サイクリングショップでの逢瀬
住宅街の一角にあるその自転車屋は、なんともひっそりとしている。辛うじて道路に面しているから認知はされるが、駅から遠いため訪れる者は地域の人間しかいないだろう。相変わらずさびれとるな、と石垣は店の前で苦笑した。ロードバイクから降りて深呼吸。
「ごめんくださぁい」
「あら、石垣くんこんにちは」
店内で自転車を組み立てていた店主が、にこりと笑う。年若い店主はさびれた自転車屋には似つかわしくない。目を細めて嬉しそうに笑う口許に、石垣の心臓がどきりと跳ねる。
「今日はなんの用?」
「自転車のオイル買いたくて。ドライの。あとついでにブレーキ見てもらえますか」
「またオイル?この前も買わなかった?」
「後輩が切らしたって言うてたから、あげちゃったんですわ」
「先輩風ふかすのも大変ね」
意地悪く笑いながら、店主は石垣からロードバイクを受け取った。
スタンドにひっかけ掛け、ブレーキシューが磨耗していることを確認して交換に取りかかる。その様子を、石垣は気配を殺してじっと見つめてしまう。じっと車体を見つめる真剣な目元、柔らかそうなくちびる、オイルに汚れた短い爪を注視してしまう。
不意に店主の視線が石垣をとらえた。盗み見を誤魔化すように、慌てて視線を横に逃がす。
「些細なことでもよくここに来てくれるけど、基本的なメンテナンスのしかたは、わかってるのよね?」
「あ……はい、一応は」
とうとう言われた、と石垣は思った。
たまたま訪れたこの自転車屋で店主に一目惚れしてからというもの、無理矢理用事を作っては通いつめてしまっている。不信がられるのは当然だった。
勇気を出してデートにでも誘えれば、アプローチができれば石垣の態度もまた違ったろう。だが客と店員という立場が、石垣の一歩を重くさせている。
気まずそうに視線をそらして店の前に立つ石垣は、店主にはどう見えるのだろうか。
「この店、自分で言うのもなんだけど新規のお客さんが少なくてね」
「あ、はい」
急な話題転換に戸惑う。
「そのかわり常連さんにはよくしてもらってる。用がないのに喋りに来る人もいるぐらい……ま、それは個人経営店なら普通かもしれないけど」
「はぁ」
「だから、無理して用事作らなくてもいいのよ」
「へ?」
思わず返事はまぬけな声になる。それはどういう意味なのか。無理して用事を作らなくてもいい。常連は用もないのに喋りに来る。それは……つまり。
「すみません、迷惑でしたよね……」
「ああ違うのよ、そうじゃなくて。練習に疲れたときにでもいらっしゃい。お茶菓子ぐらいは出してあげるから」
「そ、それは……!」
はにかむ店主の頬はわずかに赤い。石垣の頬はそれ以上に赤い。にやけそうになる口元を、石垣は手のひらであわてて隠した。
――あかん、期待してまう……!
御堂筋はこんな自分を見たら『キモイ』と舌を出して笑うだろうか。友情や恋を全否定する後輩エースの反応が如実に浮かんだものの、いまの石垣には関係のないことだ。
よくも悪くも『純粋』な御堂筋のことを、石垣は肯定的にとらえていたが、自分がそれと同じ存在になれるかと言えば別だ。むしろ同じようにはなれないからこそ、思いを託すように御堂筋を見守りたいと思う。
「で、どうする? 時間あるなら、お茶沸かすけど」
「あ、いや……嬉しいですけど、練習なんで」
「ん、誘惑に打ち勝つことは偉大だわ。頑張ってね青少年」
店主の手がねぎらうように石垣の肩を叩く。断腸の思いで断る石垣の心中を知ってか知らずか、元気がいい。
ブレーキ交換の代金とオイル代を払い、自転車屋を後にする。
ロードバイクで風を切り裂いても、頬のほてりは鎮まらない。
――あっかん、雑念だらけやほんま俺……。
気を落ち着かせようと思っても、ドキドキ高鳴る心臓はせわしなく響く。
御堂筋が見たらキモイキモイと大声でまくしたてるところだろう。インターハイ前に名に浮足立っているんだと、石垣自身思う。
でもどうかいまだけはこの気持ちにひたらせてくれと、石垣は誰に思うでなく心のなかで祈った。
2016/08/05:久遠晶