光忠の身体を触るだけ
奥手で男性と話すことのも苦手だった私が、まさか審神者に召し上げられて、刀剣男士と暮らすことになるとは思っていなかった。
気乗りはしなかったけど、政府から何度も要請があり、半ば強制的に本丸に居を移すことになった。私のような一般家庭の女子高生、それも霊力が強いわけでもない身を審神者にするなんて、よっぽど政府は人手不足なのだと思う。
私が直接戦うわけじゃないのは、救いだけど。
でもやはり、刀剣男士が人じゃないと言っても怪我して帰ってくれば心苦しいのだ。
審神者になっての一年間は本当に怒涛だった。初期刀の加州くんと一緒にがむしゃらになって働いた。
動くのは刀剣男士とはいえ最終的な決定権と責任は私にある。戦術から部隊員の相性、本丸のことまで必死に勉強した。
毎回毎回大怪我させていたのが、徐々に重傷から中傷、軽傷で済むようになって、無傷で帰ってきてくれた時には当時近侍だった長谷部さんと抱き合って喜んだものだ。
審神者になって一年と半年が過ぎ、へっぽこ新人審神者の本丸も、なんとか安定してきた。でも油断はできない。今後も本丸の基盤づくりに勤しまなければ──そう、思っているんだけど。
「主、報告書、終わったぜ。確認と捺印頼むー…ったく、こんなこと俺にやらせんなよ」
「同田貫さん。あ、ありがとうございます……」
執務室に入ってきた同田貫さんが、私の机にバサッと出陣記録の書類を置いた。その粗野な仕草に身体がびくつきそうになるのを堪える。
ぶわりと汗が滲んだ。
今までは平気だったのに。
本丸が安定して、心に余裕が出てしまったのか。
今まで忘れていた、男性恐怖症がぶり返してきているのだ──。
刀剣男士は、男性の形をしているけど付喪神だ。人間じゃない。そんな方達を人として捉え、挙句に怖がるなんて、酷い話だと思う。
彼らのおかげで今の私がいて、私のために戦ってくれる方々なのに……。
だけどどうしても、視線を合わせられない。近づかれると身がすくむ。心臓がバクバクして恐ろしい。
短刀や脇差とかの、背の低い方たちならいいのだけど、背の高い方たちだと本当にダメだ。頭が真っ白になる。
今までは普通に話せていたのに急に私がうろたえるものだから、刀剣男士の皆さんも困惑している。
「何かあったのかい、主。最近、いつも顔色が悪いけど」
朝。光忠さんは執務室に入るなりそう言った。
この本丸では近侍は希望者の持ち回り制だから、ずっと言う機会を伺ってたのかもしれない。
「……何もありませんよ。ただ、これからのことを考えていて」
「それだけじゃない、だろう? これからの不安なんていつものことなんだから。それ以外にも悩みがあるんだよね」
執務室の扉を後ろ手で閉めた光忠さんが、歩み寄ってくる。椅子に腰掛けて今日の執務の準備をしていた私は、思わず気圧される。
近づいてくる大きな身体が怖い。逃げたい。だけど逃げたら失礼だ。がんじがらめになって、結局椅子に座ったままになってしまう。
そんな私の前に、光忠さんは膝を着いた。
正座で椅子の横に座って、私を見上げる。
「僕で良ければ、相談に乗るよ。話ぐらいなら聞ける」
「あ……」
朝焼けの色をした目が、まっすぐに見つめる。
なにも言えないでいる私に、光忠さんは困ったように笑った。肘掛けに置いていた手を、そっと包む。両手で握り込まれ、その手のぬくもりに息が詰まった。
「そんなに怯えないで。僕らはちゃんと、君の元に帰ってくるから」
優しい声だった。手の甲をさするのは緊張をほぐしたいからで、それ以外の含みなどないことがよくわかる。
「……僕らのことが怖くなっちゃったかな? 人の形をした刀が切った張ったの大騒ぎ、どんな怪我も手入れすれば直る――なんて、ちょっと怖いよね」
「え? ……ち、違います!!」
酷い勘違いをされていることに気が付いた。
光忠さんは急にみんなと距離を置くようになった私を、『刀剣男士が怖くなった』と思っているのだ。それはちがう。断じて違う。
慌てて椅子を引いて立ち上がり、光忠さんの前に座り込む。膝を突き合わせて正座する。
「み、みなさんが怖くなったとかじゃないんです! みなさんのことは感謝してますし尊敬していて……えぇと、そう! つまり、『格好いい』って……思ってます!!」
