急かさないでよ
ドロップハンドルを強く握ると、路面の細かな起伏までが振動になって伝わってくる。ロードバイクの繊細な乗り味にはずいぶんと慣れたつもりだけど、踏み込めば踏み込むほど加速する感覚はまだまだ飽きそうにない。
「お前、ホンに遅いのう」
「うーるさい! 追い風なんだからしょうがないでしょ!!」
後ろからかかる退屈そうな声に私は大きく声をあげた。耳に当たる風がうるさくて、自然と声が大きくなってしまう。
私を風避けにしながら「トロトロ走っとんなよぉ」と文句たらたらの井尾谷がムカつく。
「ペダリングに無駄がありすぎるんじゃってお前。ちゃんと引き足使っとるか? 足だけで回すんじゃないぞ」
「や、やってるつもり……」
「やれとらんから遅いんじゃろ」
ズバッと切り捨てる井尾谷に遠慮はない。初心者相手なんだから、もう少し優しくしてくれても。後輩にもこんな言い方してんのかな。
いや、後輩にはもうちょっと優しいはずだな。私にだけなんだ、井尾谷の遠慮のなさは。
井尾谷とは、小学校からの縁だ。広島の地に引っ越したとき、新居のお隣が井尾谷の家だった。偶然にも同い年で小学校のクラスも一緒だったこともあって、当時は色々世話になった。
同じクラスになる度に「またお前と一緒か」悪態をつかれたのは懐かしい思い出だ。高校は違う学校だったけど会えば挨拶はするし部活の合間に遊んだし、そこそこ良好な関係だった。恋じゃなくて友達としてだったけど。
それが高校二年の半ばから急に、挨拶を無視されるようになりメールを送ってもアドレス不定で戻ってくるようになった。それが三年インターハイに集中するためだったと知ったのはすべてが終わったあとだ。
――許してくれとは言わんが、ちゃんと謝っときたかった。すまん。
絞り出すような声と強く握られた拳は、井尾谷の行為にどんだけ私が悩んだか知ってたからだろう。一時期井尾谷見るたびに半泣きだったからな。
許せるわけあるかと思いつつ、なんだかんだこうしてサイクリングしてる私はいったいなんなんだ。
「親友の弱味かなぁ」
「あぁ? なんか言ったか?」
「なんでもー!」
後方の井尾谷に私の呟きは聞こえない。聞かれていちゃあたまらない。
許す許さないで言えば許せないんだけど、誘われると断れないんだよなぁ……。と、友人にこぼしたら『だめんずウォーカー予備軍』と指をさされたことを思い出す。ほっとけ。
サイクリングロードの休憩所に差し掛かり、後方の井尾谷を確認しながら背中に手を当てて停止のサインを出す。
道のすみにロードバイクを止め、ベンチで一休み。
傍らの自動販売機でお茶を買った井尾谷が私にペットボトルを投げて寄越した。礼を言って一口のんだ。
「この一年の間に、お前がロードバイク乗っとるとは思わんかったぞ」
「今日の予定、デートだと思ったらサイクリングだったとは私も思いませんでした」
「『新しく出来た喫茶店行こうや自転車で』って言うたじゃろー」
「自転車がメインとは思わず」
待ち合わせ場所にサイクルジャージとヘルメット姿で現れた井尾谷には正直頬がひきつった。
いや、自転車って指定された時点で薄々気づいてたんだけどね。それでももしかしたらと思ってちょっと気合いを入れて化粧をして、期待もしてたんだ。万が一と考えて動きやすい服装にしていてよかった。
はぁ、とため息をつくと、ヘルメットを腕にかかえた井尾谷が弱ったように頭を掻いた。
「なんかすまん」
「いいよ。誤解した私が悪かった。井尾谷にそういうの期待するのがバカだったよ」
「その服似合っとる」
「ハイハイ」
取って付けたように言われてもまったく心に響いてこないんだなぁ。眉を下げてしょぼくれる井尾谷を見るのは面白いけれど。
部活を引退したため呉南のものではなく市販の黒いサイクルジャージを着た井尾谷は、どこからどうみてもロードレーサーの出で立ちだ。本気で自転車やってるのが、立ち振舞いから伝わってくる。
対する私は動きやすい服装とは言え、自転車に適した格好じゃない。ラフに自転車乗ってますというかんじで、井尾谷と並んで走るにはちょっと気が引ける格好だ。
「井尾谷のそれも似合ってるよ」
「ん。サイジャか」
「うん。自転車専用の勝負服ー! ってかんじで」
「ピチピチジャージってようバカにされるけぇ、そう言われるとこしょばゆいのう」
私の隣にどっかと座り込んだ井尾谷が、空を見上げる。雲ひとつない晴天とお日様が、見ているだけで熱い。だけどこれから徐々に寒くなり、冬に差し掛かるのだろう。
大学受験のこと思い出して憂鬱になってきた。胃を痛めて眉をしかめる私とは裏腹に、井尾谷はぼんやりと空を見つめている。なにを考えているんだろう。
「たまにはこうゆーんもええわ。この一年、猛練習ばっかじゃったからのー……」
呟きが風に浚われていく。私は、うん、と曖昧に頷いた。
