夜に咲く花



 夜道を照らす提灯の橙色を受け、鮮やかに藍色の浴衣が浮かび上がる。普段よりすこし空いた胸元、きれいに飾りつけられた髪型。
 紅を引いているらしい真っ赤な唇がきゅっと持ち上がり、くりくりとした瞳が井尾谷を見つめる。
 クラスメイトの変貌を直視できず、井尾谷の視線はさまよった。

「どーよ、井尾谷」
「ま、馬子にも衣裳、じゃな……」
「井尾谷はいつもと変わんないね。こっちは努力してるんだからもっと褒めてよ」
「ウッ」

 けろりとした顔できつい一言を言われ、井尾谷は呻いた。黒いTシャツとジーパンは普段使いの私服で、おしゃれさのかけらもないことは指摘するまでもない事実だった。
 もうすこし、まともな服を着てくればよかった。羞恥と共に落ち込む。
 夏祭りなど本当は行く予定がなく、いつものようにロードバイクを走らせるだけで一日を終える気だったのだ。
 それがなぜこうして祭りの中心部である商店街にいるかと言えば、親友待宮に誘われたからだった。

 ――インターハイも終わったんじゃ、最後に自転車以外で夏らしいことしとかんともったいないぞ、井尾谷。
 ――べ、べつにワシャええよ。男二人で夏祭りとかサムすぎてやってられんわ。

 一度は断ったものの親友の意思は固く、なかば無理やり祭りまで連れてこられた。だというのに待宮とは早々にはぐれてしまったのだからやってられない。
 待宮を探して屋台に囲まれた道を歩き、クラスメイトの少女と鉢合わせしたのだ。
 そこまで説明すると、少女は口を開けてころころと笑う。普段であれば豪快なだけの笑みも、浴衣を着ているとどことなく上品に思えてしまうから不思議だ。

「誘う女の子、いなかったんだ。待宮も井尾谷も奥手だねぇ」
「うっさいわアホ、ほっとけ」

 いつもの軽口もぎこちない。誘ってもこないと思っていたのだ。最初から諦めていた。
 目の前の少女は佳奈の親友だったから。

 待宮がインターハイのためにわざと佳奈ときつい別れ方をしたとき、少女はひどく憤慨した。
 待宮の真意を説明するべきか当時井尾谷はひどく悩んだ。それでも待宮の胸中を思えば、井尾谷にできることは共にインターハイに向けて自分を追い込むことだけだった。井尾谷は、親友の覚悟をくみ取って共に走り、そのために少女と佳奈との繋がりを犠牲にした。――待宮と同じように。

「ていうか、好きなコいないの井尾谷? あ、でもいままで恋愛するひまなかったか」
「ほっとけ」

 ため息まじに少女に返す。
 一年ぶりのまともな会話だが少女の態度は以前と変わらず、それが井尾谷をかえってぎこちなくさせる。

「そういうお前こそどうなんじゃ、そんなにめかしこんで誰と待ち合わせじゃ。化粧までして……」
「ああ、これ、佳奈ちゃんにやってもらったの。最後の夏なんだから、めかしこんでナンパでもされて来いって」
「ナンパ……」
「いや~私も運動部でしょ? 恋愛とか二の次だったからさぁ、まわりがうるさいんだよね……最後の大会終わったんだから、彼氏ぐらい作れって」
「ほ、ほう」
「危なそうじゃない人に話しかけられたらついてってもいいかなと思ったんだけど、あいにく収穫ゼロ。やっぱ、私がおめかししても意味ないよね」

 笑いまじりに肩をすくめる少女に、井尾谷の脳裏でにわかに警報が鳴り響いた。
 今日待宮に誘われ、たまたまこの場所で少女を見かけなければどうなっていたのか――想像すらしたくなかった。
 警戒心の薄い少女は変な男にもホイホイとついていきそうだし、少女があらがっても男数人で押さえつけられたら抵抗できるはずがない。
 この辺の治安は、決していいわけではないのだ。
 部活に高校生活をささげ、実直に邁進してきた少女は、男の汚い欲望など想像もできないのだろう。

 いまこうして屋台へと視線をそらしている井尾谷が、少女の浴衣姿にどんな妄想を抱いたのかだって、少女はわかっていないに違いない。
 部活以外目に入らない集中力をイチスポーツマンとして尊敬しているのは事実だったが、無警戒さにやきもきするのも確かだ。
 少女のひたむきな純粋さが他の男に汚されるのだけは我慢がならない。

「……しゃーない。じゃ、ワシがナンパしちゃるよ」
「へ?」
「誰からも声がかからんのじゃろ。ワシが今日一日付き合っちゃるよ。かわいそーなに好きなもんおごっちゃろう」

 思わずひっくり返りそうになりながら、それでもどうにか平静を装って口にする。
 一年前、井尾谷は決別のつもりで少女にひどい言葉を投げかけた。果たして少女のなかで当時の出来事はどのように片付いているのだろう。すべてが終わっても、今更ほじくり返すのもおかしい気がして触れられない。
 井尾谷の悩みなど知ってか知らずが、『おごってやる』の言葉に少女はぱっと目を輝かせた。

