地獄の中で


 はっきりと言ってしまえば、俺との関係は最悪だった。
 二十年以上の付き合いがある幼馴染と言っても、そこに友情など存在しない。
 無理矢理組み敷いた俺をが拒まなかったのは、そこに上下関係が歴然と存在していたからだ。
 ──あとでちゃんとピル処方してくださいね。
 ──犀賀家のサポートが私の家の役目です。全うできるようにしてください。
 乱れた衣服を整えながらの言葉はレジ打ちの店員のように事務的だった。
 惚れてもいない男にいいようにされて、本心は穏やかではないはずだろう。それを押し殺して、人形のようには俺に振る舞った。

 村を怪異が襲い、あらゆる機能を失ったなかでも──俺への恨みは消えていないはずだ。
 そう思っていたから、バケモノに襲われた俺をが助けたときは正直言って驚いた。

「なに、バカ面してるんです。あなたもそんな間抜け面なさるんですね」

 はそう言い、血と髪の毛がこびりついた金ヅチを肩に担いで快活に笑った。
 弾丸を装填中に、背後からバケモノに襲われた。刃物が振り下ろされる寸前にバケモノの頭を破砕したは返り血でべとべとに汚れている。
 真っ白なナース服を赤黒く汚して微笑む姿は、この日何度も見た終末を連想させる。

「怪我はない? 犀賀院長」

 嫌味たらしく『院長』と俺を呼ぶ声は生気に満ちている。
 周囲に発散されている殺意は俺個人に向けられたものではなく、血を見て興奮状態になっている──と判断するべきか。

「……お前、生きていたのか」
「お陰さまで。病院を抜け出すのが一番厄介でした」

 は自らの腕を指し示した。鋭いもので深く引っ掛かれたように、赤い線が引かれている。

「後ろから同僚にハサミで襲われた時は心臓が止まったわ」

 わざとらしいしぐさではため息を吐く。今はなかばかさぶたになっているようだが、当初は血が止まらなかったことだろう。

「んで、あなたはなになさってるの」
「お前は」
「一応生き残りを探してます。……あなた、儀式で殺し損ねたんでしょう、美耶古様を。まさかこんなことになるなんて、犀賀の家は責任重大ですよね」

 は目を細めてくちびるをつりあげる。
 心底嬉しそうに笑う。
 能面のようだった顔に生気のある表情が浮かび、俺はが笑みを浮かべるところを初めて見た気がした。

「お前も運命に抗う気か」
「当たり前でしょう。もう村なんてあってないようなもの……しがらみにとらわれる必要はありませんから」
「村は赤い海に沈んだ。もう、もとの世界に戻るすべは──」
「あなたのそういう諦めのいいとこ嫌いじゃないですが、他人を巻き込まないでよね」

 あきれたようにが眉をはねあげる。
 分厚くくもった空に眩しそうに手をかざし、は太陽を探すように睨んだ。

「三十年……三十年です。狭苦しいこんなところで、村の掟にしばられて。やっと解放された。最後まで逃げ切ってやるわ」

 獰猛な目だ、と思った。獲物を狙う獅子のように瞳を爛々と輝かせるは、今まで見てきたどんな時よりも活力に満ち溢れている。

「この村はもうおしまい。ふふ、犀賀先生は幸江を殺し損ですね」

 突然の単語にくっと息がつまる。表情は変えなかったつもりだが、は俺を見て嬉しそうに目を細めた。
 嫌みのない屈託の笑みを浮かべて、俺の顔をのぞきこむ。

「二十五年間あなたに仕えてきたけど、久しぶりに見たわ、犀賀先生のそんな顔。人間味のある顔、できたんですね」

 やってやったと言わんばかんばかりの言葉に鼻白む。
 二十五年前、犀賀の家に引き取られた俺は義理の両親からこのを紹介された。犀賀の家に仕える家系、ゆくゆくは自分がに指示を出すようになるのだと──そんな説明をされても意味不明だったことを覚えている。当時からは能面のような顔をしていて、それが五歳の俺には恐ろしかった。
 いつしか俺からも表情が消え失せていた。そんな俺がたじろいだことが、よっぽど面白いらしい。
 はひとしきり笑うと、周囲に視線をやった。

「とりあえず私、学校行って生き残ってる子供がいないか探して……それで、村から脱出してみます」
「そうか」
「ええ。犀賀先生もせいぜいお元気で」

 言いながらが血濡れの金槌を勢いよく振る。地面に赤い飛沫が叩きつけられ、俺のジャケットにまで血が飛んだ。
 眉をしかめると、すでに返り血で汚れているくせにとまた笑う。

 じゃあ、と会釈しては俺に背を向ける。ナースサンダルの足音を響かせるの足取りはしっかりとしてぶれない。
 一寸先が見えないような霧のなかに、が溶けていく。

「省悟だ」
「ん?」
「省悟だ。俺の名前」

 振り返ったはきょとんとして俺を見つめた。ぱちぱちとまばたきする瞳はあどけなく、年齢よりも幼く見える。

「なんだ、お前だって人間味のある顔出来るじゃないか」
「……言ってくれるわね、省悟」

 くちびるを吊り上げる嘲りではなく、わずかに口許を緩ませては微笑んだ。
 俺も応えて、ぎこちなく笑ってみせる。ぴくぴくする表情筋は間抜けな表情になっているのだろう。俺自身がその事に笑いたくなった。

「それと。お前の惚れていた男……中島と言ったか。もう、死んでる」

 遠い位置にいるに、声を張り上げる。

「俺が二度三度殺した」
「……そう」

 は微笑を浮かべたまま目を伏せた。その情報を渡すことに罪悪感はわかなかった。心の、殻を被りきれずに柔らかい部分に土足で触れたのはが先だった。
 子供じみた意趣返しだ。

「大丈夫。私、その人には惚れていないから」
「……そうか」

 微笑むに相槌を打って、俺もに背中を向けた。
 猟銃を握り直して歩みを進める。
 滅んだ村への郷愁──しきたり──課せられた役目と義務。思いを馳せていると目の前に化け物が飛び出してきた。
 ため息をついて猟銃を構える。
 顔見知りを殺し続けて終わらないのであれば、俺も流れに逆らって見るのも悪くないのかもしれない。極限状態で活力を取り戻した幼馴染みの顔を思い出しながら、化け物の眉間を撃ち抜いた。





2016/07/24:久遠晶