役目のはけ口

 好奇心は猫を殺すとはよく言ったものだ。古い時代から伝わる諺は、地方や国を問わず核心を突く。
 好奇心など発揮せず、命じられたことをこなす機械のように生きることがもっとも楽なのだろう。
 理解できても、当時の俺には納得できない生き方ではあった。

「気が済みましたか」

 は赤く腫れた頬を労ることもせず、無表情に首をかしげる。能面のような表情も温度のない瞳もの通常だ。
 犀賀の家に仕える家系なのだとを紹介されたのは、犀賀家に引き取られてすこしも経たないときだった。同い年――五歳の少女には、その年ならば通常持ち合わせているはずの笑顔や無邪気さというものが一切なかった。
 ――お初にお目にかかります。の家のです。
 台本を読み上げるように言い、無表情に頭を下げるが人間に思えなくてひどく恐ろしかったことを覚えている。

 知り合って何年経っても感情の機微が見えない。
 笑ったり怒ったりする場面を、見たことがない。
 だから殴った。犀賀の家に絶対服従するは、俺が殴るとどういう反応をするのか気になった。
 これは確か中学生になったばかりのときで、放課後の教室での出来事だった。開け放された窓から入り込む桜の花びらが、俺の前に立つの肩についたことを鮮明に覚えている。
 男女の差が体格に現れてくる年頃だ。俺は発育のいい方ではなかったが、明確な腕力差は現れ始めていた。遠慮もなく振り上げた手は、よほど痛かったはずだろう。
 殴った瞬間、は確かに痛みに声をあげた。反射的に眉をしかめ、驚いたように俺を見たのだ。しかし、俺がごくりと喉を鳴らす間にいつも通りの無表情に戻ってしまう。
 俺を見上げ小首をかしげるに、好奇心はみるみるとしぼんでいった。

「なんで、怒らないの?」
「怒る必要がありません」

 機械のようだ、と思う。スイッチをいれれば動く。切れば動かない。第三者の意思によってのみ動くのだ。

「だって、いま殴られたんだよ」
「殴られましたね」
「痛いでしょ」
「痛いです」
「なんで怒らないの」

 殴った俺自身がを説得している。言いながら、こんなはずじゃなかったと混乱してくる。
 じくじくとした罪悪感が胸を蝕む。に怒られることでしかそれはぬぐえないのに、は悲しみすら表に出さない。
 信頼や友情を無に帰す行為をしたと言うのに、怒りも怯えも見えないことに困惑した。

「ストレス解消にはなりましたか」
「へ? いや……うん」
「それならばなによりです」

 間を持たせるための相槌を、肯定した勘違いしたがうなずく。
 殴る前よりもモヤモヤがたまったが、本心をしゃべることもはばかられる。俺は拳を握って、口をつぐむ。

ちゃんは、ぼくになにされてもいいの?」
「それがの者の役目ですから」

 台本を読み上げるような声は、いつもよりも沈んでいる気がした。無表情さは変わらず、瞳にはすべてを諦め切った灰色の光が見える。
 ――ぼくとふたりのときには、家の上下関係なんて気にしなくていいんだよ。
 などと言おうとして、たった今手をあげた自分がどの面を下げて言う気だと口をつぐんだ。

 感情も意思も確かにあるはずなのに、それを押し込む態度にひどく傷ついた。築き上げたと思っていた信頼や友情などはじめからなかったのだと気付いた。
 好奇心は猫を殺す。全くその通りだ。少なくともこのとき、俺の中の純情で汚れのない少年は死んだように思う。




「先生……先生」
「ん……どうした」
「お茶をお持ちしたのですが」
「ああ、悪いな」

 不意にかかった声に、俺は現実に、机の上に置かれた緑茶に顔をあげると、能面のような顔があった。院長室の豪奢な家具のなかで、はナース服を着た彫刻のようにも思える。
 何年経っても、は能面のような表情しか浮かべない。笑って見せろと言ったこともあるが、無理矢理張り付かせた笑みは見るに耐えなかった。

 ぬるめの緑茶は俺好みの温度と味だ。
 書類を作成する手を止め、大きく椅子に背を預けて肩をほぐした。

「犀賀家当主も楽ではありませんね」
「お前もな」
「私など」

 書類――書きかけの死体検案書に視線を落とし、がポツリと言う。どうやら下がる気はないらしい。きちんと休憩するまで見張っているつもりだろうか。
 ため息がもれる。命令すれば下がることは、よくわかっていた。