「ほんと! いくいくー! 私、焼き鳥食べたい!」
「そこはせめて綿あめとかりんごあめとか、そういうかわいいもの選べよ。お前がモテない理由ようわかるわ」
「私がかわいいもの選んでもなぁ~」

 井尾谷の照れ隠しに、少女が嬉しそうに笑う。井尾谷はどうしてこんな言葉しか投げかけられないのかと、内心で頭を抱えた。
 ずっと男友達のような関係だったから、恋心の自覚の戸惑いからまだ覚めきっていないのだ。
 口八丁手八丁と言った具合にぺらぺらと口が回る親友に井尾谷は呆れていたが、この時ばかりは待宮の二枚舌がうらやましくて仕方ない。

 道に沿って、屋台を覗いて歩いていく。人の群れに少女がぶつかり、井尾谷の肩に頭が当たった。
 シャンプーの香りがふわりと香る。腕にもたれかかる少女の体の柔らかさに、井尾谷の体は瞬時に硬直した。
 ぶつかってごめんねと謝る少女に、井尾谷は何も言えない。黙って歩く位置を変え、少女を歩道側に追いやることしかできなかった。

「……気ィつけぇや」

 上擦りそうになりながらどうにかそれだけ口にする。手を握ることはできず、手首をつかんで引き寄せた。
 手汗はひどくないだろうか。蒸し暑さと緊張で頬が熱いが、汗臭くはないだろうか。そんなことばかりが気にかかって、なにか話さなければと思うのに言葉が出てこない。

「ありがと、えへへ」

 井尾谷に手首を引かれ、少女は嬉しそうに笑う。照れたような笑い声が耳に残る。

「こうしてると私たち恋人同士に見えるのかなぁ」
「うっさいわ、アホ」

 反射的に手を離しそうになって、どうにか手首を握ったまま耐える。
 ――恋人同士に見えてたらどうするんじゃ、コイツ。
 少女は嫌がる兆しを見せないが、言葉の意味を理解しているのだろうか。元が脳ミソ筋肉みたいなスポーツ少女だから、どこまでの意味があるのか、わかっているのか想像もつかない。
 自分に気があるんじゃないのかと思っても、どうせなにもわかってないんだろうと思うと素直に喜べないしときめけない。
 ――ホンに厄介な相手に惚れちまったもんじゃ……。
 空いているほうの手で頭をがしがしと掻きながら、井尾谷は後ろを振り返った。
 てっきり無邪気な少女の瞳と目が合うと思っていたが、予想に反して少女はうつむいていた。
 耳まで赤くしてうつむく少女の白いうなじが露出している。

「っ……!」

 井尾谷は一瞬ひゅっと息を吸い込んだ。なぜ顔を赤くして照れているのだろう。井尾谷が手首をつかんだからか、自分で言った言葉にか。
 あまりに予想外すぎて反応に困る。どくどくと心臓がせわしなく動く。井尾谷も少女とおなじように耳まで染めて、息をひそめて屋台の道を歩いていく。
 祭りの喧噪など、耳に入らない。
 意を決して手首から手を離し、その下の手のひらを握る。少女はきゅっとちいさく握り返してきた。

 手のひらのぬくもりがむずがゆすぎて、世間話などなにもできない。
 本命には意外に奥手な待宮を誰よりもからかって茶化していたのは井尾谷だが、もう待宮をいじることはできないなと思った。
 今なら佳奈に手を出せない待宮の気持ちがわかる。
 惚れた女のかわいい姿を見て、胸がいっぱいにならない男などいない。
 スマートに対処できる余裕など、まだまだ井尾谷にはなかった。

「見えとるんじゃないか」
「え?」
「恋人同士に」

 なるべく興味なさげにそう言う。
 包み込んだ小さな手のひらが、驚いたようにぴくりと動いた。井尾谷は戸惑うそぶりを見せる手をぎゅっと握りこんだ。にじむ汗がどちらの手汗かもわからない。

「そうだね」
「……ん」
「き、きっと見えちゃってるね」

 少女の声ははっきりと上擦って震えていた。
 自分以上に照れてどぎまぎしきっている声音に、井尾谷はどうにか余裕を取り戻していく。
 ひゅー、と風を切る音とともに、頭上で花火が打ちあがった。人々は一様に空を仰ぎ、夜に咲く花に見とれる。
 井尾谷だけは、自分より背の低い少女を見下ろし、それに見とれた。
 花火の光に照らされる瞳は、井尾谷に見つめられていることにも気づいていないだろう。

「きれいじゃ」
「うん。すっごくきれい」

 勇気を出したほめ言葉は花火に呆けた胸には何一つとして届いていないらしい。
 だからこそ言えるのだと、井尾谷はここぞとばかりに「呉で一番かわいいぞ」とつぶやいた。





1015/10/06:久遠晶