ギブアンドテイクの鬱屈

「服を着たらすぐ出ていくんだな」
「昨日と同じ服着て仕事来ないでね」

 背中越しに放った言葉は同時だった。思わず下着をつける手を止め振り返る。院長殿も同じようにして、背中越しに私を見ていた。
 手を袖に突っ込む途中のタートルネックが胸元で内側にめくれ、背筋が露出している様はなんとも言えず間抜けだ。もっとも、私も同じようなものだと思うが。
 病院の離れにある院長室に泊まりがけで、私たちは何をしているのか。ただれているなぁ、と他人事のように思う。

「俺はしばらくしたら病院に行くつもりだが」
「私はこのまま仕事行くのよ。あなたまで昨日と同じ服だったら、すぐ勘づかれるわ。……それとも、幸江に見せつける?」
「……一旦家に帰る」

 幸江という単語を出した瞬間、仏頂面が苦虫を噛み潰したしかめっ面に変わった。
 恋人の名前を出されていやがるぐらいなら最初からこんなことしなければいいのに、と思う。

 彼にとって私との関係は捌け口で、幸江との関係は拠り所だ。私は『優しい幸江ちゃん』には到底見せられない汚い心根と欲望を叩きつける為のおもちゃ――あるいはオナホールでしかない。

 下着を着けて、脱ぎ散らかしていた服を伸ばした。
 服を畳む時間すら与えられず後ろから貫かれ、床に落としてそのままになっていたワイシャツは盛大にシワになっている。更衣室で同僚に見られれば詮索されるに違いない。
 詮索と言えば、背中につけられているであろうキスマークもそうだ。ナース服に隠れる位置につける程度の理性はあるくせに、院長殿はマーキングをするように私の身体に痕をつける。キスマークは鬱血を通り越しアザのようで、血が出るまで噛みつかれた腕は犬に襲われたようにも見える。
 半分は合意の上だが半分は暴行だ。
 冷静で物静かな雰囲気が素敵、等と言われている院長殿も一皮剥けばなんてことはない。単なる獣だ。
 女が泣いて嫌がる様子に興奮する男。首を絞めながら悦ぶ姿は、確かに幸江には見せられない一面なのだろう。
 代替品は容赦なく使い潰せるから、気兼ねしなくていいのだ。

 それなりに利害が一致しているものの、荒々しい一面にはついていけない。
 院長殿はテクニックも豊富でいらっしゃる。理性的に事に及ぶ限りは、院長殿はそれなりに私を気持ちよくしてくれる。
 持てる技巧を尽くせば女を狂わせることは容易いだろう。幸江にその能力を発揮することをいやがる様子は、母親に拒絶されることをこわがる子供のようだ。
 院長殿の純愛は院長殿と幸江双方の不幸だ。愛情に包まれた情交がもっとも心地よいことは言うまでもないのに、二人は下らない恐怖心でそれを味わえない。
 おかげで私という女がそのおこぼれに預かれる。まるで穢れにタカるハエだ。

「あ、シャワーももう一度浴びた方がいいわよ。幸江って嗅覚鋭いから」
「……」
「でも幸江なら許してくれそうね。センセイのことならなんでも受け入れようと思ってるみたいだから」
「早く服を着ろ」

 つれない返事だ。

 ――私、先生が好きなんです。犀賀先生のことならなんでも受け入れてあげたいんです。
 幸江にそんな相談を持ちかけられたのはいつのことだったか。
 向こう見ずな純情は、薄汚い院長殿でなくとも目を細めてしまう眩しさがあった。その輝きをくもらせたくないと、触れることをためらう心理もわからないではなかった。

 でも院長殿はひとつだけ見落ちている。幸江は院長殿が思うほど清廉な女でもない。

 服を着て、化粧も終えて立ち上がる。

「じゃ、もういくわ。……見送るぐらいはするものよ、先生。幸江にもそうするの?」
「……幸江を家に呼んだことはない」
「呼べば押し倒しちゃうものねぇ」

 嫌味も込めて言う。院長殿はわずかに鼻を鳴らした。利害の一致した関係とは言えど、普段の私たちはそこまで仲がいいわけではない。
 基本的に仕事だけの関係、体だけの関係だ。

 渋々扉の前まで見送りに来る院長殿。時刻は朝の五時で人気はないが、それでも人に見られないかが不安なのだろう。不安に思うぐらいなら最初から院長室になんて連れ込まなければいいのになぁ、とぼんやり思う。

「ねえ、先生」
「どうした」
「……なんでもない」

 意味ありげに笑って見せる。幸江は案外したたかな女よ、などと指摘して水を差すのはあまりに無粋過ぎる。

「そうだ、例の死体の件だが」
「口止めの徹底ね。わかってる、職員に厳しく伝えておきますよ」

 まったく別れ際の会話ではないが、それを気にする関係ではないのだ。

「ああ、そうだ」
「なにかあるのか――っ」

 タートルネックの胸ぐらをつかんで引き寄せてキスをする。強めに押し付けると院長殿のくちびるに赤い紅がついた。

「シャワー、ちゃんと浴びないとだめよ。先生」
「……っ、お前は、まったく」

 不愉快そうに盛大な舌打ちをする院長殿に笑ってしまう。
 怒られる前にさっさと扉を開けて外に出る。

 早朝の白くけぶる空に眉をしかめる。
 性行為ぐらいしか娯楽のない小さな村。閉鎖的な限界集落。マナ教と共に生きる羽生蛇は、この先何代続くのだろう。
 美耶古様の嫁入りはきっともうすぐ訪れるだろう。儀式のあと……きっと院長殿にまた首を絞められるのだろう。
 どんよりとした溜め息は白いもやとなって霧散した。
 美耶古様の嫁入りが終わったら、村を出て外の男と結婚しようか。
 実行する気もないくせにそんなことを考えながら、私は病院へと向かった。
 今日も明日も続くつまらない日々を憂いた。





2014/11/3:久遠晶