光忠さんの手を握り返した。
男性としては怖い。本当に。私よりも一回りも二回りも大きな身体が怖い。なにをされるかわからないというか、私なんかその気になれば一捻りで潰されてしまう体格差に恐怖がある。……付喪神である刀剣男士に対してのほうがその恐怖は強くなるはずだと思うのだけど、刀剣男士は怖くない。
人間を慈しんでくださっていると、わかるから。
だから光忠さんの大きな手を怖いと思ってしまうのは、私の問題だ。
「わ、私の問題なんです……。なのに私、みなさんに心配かけて、ごめんなさい。へっぽこで、早くみなさんに心配かけない、強い審神者になりたいのに」
「主、泣かないで。……訳を聞かせてくれるかな?」
「う……」
あまり言いたくはなかった。絶対呆れられてしまう。だけ私を覗き込む光忠さんの優しい目に勇気づけられて、私は口を開いた。
「私、男の人が苦手なんです……」
「男の人が苦手……?」
こくりと頷き、語る。
それは生来の引っ込み思案に起因するのだろう。小学生の頃、クラスの男子にいじめられたことが尾を引いてもいる。近所のお兄さんにいたずらされたからかもしれない。あんまり思い出したくない。
とにかく自分は背の高い男の人が怖いのだ。
男の人の全員が全員悪い人ってわけじゃない。それはわかっているのに、近づかれたり触られると本能的に身体が竦む。怒鳴り声なんか聞いた日には小一時間心臓がばくばくしっぱなしになる。なにも喋れなくなって、頭真っ白になって、背中に汗を掻いてしまう。
「み、見かけで判断してるって自分でも思うんです。だけどどうしても怖くて。男の人だっていいひとは当然いるし、女の人にだって悪い人もいるでしょう。でもそういう問題じゃなくて、とにかく男の人が……造形が……怖くて」
「主……」
光忠さんは私の説明を遮ることなく、じっと黙って聞いていた。
はぁはあと肩で息をした私が言葉を止めると、光忠さんはおろおろと困った顔をした。
「そんな事情とは知らず、今まで無遠慮に話しかけたり近づいてしまってごめん。えぇと、そんなに苦手ならこの距離も怖いよね? どうしよう、離れたほうがいいかな」
「あっ、だ、大丈夫、です」
腰を浮かす光忠さんの手を掴んで止める。
手汗が噴き出てじっとりと汗ばんでいる。光忠さんが手袋をしていて幸いだった。
「お伝えしたように、刀剣男士の皆さん、自体は、怖くないんです……心苦しいですけど、どうしても」
「そうか僕らの本体である刀も僕ら自身も怖くないけど、人の形を取っている以上、男性が怖い以上僕らも怖いと……」
「うぅ」
改めて要約されると心苦しい。刀剣男士からしたら、理不尽なことこの上ないだろう。
居た堪れなさにスカートの裾をギュッと握った。そんな私を見下ろした光忠さんは、不意に内番服のジャージを脱いだ。そのまま、黒いTシャツまでも脱ぎはじめる。
「えっ、えっ!?」
起伏の激しい腹筋が見えたと思った次の瞬間、胸筋があらわになって、光忠さんが上半身裸になった。突然のことに目を逸らすと、優しい声がかかった。
「主、僕を見て。この身体はね、主を傷つけるものじゃない。主を守る身体だよ」
「み、つたださん……」
「怖いのは、きっと男性の身体をよく知らないからだよ、主。触って、見て……ちゃんと知れば、怖くなくなるよ」
光忠さんの手が私の手を掴む。手袋越しだから怖くなかった。そのまま、光忠さんの筋肉へと誘われる。
「触ってごらん」
許可が下りて、私はそのたくましい体に──触れた。
まずは二の腕の盛り上がった部分に、ちょんと触れる。筋肉は硬いイメージがあったけど、意外にも弾力があり、指を押し付けるとふよんと沈み込んだ。
「暖かい……」
「今は人の身だからね」
「意外に柔らかいんですね、筋肉って」
「硬くも出来るよ。そうしようか?」
「じゃ、じゃあお願いします」
躊躇いつつもお願いすると、光忠さんが腕を曲げて、ギュッと拳を握り込んだ。その途端に二の腕がむくむくと盛り上がる。ただでさえ太い腕に、筋肉のこぶが出来たのだ。
「わぁっ、すごいっ……!」
「主にはまだ早かったかな? 怖くない?」
「だ、大丈夫……なんていうか、感動します」
