サイクリングショップでの出会い

 どれだけ備えを万全にしても、不測の事態というものはやってくる。
 朝の点検の段階ではブレーキワイヤーもフレームのヒビもチェーンの調子も問題なかった。休日の長距離ライドの帰り――自宅まで残り20キロと言うところでロードレーサーのチェーンが切れたのは、完全に運と言う他ない。
 直前でペダルを踏む感触の違和感に気づいたから怪我はなかったものの、暗闇のなかで石垣光太郎は途方にくれた。
 20キロと言えばロードレーサーならば軽い距離だが、徒歩であれば果てがない距離だ。長距離を走り疲れたからだが、憂鬱でずっしりと重たくなる。

「ホンマついとらんわ……」

 ヘルメット越しに頭を押さえてため息をつく。
 確か近辺に自転車屋があったはずだ。記憶を頼りにロードレーサーを引いて歩く。数キロ歩いたところで自転車屋と出くわした。もう営業時間はとっくにすぎているが、半分だけ閉まったシャッターの隙間から光が漏れている。
 頼めば修理してくれるだろうか。石垣は恐る恐る自転車屋を覗き込んだ。

「すみませーん」
「……ごめんなさい、もう今日はおしまいなの……あら」
「チェーンが切れてもうて。家まで残り40キロなんですわ……どうにかお願いできませんでしょうか」
「ロードバイクか」
「はい」

 店の奥から出てきたのは年若い女性だった。指先をオイルで汚した女性は、石垣をじろりと見たあとふむと考え込むそぶりをする。

「いいわ。長距離ライド中にチェーンが切れると泣きたくなるわよね」
「ほんまですか!おおきに!」
「10分ぐらいで終わるから、そこに座っておいて」

 肩を撫で下ろす石垣に、女性は興味なさげに目を細めた。愛想のない店員だ。
 促されるまま石垣は休憩用の折り畳みの椅子に座り込んだ。修理の間手持ちぶさたになって、店内をぐるりと見回す。店のなかにしまわれている看板には『チェーン交換 2500円』と書かれている。手痛い出費だが、仕方あるまい。
 個人経営の小さな店だ。様々な自転車が所狭しと置かれ、壁にいくつも立て掛けられている。そのどれもがしっかりと磨かれ、乱雑な間取りに見えてもその実整然と整理されている。
 無言でじっとしているのも座りが悪くて、石垣は作業中の女性に話しかける。

「お姉さんが店切り盛りしてはるんですか」
「ええ。小娘のくせに、って思う?」
「そんなこと!」
「そう、ならいいけど。よく言われるのよね、若すぎるって」

 自転車のチェーンをはずしながらそう言われ、石垣は言葉につまった。この店の店主はつっけんどんで、すこし偏屈らしい。
 店主の年齢は20前半か後半か――石垣とさほど変わらない。不機嫌そうな表情で、店主は手際よく新しいチェーンを取り付けていく。その指先は乾いたオイルが染み付き、ガサガサだ。腕のいい自転車屋の指だ。

「……きみは、高校生? 自転車部かなにか?」
「あぁはい、インターハイ選抜のレースに向けて走り込みしてたんですけど……」
「あら! 大事な時期についてないわね。でも今日チェーン壊れたから当日は大丈夫よ、きっと」
「さよですね、そう思います」
「友達の高校生が自転車部なの。もしかしたら会ってるかも」
「へぇ、名前わかりますか」
「あきらって子なんだけど……目がくりくりしててかわいいの」
「いや、知りませんね、会っとらんと思います」

 他校の自転車部で、そんな名前は聞いたことがない。チームメイトである御堂筋がそんな名前だった気がするが、御堂筋は決してかわいらしい外見ではない。胸によぎった候補を、石垣は黙殺した。
 そう、と店主は無表情に呟いた。単に表情があまり動かないだけなのかもしれないな、と石垣は思う。店主は石垣のロードレーサーに視線を戻す。

「このロードレーサー、よく整備されているわね」
「大事な愛車やから当然ですわ」

 その言葉に石垣はなんとなくむず痒くなって、照れ笑いして頬を掻いた。
 ANCHOR車のロードレーサーは、中学の時からずっと使っていて愛着がある。
 小遣いをはたいて手に入れたそれが嬉しくて、毎日乗って毎日磨きあげた。今日まで続くその日課を見透かされた気がして、気恥ずかしい。ロードレーサーのフレームを慈しむように撫でる店主の横顔にドキッとする。

「ただタイヤのすり減り方が……走る時、右足に体重をかける癖がない?」
「ええっ。わ、わかるんすか」
「すこしなら。コーチに言われてるだろうけど、こういう細かいムダが後々大きな差になるのよね。……あとワイヤーがすこし伸びてる。調節しても?」
「あ、お願いします。パンクしたとき落車しかけたから、そのせいかも」
「落車しなくてなによりだわ。了解、じゃあこちらも調整するわね」

 静かな声が心地いいと石垣は思った。
 レンチを操作してブレーキワイヤーの張りを調節する店主を、じっと見つめてしまう。

「もしかしてお姉さんもロードレースやるんすか」
「昔はね。現役の頃に怪我して、それ以来やってないわ」
「落車ですか」
「きみも気を付けなさい」

 ワイヤーを調節し終えた店主が、長袖をめくって石垣に見せる。年月が経ち薄くなりつつあるものの、痛々しい傷跡が腕に残っていた。

「練習しすぎで乗れなくなったら元も子もないんだから」
「……肝に命じますわ。ホンマ」
「そうしなさい」

 深く頷きながら石垣が言うと、店主は穏やかに目を細めた。
 石垣のロードレーサーのサドルをぽふんとなでる。

「さて。整備終了よ。ブレーキもこれで平気だと思うわ」
「ありがとうございます。ほな、おいくらですか」
「千円でいいわ」
「え? でも看板には……」
「初回サービスってことで、お安くしとくわ。贔屓にしてね」

 くちびるを持ち上げた愛らしい笑みに思わずドキリとする。顔が熱くなるのがわかり、石垣は目をそらした。
 つり銭を渡されるときに指先が触れて心臓が跳ねる。
 インターハイ選抜レース、そのあとはインターハイ。引退レース。
 大事なレースがいくつも控えていると言うのに、実にあっけなく石垣は恋に落ちた。
 どうやってこの店に通う口実を捻出しようかと、ロードレーサーで夜道を帰りながら石垣は悩んだのだった。





2017:01/03:久遠晶