味が満ちる。
少女の心が、折れていないから。
ひゃっくりを繰り返す横隔膜を無理矢理押さえつけて、少女は深く息を吐き出した。
目をかたくつむって、開く。
「美耶古は殺させない」
唇を歪めて牙をむき出しにして、少女は言う。
瞳の奥で、鋭いナイフの切っ先のように輝く光は憎悪だ。視線で人が殺せるなら、俺は何度女に殺されているのだろうか。
この女は、本当に――。
「お前はそうでなくては困る」
少女の心が折れる瞬間を見たい。瞳から生気を失くし、人形のようになる少女を見たいと、四年間前思った。
「儀式は明日だ。ここで指をくわえて……いや、唇を噛んでその時を過ごすといい」
「あんたなんか、殺してやりたい!」
その悲鳴は教会のボーイソプラノのように、胸を心地よく通り抜けた。
この少女はまだ折れない。美耶古様の死を突きつけない限り、折れることはないだろう。
儀式の後、美耶古様の御髪をくれてやろうか。それとも、美耶古様が肌身離さず身に付けているマナ字架のペンダントにするべきか。体は燃やすから、手足を渡せないのが残念だ。
……人生で初めて女に渡すものが形見とはなんとも味気がない。
そんなふうに思っていたから、儀式の最中外人に乱入された時――俺の胸にあったのは儀式失敗の焦燥ではなかった。
――あの小娘は、どういう表情をするんだ。ということだった。
儀式の失敗に安堵し笑うのか、あるいは泣いて喜ぶのか。
美耶古様の存命を心から喜ぶことには違いなかった。そのことがなにを意味するのか、知ろうともせずに。
***
「せんせぇ……」
後ろから声がした。
反射的に、振り返り様に散弾銃の引き金を引く。化け物と成った幸江は、笑顔のまま地面に倒れ伏した。
「……幸江」
儀式の介添人として殺した幸江が、化け物と成って歩いている。
おぞましい、と思った。村中の人間を襲った怪異は生存者に付きまとい、人を死ねない化け物へと変える。
この幸江も、しばらくすればまた起き上がるだろう。
――まだ希望は残ってる。気を強く持って――。
つい先程、生存者の外人に投げ掛けられた言葉が耳奥で反響する。
希望。
そんなものがあるのだろうか。
この村にそんなものが最初からあるはずがない。
幸江を殺した時、犀賀家の養子となった時、この村に産まれた時――産まれる前から。
連面と伝わるこの村の風習。それを担う歯車となり、機械が作られた時点で、この村に希望などないのだ。
犀賀家の養子となり、裏の風習を知った。この村に、いい記憶など何一つとしてない。
とっくのとうに、なにも感じない。
「流石に飽きた」
猟銃を口に含んで、引き金に足をかけた。脳が破壊されても化け物になるのか否かはわからない。だが思考は途切れるはずだ。
躊躇せずに足に力を込める。
耳の中、全身で感じる発砲音に、女の悲鳴が混じった。
かすれる視界に、あの少女が映る。
少女は口を開けて、泣きそうな顔で俺を見ていた。
その瞳はまだ強い光をたたえていて、吸い込まれるようだった。
この村でどうして、そんな瞳が出来るんだ。
疑問を口に出す前に、足から力が抜け、視界がぶれる。
地面に崩れ落ちるまでが酷く長い。
――ああ、そうだ。わかった。
少女の目を見て苛立つ理由。
自分が諦めきっていたから、諦めない少女が苛立った。流れに逆らおうとする様子が腹立たしく、諦めさせてやりたかった。
それだけのことだ。
少女にとってはまったく理不尽な八つ当たりだ。
だがもう、俺が少女の目に苛立つことはない。それはお互いにとって良い結果のはずだ。
憎い相手が事切れるのだからもっと喜べばいい。涙を流す少女にそう思いながら――俺の意識は途切れた。
――次に少女と会ったとき、確かに俺は、少女の目を見ても苛立つことはなかった。
好ましい、とすら思った。
流れに逆らう愚かな少女。
なにも考えずに身を任せて委ねれば、至上の安寧が手にはいる。
俺は教会の神父のような厳かな気持ちで、それを教えてやるために少女に向けて散弾銃の引き金を引いた。
2014/9/18:久遠晶