「そう? よかった。腕だけじゃなくて、別のところも触っていいからね」
そう促され、わたしは腕から腹筋へと狙いを変える。キャタピラのように段差が続く腹筋は、二の腕とはまた違った感触だった。
内臓を守る堅牢な筋肉の鎧に指を這わせると、ふよんと沈み込んだ。
こっちも柔らかい。感動した瞬間、光忠さんが力を入れるので、すぐに押し戻されてしまった。
「わぁ、凄く硬い。この中に内臓が詰まってるんだ……」
「人の身体だからねぇ」
光忠さんが力を抜くので、また腹筋に指が沈む。
身体に触れる不躾な私の指を、許してくれているのだ。
「確かに、こうして触ってると、不思議と、そんなに怖くない、ような……」
緊張して息もできないぐらいなのは変わらずだけど、何をされるか分からない、殴られるかもしれない、という本能的な恐怖は鳴りを潜めている。
光忠さんが手を床について上体を支えることで、害意はないことを案に伝えてくれているからかもしれない。
「よかった。ねぇ、主、抱き締めてみて?」
「えっ!」
「おかしなことじゃないよ。手入れの時、いつもそうしてくれるだろう?」
「でも、それは本体の刀だから……」
「変わらないよ。僕らの本質は」
そう言われると断れない。
恐る恐る膝立ちになって、光忠さんの肩を掴む。
「やっぱり抵抗が……」
「大丈夫だよ。なにもしない。なんなら、僕の手を縛ってもいいよ」
それはそれで倒錯的だ。
困ってしまうのだけど、私を見つめる光忠さんの目はどこまでも優しい色をしている。
光忠さんは筋骨隆々だし背も高い。本当なら私が一番苦手なタイプなのだけど不思議とそこまで怖くないのは、この目の作用だと思う。眼帯も作用してか、視線を合わせることへの抵抗が他の人よりも薄い。
物腰が柔らかくて、優しくて、とても頼りになる私の刀剣男士。
それなら、恥じらう必要なんてない……のかもしれない。
意を決して、光忠さんの首に手を回す。大きな身体を抱き締めた。
上半身が密着する。光忠さんが上裸の為か、体温が良く伝わってくる。ドクンドクン、と穏やかな心音。私の耳と光忠さんの耳が触れ合って、髪の毛が触れて微かにくすぐったい。
「光忠さん、おっきい……」
「主が小さいんだよ」
光忠さんの苦笑が間近に聞こえてくる。
こんなにすぐそばにいる。密着している。男の人と……。そう思うと、心の奥底から恐怖が湧き上がりそうになる。
だけど。
相手は光忠さんだ。
そう思うと、波立そうになった心の水面が、ほんのわずかに収まった。
大きな背中を撫でる。盛り上がった肩甲骨、背筋を辿る。
これは、私を傷つける身体じゃなくて、守ってくれる手……。
緊張しきった体がほんの少し緩んだ。
力を入れると鋼のように硬くなるのに、その時以外はマシュマロのように柔らかい筋肉。その暖かさに息が漏れる。
なんかこれ、癒されるかも……。
「主、寝ちゃうの?ふふ、いいよ。最近寝れてなかったものね」
光忠さんの手が、ぎこちなく私の背を撫でる。
おっかなびっくりで、私を怯えさせまいと気を使う触り方だ。
だから私も怖がらずに済んだ。
まぶたが重くなって、思考がふわふわしてくる。
……。
「……るじ、主」
「ふぁっ」
肩を揺り動かされ、ハッとする。いつのまにかぼうっとしてしまっていた。慌てて光忠さんから身体を引き剥がす。
「ごめんなさいっ、うとうとしちゃって」
「もうそろそろ夕餉の時間だよ。眠いなら、ご飯を食べずにこのまま寝てしまうかい?」
「えっもうそんな時間ですか?」
部屋が暗い。思わず壁掛け時計を見やれば、光忠さんと話し始めてから二時間近く経っていた。
「すみません、私……!」
「いいよいいよ、気にしないで。寝不足だったんだよね? むしろ、眠ってくれて嬉しいよ。それだけ僕を信頼してくれてるってことだろう?」
本当に、僕らは怖くないけど男の身体が怖いだけなんだね、と光忠さんが笑う。私は恥ずかしくなってしまって肩を竦めた。光忠さんは嬉しそうに手を持ち上げて、私の頭を撫でようと──。
「ひうぅっ!」
「……」
「ご、ごめんなさい…………」
「いいよ。少しずつ慣らしていこう」
肩を跳ねて距離を取る私に、光忠さんは寛大に笑った。
2021/06/12:久遠晶