猛練習の果ての最後のインターハイ。燃え尽きて精魂果てたあとなのだ。気が抜けてしまうのもしょうがない。
私は文化部だったので試合とかには縁遠いけれど、それでも一生懸命頑張っていたものが終わったあとの脱力には覚えがある。
「ま、気力しっかり充填してね。すぐ受験もあるし……大学行っても自転車は乗るんでしょ」
「うげっ、受験とかやなこと思い出させんな」
「やなことでも大事なことでしょ。勉強できてんの?」
「……」
「あー、今度一緒に勉強する?」
「頼むわ……。受かる気がせん」
「ランク高いとこ狙うからだよ。私にも大変なんだからきみにはきついでしょ」
「ほっとけ。そこがこの辺じゃ一番自転車強いし勉強したいこと勉強できんじゃって」
真っ先に出てくる理由が自転車かぁ。自転車バカなところは昔から変わらないな。
大学受験がよっぽど憂鬱なのか、井尾谷はがっくりと肩を落とした。井尾谷は工業高校だからなぁ。頭はいいんだけど。
足元に視線を落とすと、地面で蟻さんが列をなして歩いていた。うっかり踏んでしまわないよう足を浮かした。
「……それに」
「うん?」
「お前とおんなじとこじゃろ」
浮かした足がぼすんと地面に落ちる。
井尾谷の方を向くと、静かな瞳と目があった。凪いだ海のような、穏やかな目が私を見つめている。
膝に頬杖をついて私を見つめる井尾谷は、なにを考えているんだろう。
視線をはずしたいのにはずせなくて、心臓がどくどく高鳴っていく。
昔から井尾谷は目力がある男だ。細くて小さい目にじっと真面目な顔で見つめられると、息が詰まって気圧されてしまう。
顔が熱くなって、しどろもどろになってしまうのだ。
「そ、」
次の言葉が発音できなくて、つっかえてしまった。
「それなら、なおさら勉強しないとね」
声がひっくり返りそうになった。うまく笑えているだろうか。平静を装えているだろうか。
そうじゃな、と、独り言のように相槌を打った井尾谷がふいっと視線をはずした。おかげで私もやっと息ができる。
二人の沈黙を、そよ風が静かに撫でていく。なにを話せばいいんだろう。私は深呼吸をして気を落ち着かせる。
視線を下に落とすと、蟻さんの列はもう私の足を通りすぎていた。それをいいことに勢いよく立ち上がる。
「そ、それはともかく喫茶店行こうよ! お腹すいちゃった」
「」
ロードバイクに向かって数歩足を進めたところで呼び止められ、名前を呼ばれた。なにも悪いことしてないのにギクッとする。普段からおいとかお前などと呼ばれてばかりで、井尾谷に下の名前で呼ばれることなどあまりない。
「それ、この前の返事ってことでええんか」
ん? と井尾谷が小首をかしげて柔らかく笑う。さらりと揺れる長めの髪に天使の輪が広がる。そよ風が井尾谷の髪をすこしだけ膨らませて、すぐに戻る。どこを切り取っても、それはそれはかっこいいプロマイドになることだろう。
あ、やばい、心臓ばくばくして死にそう。
「……せ、かさないでよ。まだ保留!」
「そうゆーて二ヶ月経ってるぞ、あんま焦らすな」
「私は一年きみに無視されましたぁ」
「……それ言われるとなんも言えんわ」
困ったように井尾谷が頭を掻いた。
一年間の音信不通への謝罪のあと、間髪いれずに告白されたショックからまだ立ち直れていない。ここを逃せばもう二度と言う機会はない、と言わんばかりの井尾谷の迫力には気圧されたし動揺した。それは今も続いて、私の心をぐわんぐわんと揺らしている。
井尾谷も立ち上がって歩き出した。私を追い越す瞬間、手のひらを掠め取られる。そのまま手を引っ張られて、私も慌てて歩き出す。
え、これ、手繋いでるってやつでは。
ロードバイクまでの数メートルがイヤに遠くかんじる。
「お前、フォームがよくないんじゃろ。ロードバイク乗るとき、腕伸ばすんじゃなくてちょっと曲げて……」
ロードバイクのハンドルに、繋いだ手をそのまま導かれた。
あ、あぁ、フォームを教えるために私の手を掴んだわけね。ドキドキして損した。
真面目に説明してくれてる井尾谷には悪いけれど、さっぱり耳に入ってこない。自転車を指差してこちらをうかがう度に揺れる髪の毛と口元が気になって、そればかり注視してしまう。
そうやって見とれてしまうのだから、もう私は井尾谷のことを許しているし、恋に落ちてもいるんだろう。
でもそれを言葉で伝えるにはまだ時間と勇気が足りない。
だけど、まぁ、これからは一緒にいられるんだから、無理に急がなくてもいいはずだ。まずは同じ大学行けるよう頑張らないと。
前を走って私を引く井尾谷の背中は、細身の体に似合わず強健だ。
好きだよと呟いた囁きに反応はなかったけれど、井尾谷の耳は確かに赤くなった。聞き返されたら聞き間違いだと答えてやろうと心に決める。
今日も今日とて、幸せな一日だ。
2015/10/06:久遠晶