「昔のことを思い出していた」
「そうですか」
「お前のことだ」
「あら」

 は俺を見て小首をかしげた。
 しゃんと伸びた背筋も、ナース服に覆われたたわわな胸も、その下のすらりとした脚もいいからだだというのに、首から上が能面では台無しだ。

「……お前、犀賀家に従うのがの役目だとよく言っていたな」
「話題が飛びましたね。ええ、その通りです。それが私の役目です」

 なにか重要な話でもあるのか、とは俺の座る椅子の隣で膝をついた。俺を見上げて言葉を待つ。
 黙って待ち構えられるようなものじゃない。単なる好奇心だ。

「黙って抱かれろと言われたら従うのか」

 は目をまたたかせた。無表情を装おうとしても、わずかに眉がしかめられ、信じられないといった表情になる。困惑は、深く吐き出された吐息と共に消えてしまう。

「それがの家の役目ですから」

 言葉が返ってくるころには無表情にもどっていた。役目のなかで個を殺す俺たちに意思も友情も必要ない、と言われているようで不愉快になる。
 二人きりのときに身分差を持ち出すことは不粋だ。楽にしていい、本当の自分を出していいのだと思い続けて口をつぐみ続けた。


 個を殺して役目のなかで思考停止することは楽な生き方だ。子供の頃納得できなかった考えを、いまの俺は迎合している。
 迎合しているくせに無用な好奇心を発揮させる。それはもはや憂さ晴らしだ。
 かつての犀賀の男たちと変わらず、の家の者を使い潰している。
 個を殺すストレスをぶつけられたは、どこでストレスを発散させるのだろう。溜め込むしかないのだと理解しているくせに、俺はくちびるを濡らした。

「来い」
「……わかりました」

 静かに答え、は俺に身を寄せる。下から覗き込むようにしながら唇に顔を近づけるに顔をしかめた。
 素を隠しているくせに、幼馴染みの素を暴こうと躍起になる俺はひどく滑稽だ。

 太ももに添えられた指から、ズボン越しにでも氷のような冷たさが伝わってくる。

「キスするときぐらい目をつむれ」
「はぁ」

 得心の言っていない間抜けな声を出す。命じられるがまま瞳を閉じたの顎を掴み、唇に触れる。

 胸を焦がすような熱さと柔らかさは、彫刻や能面、作り物を連想させるには似つかわしくない。生きているなら当然の、血の通ったぬくもりに驚いた。
 ゆっくりと唇を離す。既には目を開けて、じっと俺を見つめていた。心なしかその目は大きく開かれ、ポカンと口を開けてすらいる。

「あなたにも体温があるんですね」
「なにを、バカなことを」

 考えを言い当てられたような気分になってぎくりとした。ごまかすように鼻をならす。
 どこか感心したような言い回しの言葉に、ひょっとして俺たちは全く同じ気持ちだったのか、と思った。
 間近で見るの顔は心なし赤らんでいて、目も潤んでいる。目を背けるのは恥じらいゆえか屈辱故なのか、わからない。

「こっちを向け」
「……はい」

 命令すれば俺を視界におさめる。の目に俺は、どのように映っているのだろう。恐ろしい犀賀家という化け物なのか、あるいはひとりの犀賀省悟として見ているのだろうか。

「あの……どうですか」
「ん?」
「私の体は性欲処理に使えそうですか」
「……っ」

 くっ、と苦笑が唇から漏れる。ぎこちなく訊ねる姿はどう見たって緊張している。心配する様子は、通常の恋愛関係ならばいじらしくてたまらないはずだ。

「お前の旦那は果報者だな」

 色も熱もない言葉だった。
 の言うように、これは単なる発散のための行為だ。それ以上でも以下でもなく、他に目的もない。喉が焼け付くような情動を感じながら、引き寄せられるようにもう一度唇に触れる。
 好奇心は猫を殺す。しかし好奇心など発揮しなくても、己を殺し続けることしかできない人生だ。押し付けられた役目と犠牲のなかで、すこしぐらいの役得があってもいい。そのはずだ。
 せめてなるべく気持ちよくしてやろうと思いながら、の身体を抱き締める。
 背中に回される震えた指に同情する。憐れみながらも止める気がない俺は、血筋の正統性などなくても立派な犀賀の男だった。





2015/1/18:久遠晶